御前会議|太平洋戦争開戦はこうして決められた
蘇る昭和の記録 昭和天皇とその時代 第二巻企画・製作:日本記録映画社
【太平洋戦争】元東大生が分かりやすく解説!私達の日本はなぜ戦争をしてしまったのか?日本軍の活躍から原子爆弾まで徹底解説!
時局便乗組というのがいる。必ずいる。日本が戦争に突っ込んでいったときに、軍部とつながっていれば一儲けできるとやった奴らのことを言っている。
この数日戦争のことを考えていた。なぜ戦争に向かったのか、天下の秀才達がなぜ戦局を見誤ったのか等々を考えていたのである。ボキのような天下の凡才でもわかるような間違いをなぜしたのかという思いである。しかも、何百万人も殺しておいて企画立案した戦争本部の責任は免れないではないか。最後は原爆で降参した。予想できたでないか。負けるのは。
ものがなかったからだ。
九十九里浜本土決戦というのもかつてあった。上陸して東京まで駆け上がろうとしていたアメリカ対策である。ことし、九十九里浜の歴史について原稿を書いていたので調べたのである。戦前戦後の内容で書けと言われたので、やっていたのである。幸い、歴史の会で普段からご指導いただいていた東大出身の研究者の方の著書でずいぶん勉強になった。ちょっとその一部分を下記に紹介したい。
>戦前の風景と暮らし(ボキの原稿第一次)
現在の香取・海匝は、香取市(旧佐原市、旧小見川町、旧山田町、旧栗源町) 香取郡(東庄町、神崎町、多古町) 旭市(旧干潟町、旧海上町、旧飯岡町)銚子市 匝瑳市(旧八日市場市、旧野栄町)の市町村構成となっている。昭和初期は、市町村合併の前からそれぞれの町の歴史と文化を有しており、限られた字数からはそのすべてを取り上げることはできない。
昭和戦前の香取・銚子・海匝地区に影響を与えたのは、太平洋戦争であった。戦前の千葉県の変化は、まぎれもなく工業化と軍事化であった。それ以前には、昭和恐慌による農村危機の中で、千葉県にも都市と農村の対立を叫んだ農本主義運動が影響力を持つようになった。昭和11年(1936年)二・二六事件後に陸軍の統制派と革新官僚が台頭して総力戦体制が高唱されるようになってから、戦争体制に進んでしまう。
千葉県は、帝都東京の防衛にあたるために、北総地域に陸軍の施設が、また半島部に海軍の施設がおかれ「軍郷」を形成した。佐倉に置かれた歩兵第五十七連隊等がそれである。香取・銚子・海匝地区にも干潟に香取海軍航空基地が設置された。近衛第3師団が、昭和19年8月から地形の調査と築城計画に着手していった。前後して海軍も、香取郡旧豊里村(現銚子市)に、特攻艇「震洋(しんよう)」の基地を建設した。昭和19年には、徴用工を含めて1000人、敗戦時には2000人に達した(1)。陸軍も、昭和20年5月に、第152団を九十九里に派遣した。匝瑳郡八日市場町(現匝瑳市)の私立敬愛女学校に本部を置いて、築城作戦を行った。総延長7800メートルの壕を掘って本土決戦に備えた。
千葉県内各地に設立された鉄道大隊は、日中戦争にも動員されることになる。
日中戦争から太平洋戦争へと拡大していって、兵力動員が増大してこれにともなう労働力の不足を補う必要があった。昭和十四年七月に国民徴用令による徴用制度である。海軍軍属としての漁船の活用、女子労働力の活用も図られた。女子挺身隊には、旧制高等女学校の卒業生や中には芸奴までいたことが知られている。旧制高等女学校では軍事教練までもが行われた。さらに、昭和19年には文部省が学校工場実施要綱を発表し、佐原高等女学校には女子校の工場化が県下最初に実施された。生活面では、軍需上の必要性に圧迫されて生活物資の欠乏を招いた。皮革製品も統制となっていった。昭和十五年になると県は一日一食雑炊の普及を始めた。米の配給制も始まった。昭和十七年になると桑畑は掘り返されて麦や甘藷に変わった。味噌・醤油の切符配給制や衣料の点数切符制も行われ、化学肥料も配給制となり、農業生産の低下をきたし、食糧不足に追い打ちをかけた。昭和十八年には小学校の弁当調査には、甘藷だけ、甘藷と米の混合の弁当を持ってくる児童が六割もいたことが資料によって明らかである(2)
