と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

しみじみとした忘年会

2012年12月20日 23時18分24秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ぼーっと、店の灯りがともっている。陸橋の交差点を渡ると、その店に到着する。向こうから、右折のクルマが急ハンドルを切りながら、キキーとか言いながら渡っていく。アブねぇなぁとか言いながら渡る。こんなところで死んでたまるかと思いながら。

もう少しで忘年会のお店に到着である。

その前に郵便局で年賀状を出してきた。例年の1/5である。70枚。おっと、去年は350枚もだったのか。郵便局の若い職員が改めて挨拶をしたいと拙宅にこられたわけである。去年は。

今年は違う。もうそんなこともないだろう。退職したら、年賀状が激減したということで、鬱になる方もおられると聞いたから、かえって安心である。

メンバーとは、久しぶりにお会いした。年に2回くらいしかお会いできない。23歳からのおつきあいである。嬉しかった。ランランランである。80代がお二人、70代がお一人、67歳の方がお一人。全員、23歳の時の同僚である。

忘年会というのもあったが、愚生の退職を祝ってあげるという意図であったのだ。全員かくしゃくたるもので、いろいろな社会貢献をなさっているし、どこも具合が悪くない。さらに、酒も、昔ほどは呑まれなくなったが、嗜まれる。全員青年である。目も耳もまったく問題なし。70代の方は、ご自分で片道500キロの温泉旅行もやっておられる。

蘭の花をいただいた。こころのこもった、大人(おとな)からの贈り物である。良い香りであった。しばし、うっとりとした。打算もつまらない計算もない。感謝、感謝、ただひたすら感謝である。

本人から挨拶をせよということで、近況報告をさせていただいた。二つの大学で、教えたり、教わったりしていること。塾のことや、柔道教室のこと、配偶者と温泉三昧であることなどを報告させていただいた。さらに、12月の龍谷大学で鬼来迎の学術発表をさせていただいたことなどをも報告させていただいた。

その後が質問タイム。。。。。。。(^0^)

参りました。塾で、国語ならわかるが、英語と数学も、たまには理科もやるって?できるのかね?っていう質問には、全員でわはははははである。むろん愚生が一番笑ったんである。

日本料理のおいしい店である。料理を堪能して、二人の大先輩をタクシーでお送りして、来年の6月はと~まの幹事で会を設定せよとのことであった。快諾した。

今日は珍しく呑んでいなかったから、本当にしみじみとこのような交際をさせていただいたことを感謝していた。義理で、あるいは仕方なしにつきあっていたら、40年近くももたなかったであろう。夫婦だって、なかなか40年は厳しいものがある。愚生だって、まだ32年しかたっていない。

これまでも打算なしに交際させていただいたし、これからもそうさせていただきたいものである。義理だの世間体だの、クチとホンネがまったく違う世界で生きてきたから、余計そう思うのだろう。大先輩たちは、居住地では知らない人はいないくらいに有名な方々である。おそらく、愚生なんかには想像もできないほど過酷な、そして厳しい世間のしがらみを生きてこられたであろうに。それでもなおかつこころから愚生のようなものを祝ってくださるのだ。なかなかできないことである。メリットはないという畜生道のような台詞を吐けば、別に愚生ごときと一緒に酒を呑んだり、祝いごとをしなくたっていいのだから。

さすがに義務教育の方々は違う。関係性を大切になさる。地域を共に生きている。

こうありたいものである。愚生も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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後輩諸君へのエール

2012年12月20日 07時05分55秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

精神性の高い職業ほど日本では収入が高くない。高くないどころか、低すぎる傾向があると思ってきたが、いかがか。おそらく間違いはあるまい。

亡くなられた能楽学者、法政大学の表章(おもてあきら)先生は、法政に就職するときに教育職で入ろうとして、大学の事務方から教育職では生活できないから、大学の事務職で入りなさいと言われて納得できたと言われている。それほど、低いのである。表先生の講義はYoutubeでも公開されていたから見た方もおられるかもしれない。愚生も、Youtubeからのをダウンロードして毎日のように拝見させていただいてから、能楽の初歩を勉強している。それから今の愚生の駄文書きに入るのだ。

