今日の「お気に入り」。
「しかし最上のやり方は逃げ出すことだ。転校である。『孟母三遷(もうぼさんせん)』という言葉さえ知らない人が多くなったから、逃げ方もわからなくなったのだ。しかし『孟母三戦』という考え方もある。アメリカの西部劇ではないが、戦いの基本は自衛なのである。日本国家は、『平和憲法なるものを遵守(じゅんしゅ)して』アメリカの核の傘の下にいて守ってもらえれば、軍備もいらない、という人もいるが、一般的にこの地球上の力関係は自分の身は自分で守るということで成り立っているのである。だからいじめっ子に対しては、いじめられる子当人とその家族、親しい友だちが、組んで戦う他はない。マスコミも学校も、昔から卑怯(ひきょう)なものであった。戦争中は軍部に就(つ)き、戦後は掌(てのひら)を返したように民主主義を謳(うた)った。私の学校は例外だったが、そんな抵抗の精神を持っていた教育機関は、決して多くはなかったろう。(中略)
しかし一番みじめなのは、いじめる側である。品性が賤(いや)しく貧しい。まさに『下流社会』の精神構造なのだろう。改めて言っておくが、収入の面で下流のレベルでも、精神において高貴な人にはいくらでも会うことができる。反面、物質的には『上流社会』でも、精神においてゆすりたかりの生活をしている人もいるらしいことは、新聞を見ればすぐわかることだ。
誕生日のケーキを買って来い、の、上納金まがいの金を出せ、のという。『汚い、臭い』と鼻を摘(つま)んで見せる。こういう子供は第一愚かなのだ。人間はすぐ臭くなり、汚くなる。アフリカの田舎には、為政者が無能なために貧困から抜け出せず、臭くて汚い子がいくらでもいる。病気を放置され、やせ細っている子供もいくらでもいる。汚いことや臭いことは、ごく自然の人間の姿だと教えてやる親も教師もいないのだ。特に臭いだけで嫌うというような反応の単純さは、親の生き方、ものの見方を反映している。そしてこのような表面的な人間関係しか考えられない子供は、本来なら学問をする資格もないのである。
そんな愚かな相手にいじめられたくらいで死ぬことはない。いじめられたら、いじめた子の方を、一日中指さし続けたらいいのだ。死ぬくらいなら、死ぬ気で闘争ができるはずである。
〔出典:曽野綾子著『貧困の僻地』新潮社〕」
(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)