2013/11/04 ザ・ボイス 勝谷誠彦 ニュース解説「小泉元総理 『脱原発発言』への批判に反論」「公安当局がウイグル人研究者を脅迫か」など
2013/11/07 ザ・ボイス 青山繁晴 ニュース解説「特定秘密保護法案きょう審議入り」「中国の連続爆破事件 時限式爆弾を使った可能性も」など
芸能ということ
芸能というのは神様ごとと関連がある。オールである。オール。梅棹忠夫せんせが云うんだから間違いないだろうって思っている。実に乱暴なことを書いているが。ファンだから致し方なし。許されよ。
もっと書いてある。あ、「比較芸能論」ってホンだ。書いてあったのは。
芸能というのは神との対話の技術だとまで書かれている。ユリウス・バーブというヒトのことを紹介してくださっていて、芸能とは一種の自己解放であり、社会不安を乗り越えるための変身であるとも。だから、現代小説がおもしろくなくなったのだ。昨日書いたが、「社会不安を乗り越えるための変身」というのが現代日本にはなくなってしまったからだ。直接の攻撃対象がないではないか。あったとしても、仮想敵でしかない。例えば、職場の上司。目障りだから、てめぇの思うままにならないから気にいらないというだけで、ガキのように反抗する。まったくそういうのがやたらいる職場もあると聞く。わはははは。
そもそも、日本国内で仮想の敵と闘ってきた方々は、国内しか見えていない。つまり視野が狭い。日本の周りには、仏様のような、あるいはイエス様のような愛にあふれる善人しかいないと思っておられるのではないのかなぁと思ってきた。もう何十年もだ。
さらに、社会不安が無いから、ふわふわと生きていて、ツラのいい・悪いだけで不倫とか、浮気とか走って家庭生活をぐちゃぐちゃにして恥じない人間が増大した。そして、もっとバカなのが、そういうのを材料にしてエロ小説を書いて、あるいはエッチな映画を作って、金儲けにはしる自称芸術家たち。実にめでたい国家だよ。こんなんだから、外交で苦労しているのだとオレは思うのだ。
ノーベ*賞候補になった大作家せんせの小説も、読むに堪えない。あれだって、なんの社会不安もねぇじゃんか。内在的対立があるって?・・・読むに堪えないといいつつしかたなしに、読んだが。
だから芸能を支えているものは、世俗的生活を送っているアタクシのような庶民であるということをゼッタイにワスレテはならないということを申しあげたいのだ。芸能だけでは生きられないではないか。日常的な生活や世俗的な営みから、ある瞬間だけポッと別世界を作り出すのが、そしてそこへ自分が重なりあうというのが、芸能であるからだ。
見る芸能と、自分がする芸能と別れてきているような気がするのだ。しかも、最近の芸能は自分がする芸能に特化してきている。参加型の芸能である。そもそも芸能と言うのは、自分がする芸能が主流であったに違いないないとオレは思っているのだが、いかがか。
見る芸能というのは、能や歌舞伎とか伝統芸能でも外在的保護者のいた芸能である。将軍家とか、そういう権力者と密接に結びついていた芸能である。あまり書くと叱られるのだが、権力者と結びついている芸能は、利益ということで結びついている。能や歌舞伎がそうだと云っているのではない。しかし、利益があがるから繁盛するという側面を否定することはできないだろう。絵画でもそうだろう。価値のあるものは、高い。古銭でもそうだ。価値のあるものが、金銭的にもうかる仕組みになっておる。しかも、専門の業者がからんでいて、だんだん高くなっていくシステムになっているのだ。そういうのを、芸能あるいは芸術として尊べるのだろうか。分からないことだらけだ。バカなオレには。
女優が演技でラブシーンをしているというが、あれもどこまで演技なんだろうか。あれを芸術性があると云って、尊ぶ人がいるのだろうか。どうも胡散臭いのだ。利益が絡んでいるのだろうとオレは推察しているのだけれども。しかも、必然性があるから出演したという女優の言いぐさにはたまげる。あるいは監督の言い分にも。なんの意味があるのだろうか。意味があるかないかいうことは、やたらに云うべきではないとオレは思っておるので。そもそも意味のある世界があるという前提でものを考え始めたら、ニーチェを論破してからものを云え、考えよと云いたいのだ。オレは。
