アランという人がいました。
この方は、「幸福論」で有名なのですが、また高校の先生で生涯を過ごした方でもありました。1868年フランスのノルマンディ地方に生まれ、24歳で高等師範学校を卒業し、以降ずっと高等中学校の先生をされ65歳で引退。著述に専念し、79歳ではじめて結婚し、83歳で亡くなりました。
アランは、(本名は別にあります)華やかさのないいたって渋い人です。著述はたくさんありますが、目立とうとか、売り込もうとはまったくなかった人です。世俗的に生きないで、自分が考えるとおりに、読み、書き、考え、生きました。自分の思想のとおりに生きました。わたくしもまねをしたいのですが、なんと言ってもその肝心かなめの思想というものが全くなく、とてもとても遠くからあこがれの目で見ているしかありません。勉強を続けるしかないようです。所詮、懶惰な人間ですから。
そのアラン思想の一端が「幸福論」です。
文庫本でも売っていますので、是非とも一読を勧めたいのです。
というのも、彼の本はまるでブログのようになっているからです。
アランの表現スタイルは「プロポ」と呼ばれる短いエッセー形式に特長があります。
彼にとって、プロポは自己との対話であり、日記であり、メモでありました。返事を待たぬメッセージでした。
もうここまで書くと、ブログと似ているということになります。
ちょっとおもしろい文章を紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『人間論』
生徒の勉強は性格にたいする試練であって、知性にたいするものではない。
『人間論』
どんな勉強をするにしても、うまくやろうといった欲望がまずはじめにすり切れてなくなってしまわなければならぬとまで極言しうる。
『教育論』
私は記憶力は勉強の条件ではなくて、むしろまさにその成果だと信じている。
『教育論』
重要なのは気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである。
『教育論』
はじめはゆっくりやってだんだん速くやるというしかたは実はまちがいのもとであるから、こういうやり方はしないで、つねに大急ぎでやって簡単な問題から複雑なものへと進むことが必要なのである。
『教育論』
肝心なのは、読むことを学ぶこと、そして同時に考えることを学ぶことであり、しかもけっしてこの両者を互いに切りはなさずにである。
『教育論』
だれでも聞きながら学ぶのではない。学ぶのは読みながらである。
『教育論』
生徒たちは聞きながら学ぶという習慣を身につけてしまっている。少なくとも彼らは、それで学んでいるのだと思いこんでいる。それに彼らの両親たちも同様で、言葉につまるようなこともなく一時間でも話しつづけることのできるきわめて博識な人の話を二度か三度聞くと、もう彼らは自分の教養のためにたいしたことをしたと思いこむのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幸福論からは抜粋していませんが、ここに紹介した短文は在校生諸君にも参考になるのではないかと思っています。学習スタイルの構築において。
特に聞くだけの受け身の学習ではしょうがないのです。
そんなことを思っていますので。
学級通信をブログでやっておられる先生も多いようです。
世間は広い。
アランのような、偉大な哲学を構築されていく先生が中にはおられるのかもしれません。
老兵のささやかな楽しみです。
また明日。
この方は、「幸福論」で有名なのですが、また高校の先生で生涯を過ごした方でもありました。1868年フランスのノルマンディ地方に生まれ、24歳で高等師範学校を卒業し、以降ずっと高等中学校の先生をされ65歳で引退。著述に専念し、79歳ではじめて結婚し、83歳で亡くなりました。
アランは、(本名は別にあります)華やかさのないいたって渋い人です。著述はたくさんありますが、目立とうとか、売り込もうとはまったくなかった人です。世俗的に生きないで、自分が考えるとおりに、読み、書き、考え、生きました。自分の思想のとおりに生きました。わたくしもまねをしたいのですが、なんと言ってもその肝心かなめの思想というものが全くなく、とてもとても遠くからあこがれの目で見ているしかありません。勉強を続けるしかないようです。所詮、懶惰な人間ですから。
そのアラン思想の一端が「幸福論」です。
文庫本でも売っていますので、是非とも一読を勧めたいのです。
というのも、彼の本はまるでブログのようになっているからです。
アランの表現スタイルは「プロポ」と呼ばれる短いエッセー形式に特長があります。
彼にとって、プロポは自己との対話であり、日記であり、メモでありました。返事を待たぬメッセージでした。
もうここまで書くと、ブログと似ているということになります。
ちょっとおもしろい文章を紹介しましょう。
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『人間論』
生徒の勉強は性格にたいする試練であって、知性にたいするものではない。
『人間論』
どんな勉強をするにしても、うまくやろうといった欲望がまずはじめにすり切れてなくなってしまわなければならぬとまで極言しうる。
『教育論』
私は記憶力は勉強の条件ではなくて、むしろまさにその成果だと信じている。
『教育論』
重要なのは気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである。
『教育論』
はじめはゆっくりやってだんだん速くやるというしかたは実はまちがいのもとであるから、こういうやり方はしないで、つねに大急ぎでやって簡単な問題から複雑なものへと進むことが必要なのである。
『教育論』
肝心なのは、読むことを学ぶこと、そして同時に考えることを学ぶことであり、しかもけっしてこの両者を互いに切りはなさずにである。
『教育論』
だれでも聞きながら学ぶのではない。学ぶのは読みながらである。
『教育論』
生徒たちは聞きながら学ぶという習慣を身につけてしまっている。少なくとも彼らは、それで学んでいるのだと思いこんでいる。それに彼らの両親たちも同様で、言葉につまるようなこともなく一時間でも話しつづけることのできるきわめて博識な人の話を二度か三度聞くと、もう彼らは自分の教養のためにたいしたことをしたと思いこむのである。
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幸福論からは抜粋していませんが、ここに紹介した短文は在校生諸君にも参考になるのではないかと思っています。学習スタイルの構築において。
特に聞くだけの受け身の学習ではしょうがないのです。
そんなことを思っていますので。
学級通信をブログでやっておられる先生も多いようです。
世間は広い。
アランのような、偉大な哲学を構築されていく先生が中にはおられるのかもしれません。
老兵のささやかな楽しみです。
また明日。