と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

今日も、国語表現と日本史の

2009年09月29日 22時06分01秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日も、国語表現と日本史の授業を見させていただきました。
 熱心によく勉強しています。
 感心しました。

 修学旅行も近いので、日本史の平安京の授業には興味を持ちました。
 二年生でしたし。
 当該学年ですから。

 どのように受け止めているのでしょうか。平安時代を。
 在校生諸君は。

 こころの中までは踏み込めませんからね。




 翁問答を読んでいました。

 その前に、月刊高校教育の10月号を。
 進路指導の記事で、高校は通過点か?というような記事でありました。ことの真相は別として、それを知るにはこの教育誌を読んでいただきたいのですが、大学ですら今じゃ、就職のための通過点なのかしらんと記事から感じた次第です。それに現代の親子関係の在り方にも言及しておりました。これもまた痛快でありました。

 これ以上は書きません。

 そして、冒頭の翁問答に戻ります。
 そこに今日読んだ教育の実情と寸分違わぬ実態が書いてあったのです。
 
 マインドマップ法で読書ノートをつけていきますので、右脳で読んでいると揶揄されますが、それはともかく大昔から教育問題は変わっていないのであったと感じた次第です。

 一カ所だけ紹介しましょう。
 子孫の教育という部分です。
 さしあたりの苦労をいたわって、子の願いのままに育ててしまうのを姑息の愛というと中江藤樹先生は言われる。しかも江戸時代の先生が。
 子にそれを十分に教えないのは不孝の第一とまで。
 家を興すのも子孫、家を破るのも子孫。
 子孫の道を教えないで繁昌のみ願うのは・・・・

 時代的制約がありますから、鵜呑みにはできませんが、聞くべき考え方であるのかもしれないと思った次第です。

 

 師を求めて、東北の寒村から古里を出でて、依然としてできの悪いわたくしであります。とうとう現象界では本当の師匠には巡り会えませんでした。未だに、です。わたくしに徳がないからです。師匠もなければ、弟子もない。ないないづくしであります。
 ですから独習に頼るしかありませんでした。
 自分で生きるしかなかったわけです。
 ここまで来てしまった以上、甘受するしかありません。

 そこで気がついたわけです。
 気ままにわがままを通してしまったのだということに。

 姑息の愛の反対。苦労は買ってでもしろ、を地でいってしまいました。

 しばらくは藤樹先生に学ぶしかありません。

 楽しみでもありますが。


 また明日。
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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高齢\(^_^)/