最近は、町の中での私塾というか、お稽古事というかそういうのがやたら流行している。これも自分でやる芸能の一種であるとオレは思っている。小説もそうだ。参加型になっている。素人芸になっている。多くのプロを養成してきた文芸誌は売れなくなり、ブログとかFacebookにでも書かれているような素人芸の小説も多い。それはそれでまた楽しみだし、自分でやる以上、結構なことだとオレは思うのだ。音楽会でもそうだろう。合唱とか、コンクールとか、演奏会とか参加型が多くなっている。結構なことである。
さらに、ピアノとか、踊りとか、歌とか、民謡とか、中国語とか、英語とか。習い事ってやつである。繰り返して云うが、それはそれでいい傾向だとオレは思っている。一瞬でも変身できるし、夢を見ることができるではないか。それを否定しちゃならんぞな。おめぇなんかなんの才能もねぇじゃねぇかとか悪口を言わないこっちゃ。
いいんだ、いいんだ。
もしかしたら、オレは、アタシは未来のスターになれるかもしれないと思ってもいいんだ。
それが芸能の源流ですよん。
マジに。
それをだ。
てめぇのツラを見てからものを云えとか、禿げているじゃねぇかとか云っちゃならんのだよ。かわいそうだ。
・・・・・・
だんだん、オレのことになってきたようだ。これくらいにして擱筆とする。
わはあははっはっははは。
(^_-)-☆
これは美しい。若田さんが宇宙から撮影したオーロラ。@Astro_Wakata Aurora curtain over Canada extending to a few hundred kilometers above surface pic.twitter.com/ya8soKDj0p
「太母」のシンボルは明らかに母元型の派生物である。それ故、「太母」のイメージの背景を心理的な側面からあえて探究しようと思うならば、我々はどうしても、より一般的な母元型を考察の基礎にしなければならない。-元型論-
■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。それは美しい風景の中を旅するようなもの。日没ばかり求めていては夜明けを見逃す。」【ブラックウルフ・ジョーンズの言葉】
この間、携帯に電話がかかってきた。むろん知人である。そもそも、オレの携帯は無用の長物である。かかってこないからだ。こんなもん、もう要らないと云ったら、wifeが迷子になったら困るでしょと云う。... goo.gl/Sx7H09
ボロブドゥール遺跡 バリ島ってビーチやエステのイメージが強いんですが、
こういう素敵な遺跡もある島なんですよ^^ pic.twitter.com/OIiT4kZDqH
山越阿弥陀さんを拝観したかったが、…拝観者よりもお食事の『お客さん』優先の態度で…( ̄□ ̄;)!!まだ12時前だったが…紅葉は綺麗やけど…(>_<) (@ 高野山 天徳院) [pic]: 4sq.com/1bf2LoU pic.twitter.com/k1SQ0Ppf7A
それにあれだ。恋愛小説をモデルにした映画もつまらねぇな。女優がラブシーンやってなにがおもしれぇのだ。アレは演技でなくたってできるではないか。つまらねぇ。アレが演技だとほざいていたら、映画はなくなっちまうですぜ。
さっき、オレのことを図書館の入り口でめっけたちゅーぼーがいた。オレを追っかけてきた。「じゅくのセンセ」「はいよ」「なにしにきたの?」・・思い切りおれは奴の頭を撫でてやった。わはははっはは。
覚えていてくれたのだねぇ。... fb.me/2gIKWpWLt
上総の仏教美術Ⅱ@大多喜城分館。33点のうち仏像は8点程。千葉美仏像半島でお見かけしたかなぁ。長福寿寺の木造阿弥陀如来が半丈六坐像で存在感がありありで、平等院の阿弥陀如来と比較されるぐらいの平安仏でした。 pic.twitter.com/FJED8rD1Zs
つまり、将軍という肩書きがあるから言うことを聞くのではなく、実体として権力があるからその個人の言うことを聞く、という関係。武家政権は、最初はみんな反乱軍ですから、肩書きも何もあったものではない。個人と個人の関係として命令できないと、武家の権力は原理的に維持できないのでしょう。
「中世の古文書」展で考えさせられたのは、組織と個人の関係です。何かをするのは結局個人なのですが、個人が表に出るか、組織の仕事としてするか。中世は前者の時代で「肩書き」では仕事してないんだ、と改めて思いました。頼朝も尊氏も花押だけの文書を出しますが、これは将軍になる前からそうです。