弱者にとっては世間は冷酷である。
このことは身に染みている。確かにそうである。さらに、オレのような庶民はあくせく働くより他はない。いつの時代でも庶民は働くより他はなかった。室町時代でもそうであったのだ。室町の人々は、田楽とか、能狂言とか遊びほうけていたと思われがちであるが、けっしてそんなことはなかったからである。いつの時代でも、苦しむのは庶民であり、弱者である。
そういう苦しみの現実と闘うには、武器がいる。それが思想・哲学である。世の中をす~い・す~いと泳いで行くことができるんだったら、思想・哲学なんて不要であろうが。さらに、そんなもの全部わかっておるわいという自称秀才様である。この人等にはそんなもん必要がないだろう。さらに、エコノミック・アニマルである。まさに、アニマルである。動物である。メリット、デメリットだけで生きる。畜生道である。強者はだから強いのである。
わははである。
されどどんなに弱者であっても、太鼓持ちだけはやらんほうがよろしい。いくらごまを擂っても、世間は弱者の味方はしないのだ。それにそんな生き方をすれば、卑屈であるだけに、自己嫌悪に陥るのが関の山である。だから武器を持った方がよろしい。それも、本当の武器では無い。
ちょっと視点をズラして見ればいいだけである。
もうちょっと言えば、世間を客観視して見ればいいだけのことである。
強者に対しては、世間は遠慮する。強者を叩くというようなことはしない。考えてみれば、世間を維持しているのが強者である。甘い汁を吸って生きているのが、強者。だから、世間は叩かない。それでも、最近はマスコミがいろいろやるようだし。このインターネットでも好き放題だけれども。(オレもそうか)
逆に、言いたい。
オレのような弱者こそ、我々は弱者だと自覚すればいいのだと。なんの権力もないし。腕力もない。カネもない。ナイナイついでに髪の毛もない。(^0^)
弱者だと自分を規定したヒトは、世間を信用しなくなる。これが大きなパワーになる。世間に踊らされるということが無くなる。
ころころころころと変わる世間が信用できるのかね?流行していたことが、ドンドン廃っていくではないか。もったいないという言葉も聞かれなくなってしまったし、戦前にぜーたくは敵だと言っていて、戦後の狂乱はなんだったのか。最近での政治状況もそうだった。流行オンリー。
都合が悪くなるとどんどん変わっていく。
世間の奴隷にはなりたくないですなぁ。
日曜から、今日にかけて、政治状況の変化があったから余計そんなことを考えたのだ。
世間をちょっと変えて見てみることで、いろいろなことがよーく分かることになる。さらに、世間というものの中でしか生きられないという方も多い。
昔から疑問に思っていたのが、葬式。会社関係で、まるで職務命令のように行く人も多い。本当に、別れが惜しい、哀しいというヒトだけが行ったほうがよろしいのであって、社長の奥さんの葬式に出ないとその後の査定に響くから行くけど、当の社長本人が死んだら誰も行かないという冗談は、本当だろうなぁと思う。それだけ、葬式が世間になってしまっているんだと思う。
世間、世間とそれだけを気にしている生き方ってぇのも寂しいもんですわなぁ。
自由になりましょうよと申し上げたい。
楽しみで生きて生きましょうと。
目的を持って、バリバリバリバリやっていたって、そんなもん・・・・・とか、人生に生きがいを求めて、病気になるほど稼いで、そんなもん・・・・と、モームの「人間の絆」ではないけれど、思ってしまうのである。
カネのために生きるのではござんせん。
生きるために、稼いでいるんであって、生きるってことは、もっともっと価値の高いことであるのかもしれないと思いますから。
(^_-)-☆