。
昭和十八年には寺の梵鐘、橋の欄干、門柱、家の中のかやの吊り金具まで供出の対象とされた。香取神宮の加農砲(陸軍省が日露戦争の戦利品として香取神宮に奉納)も供出された。昭和十九年には成田・八日市場線を走っていた成田鉄道の資材がセレベス島のニッケル鉱山開発のために、撤去された。バスが木炭ガス発生装置によって運航されていたのもこの時期である。
戦況はますますひっ迫し、昭和17年4月アメリカ軍による日本本土初空襲が行われて、銚子には陸軍と海軍がそれぞれレーダーをとりつけた。すでに昭和16年12月には防空監視隊令が公布され、銚子佐原その他9か所には監視隊本部がおかれ、県下97ヵ所に監視哨が設置され、旧香取郡栗源町に防空監視哨が設置されていた写真資料がある(3)。
学童疎開も昭和十九年ごろから始まった。縁故疎開のない児童は、昭和十九年七月では約一万人の児童が千葉県に割り当てられている。しかし、九十九里浜へアメリカ軍が上陸するとの情報が伝わると岩手県への再疎開が始まった。
千葉県下への空襲は熾烈を極めた。空襲は、昭和19年11月24日の市川市への空襲から始まった。下総中山駅南側の山中アルミ工場に爆弾を投下した。以後敗戦まで千葉県下では千葉市と銚子市に空襲が集中した。この時人口6万2000人あまりの銚子市でもB29の空襲を受けた。市郊外の下志津陸軍飛行学校銚子分教場が艦載機による爆撃を受けた。被害状況は消失戸数1000余り、死者47人、負傷者163人である。海上でも漁船がしばしば襲われた。7月20日午前0時ごろまたも銚子市が襲われた。焼夷弾が、周辺部から市中心まで爆弾と機銃弾が襲ってきた。消失戸数3950戸。死者278人。負傷者808人という被害であった。
(1)続銚子市史
(2)船橋市立船橋小学校
(3)三浦茂一著 「千葉県の100年」 山川出版社 p.253
要するに戦う前からダメだったのである。それが一部の時局便乗組の企みによって、こんなになっちまったのだ。戦争が儲かるというのは、経済至上主義の輩にとってはわかりきったことだったのだろう。現代でもいる。「メリットがあるからやる」「デメリットがあるからやらない」と吠えているアホである。なんでもかんでも利益だけなのだ。
問題は、ワレワレ個人に時局とは関係なしに自分を律している「行動基準」があるかどうかということである。カントの言う「道徳律」のことである。それさえあれば、時局とは無関係のところで生きることができる。その「行動基準」が天から見て間違っていないかどうかということも気にしていればよし。
平社員のときは、カンリショクなんか誰がやるかと言っていて堂々と出世していくのも時局便乗組である。言ったことは守ればいいではないかと、現役時代にはずいぶん思ったものである。要するに、思いつきでその場主義。ふらふらしているだけである。情けない。
願わくは、そんなアホにだまされないこってすよん。
盆期間中、レポートばかりやっていた。充実していた。そうなのである。アホは修行しないとついていけないからである。師匠に叱られてしまうからなぁ。
もっとも、ボキ、基本的に自由主義者だからダメならダメですぐあきらめてしまうけど。
暑いですが、ミナサマお元気で。
BYE-BYE!