確かに、教育職で食っていく、生活していくというのは非常に困難であろう。

なんでこんなことになったのかと思う。それは、日本の伝統なのだろうとは思うが、教育職以外のヒトからは、異端性を見いだしたいからなのであろうと推察する。精神性の高い職業者は、異端であってほしいのである。手を汚さないで生きていってほしいというわけである。だから低い収入で我慢せよというわけである。ムムムムである。

「聖職者」という言葉があって、この言葉をすぐに日本のマスコミを中心として教育界たたきをする時に用いる傾向がある。しかし、聖職者というのはそんじょそこらにゴマンとおるわけではないというのを、前提としていないからついつい使ってしまうのである。

そりゃ高いモラル性を求められる。それは当然である。対象者が、子どもであったり、知識・品格・体力等々でもまだまだこれから勉強する人間を相手にしているからである。

でも、それは「職業としてのモラル性」であって、「精神面でのモラル性」ではないのではないか。だから、思想・信条・哲学の面でのモラル性であってはならないと思うのであるが。混同されていると感じるのだが、これまたいかがか。

もし、百歩譲って、全人格での崇高なるモラル性を求めるのだと言われる方がいたら、全国の聖職者という方々は全員失格である。

そういうヒトは、二千年に一度現れるだけであろうから。つまり、完全なるヒトである。不肖、愚生も読書を通じてのみであるが、そういう方を求めてきた。しかし、未だに現れてくださらない。

裁判官だって、バイブルに人を裁くなと書かれているから、裁判官を辞めろとは言わない。何故か?それはあくまで職業として裁判官をやっているからというだけであるからだ。能力があったから、難しい司法試験を突破できたのであってそれはそれでたいしたものである。されど、裁判官だって、「完全なる人」ではない。ましてや、「崇高なる精神性を持ったモラルの高い人」でもない。

だから、何度も言うようだが、「職業としての」モラル性を逸脱したら、徹底的に処罰されるのだ。残念ながらそういうのが不祥事として報道されるのは、そういうことなのである。

職業として高いモラル性を求められているということが、わからないのならば、その職業に就く資格はない。辞めてももらうしかない。

なにも精神面や、思想・信条・哲学までモラル性を求められているわけではない。そんなのは事実上不可能であるからである。しかし、職業としてのモラル性も守ることができないようでは、残念ながら失格である。最低限のことができないのだから。

 

じゃぁである。

職業人として高い精神性を求められる人に対して、だから低い収入に甘んぜよというのは、論理的に破綻していないか?というのが愚生の今日一番言いたいことである。

高い精神性を、「職業人として」ではなく、真実なる完全性を持った人に求めるのならば、それは金銭なんか関係ないだろう。しかし、「職業人として」ならば、労働力に見合った対価を支払うべきであると思うのだ。

 

教員として頑張っている方々、後輩諸君へのエールである。

誰かが言わなくちゃしょうがないだろうから。

 

 

では、これにて。

これから駅に向かいますので。そう、通学するのである。定期券で。ルンルンと。


 

(^_-)-☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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12月19日(水)のつぶやき

2012年12月20日 05時14分25秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ああああああああああ、終わった、終わった地獄の年賀状。


家族の分もだから、地獄ですわ!


さぁこれから駄文書きだ!


今日も塾である。ヨルバイトである。ほんとうに雀の涙ほどしかもらえないが、生徒達とのふれあいが楽しいんでやっている。ほんとうにそうなのだ。こういうのを趣味でやっていると言うんでしょうなぁ。


今日は、地蔵菩薩の研究書から、いろいろと原文を打ち込んだり、絵伝を見ながら、仮説はどうなるかなぁとか楽しいことばかり考えていた。結構打ち込んだか。。。ポメラがあるから、年賀ジョーをつくりながらできるんです。これってあまり良いことではないですがね。(^_-)-☆



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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/