昨日の記事で藤原和博先生の新書を買うことができなかったということを書きました。
このところ考えていたテーマがあって、なぜ大人は大人になりきれないのか?ということをずっとやっていましたから。一冊のノートにテーマ別に抜き書きをすることで、追求テーマが決まるのです。楽しい作業です。またどっかに書かせていただいたりして。
結局インターネットで書籍を注文しました。コンビニにくるでしょう、今週末には。
藤原先生の書籍からは、子どもが子どもっぽいことを言ったり、行動してもそれはそれでいい。しかし、どうも現実は大人の方に問題がありはしないかということでした。だから購入する気になったわけです。
しかしです。
世間的には大人になりきれない大人が存在するのではないかと思うからです。
見栄えや、一瞬の人間関係だけを話題にしているからです。
表象と言ってもいい。側面しか見ていない。
あらゆることを消費することでしか考えられないということです。
金を支払ったら、その対価を求める。
すべての人間関係が需要と供給でしか考えられない。
これは非常に寂しいことです。
学問の世界にそんなことがあってよいのでしょうか。
士道ということを小さい頃から教わってきました。
たいしたことはないのですが、少なくとも相手を無視して行事を組んだり、自分の世界に引きずり込んだりしたことはありません。
挨拶をするということはそういうことです。
例えば、なにかの会を企画したら、企画者の都合に相手があわすべきだとしてはなりません。相手の都合を聞くことが挨拶というのです。最初にやるべきことです。世間的にはこのことにとてもうるさい方々もおられますよ。いろいろあるんです、人間には。
また、予約なしに相手と会ってくれというのは社会人としてはいかがなものか。
いつでも最優先で会うべきだというのでは、天下の暴論であります。
そんなこともできないようでは、最悪のマナーであります。
少なくとも事前に連絡をすべきです。
原稿書きで忙しい人もいるし、こちらの思い込みでどうせ暇なんだろうとかやってはいけませんぞ。暇なのは自分ばかりという可能性もあるのですから。平等というのは、自分のレベルと相手のレベルが同じだろうという予測ではないのですよ。世間には自分のレベルをはるかに超えた方々がたくさんおられるのです。だから他人に学べるのです。人を見たら**にしか見えないというようでは、所詮、自分もその程度であります。他人に学ぶことです。謙虚に。わたくしは、路傍の雑草の生え方にも学ぶことがあります。いかにクルマに(他人に)踏みつぶされないで生存できるかというテーマについて学べるんです。ツバメの飛び方にも学べます。ツバメさんはおよそ衝突ということを知らないのではないかと思うからです。もうわかったでしょうが、これは世間智の一部でもあります。
つまらんことですが、ね。でも世間智ということでは、あの森おう外先生ですら著書を書いておられます。(※文字化けするようですからひらがなにしました) 軍医という職業を続けながら、小説を書いておられた。大事なことです。(「森おう外の『智恵袋』 講談社学術文庫」)
つまり世間智という、それが社会マナーというんですよ。他に学ぶということですよ。
県銚時代にそれを覚えてくださいね。
未成年者とは「労働し生産することではなく、消費を本務とする人」(『大人のいない国』)のことです。
この考え方に沿う限り、経験したことのないことを、無価値なものとして視界の外に追いやってはなりませぬ。しかし、こういう考えでは、わたしたちが自己の限界に気付き、未知なる可能性の荒野に踏み出すことはほとんどありません。つまり、わたしたちは「成長しないまま老いていく」しかありません。これが、今日の最も言いたいことです。
年齢しか自慢できるものがないようでは、これは寂しい。どっちが年上か、年下かということしか気にしない大人も多いのですがね。笑ってしまいますが。
人は年を取れば取るほど、多重人格化していくのです。
単純で理解しやすいようではいかんのです。
もっとも、突っ込んだ話をすると何もない人もおられます。
ゴルフの話しかできないとか。
徹底的に愚昧なわたくしはそれすらできませんが。金と力もありませんし。
(^0^)/
単細胞的に、すぐに善悪を分けたがる現代のジャーナリズムは、日本の非大人化傾向を助長しているとしか思えません。
「一筋縄ではいかない」のが大人だし、「よく分からない」のが大人です。
自分の側の価値基準で判断してはなりません。思わぬ深みを持っているのが成熟した大人なのです。
複雑で矛盾に満ちた状態をまるごとそのまま受け入れることが成熟への第一歩だと思うこと「も」あるからです。
テレビの世界だけが唯一なのではありません。
映像文化の根拠には疑いを持って接すべきです。けっこう簡単な根拠で制作している場合もあるようですから。
デカルトも言いましたように、いったんは疑ってみることから学問はスタートしますよ。
わたくしもその理論を応用して動画を作っているのかもしれませんぞ。
(^0^)/
