学校秀才(受験秀才)の陥りやすい欠点というのがある。
あ、ちなみにこういうことを書けるのは、と~まが自称・他称ともに最悪の劣等生であるからである。最初にこれを断っておきまひょ。
学校秀才(受験秀才)というのは、問題を解くときに、出題者の思うとおりに回答をする傾向がある。小論文にしてもそうである。出題者の考えることがよくわかるからである。だから自称他称秀才と呼ばれるわけである。それは間違いがない。愚生の出身高校に、この手の学校秀才(受験秀才)がたくさんいたからである。体験しているのである。
それは何か?
小論文でいえば、出題者の求めているところがわかっているから、そこそこの文章しか書かないのである。こんなんでいいか、こんなんでどうせ合格だろうと思ってしまうのである。そこそこ症候群とでも言うのだそうだ。誰だったか、作家が言っているのだけど。
だから、ワンパターンになっているし、読んでいておもしろくない。
もっと言えば、根底となっている自己規定が単一なのである。だから文章がつまらない。人間が、あまりにもシンプルだと、底が浅くなる。単純化というのは、称賛されることもあるが、ダメな場合も当然あるのである。
人間は複雑である。書いている本人だって、若い時から、老年にいたるまでいろいろな要素がある。愚生だって、高校生の時と、還暦になった時と、いろいろな要素があるのである。ぎっしりつまっているかどうかは別として。
「出題者へのリスペクトがなくてはならない」というのが、今日二つ目の記事の言いたいことである。
学校秀才(受験秀才)というのは、これが無い。出題者をナメテいるのである。どうせ、オレヨリ・ワタシヨリ、おバカさんなんだろ!ってヒステリックに叫んでいる姿を想像するからである。
文章は怖い。そういう普段からの、相手をナメテいる態度は如実に出てくる。読んでいただくという姿勢がなくてはならない。だから、就職試験や、昇任試験で不合格になるのだ。そういうときは、学校秀才(受験秀才)は怒る。見る目が無いって。上の者が。オレヨリ、学歴が劣るのにけしからん奴であると、上司のことを思うわけである。ここのところが学校秀才(受験秀才)は留意したほうがいいのだ。
そもそもそこからして、リーダー失格である。皮相な、表象的なもので動かされてはならないのである。
愚生は、拙ブログですら、読んでいただくことに感謝させていただいている。まことに、多忙な中を、このブログに来ていただくことで、愚生の言語環境は変化する。つまり、大勢の方に読んでいただいているということが、いい意味で、文章の鉱脈を掘り当てさせていただくわけである。これがあるから、記事を書いてから、論文書きに邁進していくのである。言語環境のためである。
資料があって、頭の中で、それを整理して、そのままコピーしているのではない。それでは永遠に書けない。とくに、学術論文は絶対に書けない。下敷きの参考資料そのものをコピーしていたのでは盗作であるから。
湧いて出てくるようなパワーの登場を待たないと、論文にはならない。非常に困難である。地下に、そういう文章の鉱脈があると愚生は固く固く信じているのだが、その鉱脈を掘り当てるまでは、ひたすら資料読みをして、掘削機のいいのを買って、あちこちと試みなくてはならない。
学校秀才(受験秀才)というのは、期待どおりの文章を書いたり、文科省や県に報告したりするのは非常に得意である。教員時代に、そういうことが得意な人々がたくさんいた。それはそれなりに能力があると言ってもいいだろう。相手の思うとおり、期待どおりに書けるのだから。ある種の才能である。また、長い間そのことだけを訓練してきたのだから、たいしたもんである。ちなみに、オレには無い能力だ。
しかしながら、それは一面の能力であって、全てではないのである。小論文に形式があって、そのとおりにやりゃぁ誰でも合格論文が書けるというようなことを平気で言ってるようでは、将来が心配である。ふむ、形式は存在する。確かにである。愚生の言いたいのは、そういう形式どおりにやりゃいいんでしょ?っていうナメタ態度ではいかがなもんかということなのである。
定形化から抜け出したところの論文や、自説の展開となると厳しくなる。オリジナリティが求められるからである。先行研究のまとめをズラズラと書いて論文にしたり、インターネットにでもあるようなものを書いて、研究と称してはならないということを言っているのである。
芸能人をこれに譬えてみると一番よくわかる。定形的な、誰でもできるような芸に、われわれ庶民は銭を払いたいとは思わない。やはり、非常に優れた特殊性というか、異端性に注目するのである。そして、その芸能人が好きになる。金を払っても、追っかけをしても惜しいとは思わない。優れた芸を見て、満足して帰ってくるのである。
最近見た狂言でもそうであった。千葉市で、今月、人間国宝の狂言を見させていただいて、実に興趣あふるる芸であった。愚生は感動して帰ってきた。若いその他の演者も見たが、なんだかマニュアルどおりで、いかがなものかと思ったのである。素人の愚生ですら、そう思ったのであるから、見抜かれてしまっている。
学校秀才(受験秀才)様よ!
これからの時代を生きていくのだから、ますます精進なされませ。
マジに。