「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

帰雁 2006・03・25

2006-03-25 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「属目という字はよく見るが、私はめったに使わない。どういうところで見るかというと、俳句の雑誌で見る。俳句の雑誌は『ホトトギス』をはじめ沢山あるが、私の知っているのは『春燈』である。」

 「春燈の女流には鈴木真砂女がいる。この人の句はいくつかおぼえている。

  御身思ふこといかばかり雁かへる

 真砂女は安房鴨川の人で、その海岸の大きな宿屋の女あるじだった。ご亭主でない男を思い思われて、夫婦別れして家を捨て今は銀座で『卯波』という名の小料理屋を出している。卯波は卯月のころ立つ波のことだという。銀座へ出て久しくなるが、真砂女は故郷忘じがたく、小料理屋にこの美しい名をつけたのである。心に波立ち騒がぬ日とてはなかったのだろう。
むかし私はこの春燈に、何度か短文をのせてもらったことがある。題のつけようがないので『日常茶飯事』とつけた。『室内』連載の日常茶飯事は、この題を踏襲したものである。
 その縁で私はこの春燈の寄贈を受けている。私はこの雑誌のよき読者ではないけれど、それでも二十なん年その句を見ていると、見ず知らずの真砂女のこれだけの有為転変が分るのである。
 けれども、この句を特におぼえているのは、小説めいた文章に私が無断でこれを借りたことがあるからである。それは夫のある女に送る恋の手紙である。怪しまれてはならないから、手紙には月並な字句だけを並べてある。ただ最後に突然、御身思ふこといかばかり雁かへる――いつぞやお問合せの句の作者は安房の鈴木真砂女でした。思いだしましたからお知らせまで云々と書いて結んだのである。」

 「属目はしょくもくと読んで、よく見る注目することをいう。俳句のほうでは席題でなく、目にふれたものを吟じることをいう。句会でいくつか題が出てその他属目いっさいとあれば、その題以外にいま眼前を去来するものを詠んでいいというほどのことである。」


   (山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)
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