今日の「お気に入り」。
「 ご存知の通り私たちはしばしば写真で見る。仔馬は早く一人前の馬として生れ出る、すでに
全身毛に被われている、湯気が立つほど濡れているが、生れると同時に脚ふみしめて立とう
とする、何度か試みてまもなく立つと、今度は歩もうとする、その姿は感動的である。
それに引きかえ人の子は文字通り赤子である。ただ泣くだけで目も見えない。歩むことはお
ろか立つ努力もしない。初めからその気がないのは、努力しても立てっこないと知っている
からである。母親が抱いてくれるものと待っている。抱いてくれなければ次第に泣く声は衰
えてやがて死ぬ。捨て子である。
十月十日(とつきとおか)で生れるのが普通という。馬はすでに馬として生れるが、人は人と
して生れない。全くの未熟児として生れる。
まる一年余りでようやく立つが口はきけない。片ことを言うと親は狂喜するが、その一年間、
いや胎内にいる時から母はたえず雨あられと語りかけている。
聞くともなしに胎児は聞いて、出産後の一年は同じくこんどは母親だけでなしに他人のあや
す言葉、飽きると母と他人が話しあっているのを聞いていたのである。自分そっちのけで大
人同士打ち興じているとむつかるのを見ると、人は永遠に自己中心でないと機嫌が悪い
のだなと分る。
赤んぼは早く生れすぎたのである。馬の仔のように生れるにはあと一年は胎内にいなければ
ならないのに、それではながすぎると造化の神は追いだしたのである。そのかわり赤子は母
の言うことならすべて理解したのである。母と他人の話の何割かも理解したのである。理解
に余ると自分が疎外されたとむつかるのである。または眠るのである。
赤子の片こと、あれは氷山の一角で、その水面下の言葉は片ことの何倍あるか親どもは知ら
ないのである。私も想像するだけでどれだけか知らない。
(『文藝春秋』平成十三年七月号)」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)