
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。
「昔から小説はその義務を負っている。フィクションで客を喜ばせ、本音はかくしている。読者はフィクションを喜んで、本音に気がつかない。気がつかないのは縁がないからで、あれば気がつく。
詩人、絵師、役者も似たようなもので、戦前は王侯貴族というパトロンにかかえられていたから、その機嫌をとった。ぼんくらは終始機嫌をとったが、胸にいちもつある芸人はほめると見せて悪くちをいって、それが当人にはわからぬようにした。当の王様また大名だけでなく、家来にもわからぬようにした。家来というものは、主人に媚びていいつけたがるものだからである。
面従腹背は言論の常である。言論の自由はなかった。今はあると思うなら早合点である。昔はパトロンは一人だった。その一人および取巻きの気にいればよかった。
今はパトロンは大ぜいである。一人の王は殿様は、分散して無数になってしまった。その無数に気にいられなければならなくなった。
王や諸侯は、まれに学芸が好きで、優雅であり得るが、テレビの見物はあり得るだろうか。してみれば、大ぜいがこぞって悪くちをいうとき、遅ればせながら共に言う自由はあっても、率先して言う自由は、昔もなかったし今もない。言論の自由とはそういうものだと、かねて私は思っている。
〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