また明日。
期末試験頑張りなさいませ。
このところ考えていたテーマがあって、なぜ大人は大人になりきれないのか?ということをずっとやっていましたから。一冊のノートにテーマ別に抜き書きをすることで、追求テーマが決まるのです。楽しい作業です。またどっかに書かせていただいたりして。
結局インターネットで書籍を注文しました。コンビニにくるでしょう、今週末には。
藤原先生の書籍からは、子どもが子どもっぽいことを言ったり、行動してもそれはそれでいい。しかし、どうも現実は大人の方に問題がありはしないかということでした。だから購入する気になったわけです。
しかしです。
世間的には大人になりきれない大人が存在するのではないかと思うからです。
見栄えや、一瞬の人間関係だけを話題にしているからです。
表象と言ってもいい。側面しか見ていない。
あらゆることを消費することでしか考えられないということです。
金を支払ったら、その対価を求める。
すべての人間関係が需要と供給でしか考えられない。
これは非常に寂しいことです。
学問の世界にそんなことがあってよいのでしょうか。
士道ということを小さい頃から教わってきました。
たいしたことはないのですが、少なくとも相手を無視して行事を組んだり、自分の世界に引きずり込んだりしたことはありません。
挨拶をするということはそういうことです。
例えば、なにかの会を企画したら、企画者の都合に相手があわすべきだとしてはなりません。相手の都合を聞くことが挨拶というのです。最初にやるべきことです。世間的にはこのことにとてもうるさい方々もおられますよ。いろいろあるんです、人間には。
また、予約なしに相手と会ってくれというのは社会人としてはいかがなものか。
いつでも最優先で会うべきだというのでは、天下の暴論であります。
そんなこともできないようでは、最悪のマナーであります。
少なくとも事前に連絡をすべきです。
原稿書きで忙しい人もいるし、こちらの思い込みでどうせ暇なんだろうとかやってはいけませんぞ。暇なのは自分ばかりという可能性もあるのですから。平等というのは、自分のレベルと相手のレベルが同じだろうという予測ではないのですよ。世間には自分のレベルをはるかに超えた方々がたくさんおられるのです。だから他人に学べるのです。人を見たら**にしか見えないというようでは、所詮、自分もその程度であります。他人に学ぶことです。謙虚に。わたくしは、路傍の雑草の生え方にも学ぶことがあります。いかにクルマに(他人に)踏みつぶされないで生存できるかというテーマについて学べるんです。ツバメの飛び方にも学べます。ツバメさんはおよそ衝突ということを知らないのではないかと思うからです。もうわかったでしょうが、これは世間智の一部でもあります。
つまらんことですが、ね。でも世間智ということでは、あの森おう外先生ですら著書を書いておられます。(※文字化けするようですからひらがなにしました) 軍医という職業を続けながら、小説を書いておられた。大事なことです。(「森おう外の『智恵袋』 講談社学術文庫」)
つまり世間智という、それが社会マナーというんですよ。他に学ぶということですよ。
県銚時代にそれを覚えてくださいね。
未成年者とは「労働し生産することではなく、消費を本務とする人」(『大人のいない国』)のことです。
この考え方に沿う限り、経験したことのないことを、無価値なものとして視界の外に追いやってはなりませぬ。しかし、こういう考えでは、わたしたちが自己の限界に気付き、未知なる可能性の荒野に踏み出すことはほとんどありません。つまり、わたしたちは「成長しないまま老いていく」しかありません。これが、今日の最も言いたいことです。
年齢しか自慢できるものがないようでは、これは寂しい。どっちが年上か、年下かということしか気にしない大人も多いのですがね。笑ってしまいますが。
人は年を取れば取るほど、多重人格化していくのです。
単純で理解しやすいようではいかんのです。
もっとも、突っ込んだ話をすると何もない人もおられます。
ゴルフの話しかできないとか。
徹底的に愚昧なわたくしはそれすらできませんが。金と力もありませんし。
(^0^)/
単細胞的に、すぐに善悪を分けたがる現代のジャーナリズムは、日本の非大人化傾向を助長しているとしか思えません。
「一筋縄ではいかない」のが大人だし、「よく分からない」のが大人です。
自分の側の価値基準で判断してはなりません。思わぬ深みを持っているのが成熟した大人なのです。
複雑で矛盾に満ちた状態をまるごとそのまま受け入れることが成熟への第一歩だと思うこと「も」あるからです。
テレビの世界だけが唯一なのではありません。
映像文化の根拠には疑いを持って接すべきです。けっこう簡単な根拠で制作している場合もあるようですから。
デカルトも言いましたように、いったんは疑ってみることから学問はスタートしますよ。
わたくしもその理論を応用して動画を作っているのかもしれませんぞ。
(^0^)/
また明日。
期末試験頑張りなさいませ。