
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。
「うろおぼえで恐縮だが、それは内田百先生の随筆で『これは何ですか』『……』『なかにはいっているのは何ですか』『……』と次第に問いつめ、とうとう何枚かの紙幣だと白状させ、この歳になってかかる恥辱にあおうとは、と天を仰いで浩嘆(こうたん)するありさまを描いて抱腹絶倒である。
百先生にとっては、後日改めて礼にくるか、こないまでも礼状でも届くならまだしも、じかに金銭を手渡すとは仰天すべき失礼だから、型のごとく仰天して、しばらく問答したあげく、ようやくその一封を懐中してめでたく落着(らくちゃく)するのであるが、そのおかしみはもうわかりにくくなっている。
初めてラジオの座談会に出たとき、私はこれに近い思いをした。座談会が終ると、各人に金一封がくばられ、『恐れいりますがご署名を』といわれた。領収書が同封してあるから、金額を改めて署名せよというのである。
見わたせば、さすがに改めるものはなく、そそくさと署名して、そそくさと去るから、私もそれにならったが、ずい分失礼な仕打ちだと思うと同時にそれに従った自分に羞恥をおぼえた。むかし読んだ百鬼園随筆を思いだしたゆえんである。
聞けば大阪では、指にツバして一々改め、『たしかに』といって署名して、持参の印形を捺すものが多いという。どうせ破れかぶれである。今では大阪式のほうがいいように思われる。
伝統あるNHKでさえ、ここで客に恥辱を与えたとは思っていないのだから、念のためにいうと、以前は自分の商売で金を得るのは当然だが、本職以外で金を貰うのは恥だったのである。今は貰うどころか、その多寡を論じる。大阪人はその場で、東京人はかげで――たとえばNHKを『日本薄謝協会』と呼ぶことがあるがごとしである。
以上は言葉はすべて売買されているといいたいために書いたのである。印刷された言葉はもとより、しゃべった言葉にまで支払われるなら、この世に売り渡されない言葉はない。われわれは商品としての言論しか読むことができない。聞くことができない。それでいて皆さん平気である。
このごろ言論の自由が論じられる。それはこの売られた言葉の自由のことか、そもそも売られた言葉に自由があるのか、それともまだ売られない言葉がこの世にあるのか、あるいは言論の売買そのものがけしからぬと、さかのぼって論じるのか定かでない。定かでないのは、宴はててのち、各人に配られた額の多寡をいう彼ら(またわれら)が、論じるためかと思われる。
〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)
