「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

ちいさこべのすがる 2006・03・07

2006-03-07 06:20:00 | Weblog
 今日の「 お気に入り 」は 、山本夏彦さん ( 1915-2002 ) のコラム集から 。

  「 東郷平八郎の名も乃木大将の名も今の子は知らないという 。教科書に出ていないからである 。

   けれども風のたよりで知っている人は多い 。

    名だけを知ってそれが何者だか分らないのは気になる 。父母がよく知っているのに全く知ら
   ないのも気になるから知りたい 。

    西郷隆盛はさすがに知らぬものはないが 、桐野利秋 篠原国幹 別府新助 以下は知る人が少い 。
   西郷隆盛の股肱である 。

    司馬遼太郎の小説があんなに読まれるのは 名のみを知って それ以上知らぬ ヒーローを紹介
   してくれるからである 。

    トルコやハンガリーでは 東郷平八郎 の名は今もとどろいている 。

    大国ロシヤを破った提督だからで 、いまだにロシヤに圧しられている両国では東郷は英雄
   なのである 。

    それを日本の子供が知らないのは 、ただ軍人だというだけで 教科書が抹殺したからである 。

    どこにネルソンを知らない英国人がいよう 。

    戦前の子なら知らぬものがなかった人物を 戦後の子が知らなければ 、親と子の話は通じ
   なくなる 。文章もまた通じなくなる 。

    伝承が絶えるということは一大事なのである 。

    戦前の小学生は日本中同じ教科書で習ったから 、親が知る人物なら子も知っていた 。

    軍人ばかりではない 。

    稗田阿礼 も 松下禅尼 も ちいさこべのすがる も知っていた 。

    ちいさこべのすがる は無類の子供好きで 、彼が出あるくと幼な子がとりすがったから
   ちいさこべのすがる と呼ばれたという 。

    国定教科書はこれまで非難されるばかりでどういう教科書か明らかでなかった 。

    粉川宏著『 国定教科書 』( 新潮選書 )はその実体を明らかにしようと試みたもので
   ある 。

    教科書論争は四十年続いていまだに結着がつかない 。

    けれども よい教科書と悪い教科書を見わけるのは わけはない 。

    前にも言ったと思うが 、何より 自分の国を陰に陽に悪くいう教科書ならよくないに
   きまっている 。

    それは常に『 良心的 』という仮面をかぶっているからご用心 。」


   ( 山本夏彦著「 世はいかさま 」新潮社刊 所収 )






  ついでながらの
  筆者註 :・「 稗田 阿礼 ( ひえだ の あれ 、生没年不詳 )は 、飛鳥時代から奈良時代
        にかけての官人 。『 古事記 』の編纂者の1人として知られる 。
        概 要
         稗田阿礼については 、『 古事記の編纂者の一人 』ということ以外は
        ほとんどわかっていない 。同時代の『 日本書紀 』にも 、この時代の
        事を記した『 続日本紀 』にも記載はない 。『 古事記 』の序文によれ
        ば 、天武天皇に舎人として仕えており 、28歳のとき 、記憶力の良さ
        を見込まれて『 帝紀 』『 旧辞 』等の誦習を命ぜられたと記されてい
        る 。元明天皇の代 、詔により 太安万侶 が 阿礼 の誦するところを筆録
        し 、『 古事記 』を編んだ 。 」
       ・「 松下禅尼( まつしたぜんに 、生没年未詳 )は 、鎌倉時代中期の女性 。
        鎌倉幕府の御家人・安達景盛の娘 。北条時氏の正室 。鎌倉幕府の第4代
        執権・北条経時 、第5代執権・北条時頼の母 。子は 他に時定( 為時 )、
        檜皮姫 、女子( 北条時定室 )など 。
        生 涯
         元仁元年( 1224年 )、六波羅探題となった時氏に従って上洛 。のちに
        鎌倉に戻り 、寛喜2年( 1230年 )の時氏の死後 、出家して実家の甘縄邸
        に住んだ 。『 徒然草 』184段に 、障子の切り貼りを手づから してみせて
        時頼に倹約の心を伝えたという逸話がみえ 、昭和期の国語教科書などにも
        取り上げられた 。
         時氏の早世後は 息子の経時や時頼の養育を務めた 。第8代執権・北条時宗は
        松下禅尼の 甘縄の邸 で誕生している 。
         没年は不明だが 、弘安5年( 1282年 )10月以前には死去している 。 」
       ・「 少子部蜾蠃( ちいさこべのすがる )は 、『 日本書紀 』、『 日本霊異記 』
         に見える 雄略天皇時代の豪族 。『 少子部栖軽 』もしくは『 小子部栖軽 』
         と書かれることもある 。『 多神宮注進帳 』によれば 、多武敷の子 、多清
         眼の弟 とされる 。
         名 称
         『 蜾蠃 』( スガル )とは 、『 万葉集 』巻第九1738の長歌に『 腰細のすが
         る娘子 』とあり 、腰の細い 似我蜂 を指す 。『 少子部 』は『 子部( 児部 )』
         と同様に 、天皇( 大王 )の側近に仕える童子・女孺らの養育費を担当する
         品部であろうと思われ 、『 釈日本紀 』も同様の説をとっている 。小子部連氏
         は 、『 古事記 』の 神武天皇 の項目や『 新撰姓氏録 』では 、神八井耳命の
         子孫となっており 、天武天皇13年( 西暦685年 )に『 宿禰 』の姓を賜っている 。
         経 歴
         『 日本書紀 』雄略天皇六年三月の条( 推定462年 )に 、后妃への養蚕を勧め
         る雄略天皇から 日本国内の蚕( こ )を集めるよう命令されたが 、スガルは
         誤って児( 嬰児 )を集めてしまった 。雄略天皇は大笑いして 、スガルに
         『 お前自身で養いなさい 』と言って 皇居の垣の近くで養育させた 。同時に
          少子部連 の姓を賜った とある 。 ( 後 略 )             」
        以上ウィキ情報 。面白いなあ 。
コメント
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