笑ってばかりいる。こういうボキを、いつも楽しそうだねぇという御仁もいる。事実である。ともかくタノシイからだ。
定年退職後、枠がなくなってしまった。つまらない枠がである。そもそも枠なんて要らない。そんなもんに縛られているから、ろくでもないことばかり起きる。
職業上の枠もなくなってしまった。さらにある。地域の縛りもない。ボキは、九十九里浜に住んではいるが、別に縛られて生きているわけでもない。血縁関係はまったくないし、家人と結婚してからここに住み着いているだけである。頼朝さんみたいである。彼氏も流人の身で伊豆に住み着いてしまった。あ、頼朝さんと一緒だと言ったら怒られるですな。熱狂的なファンから(^_^)。
意識の枠が破られた世界が、理想である。と、ボキは思っている。生老病死の苦からも逃れられる世界と言ってもよし。
無意識の世界で二元相対的なものを持っているとろくなことはないからだ。善悪とか、強弱とか、優劣だとか、正邪とかいろいろあらぁな。一番は、自他の区別。これって差別にも結びつく。
仏陀がすごいのは、そういう二元相対論的な思考方法をやめちまったことにある。ボキはそう思っているのだ。仏陀は、一元絶対の世界を説いてくださったのだ。つまり、絶対というのは「対」を絶するということなりである。いっさいの対立関係がないってぇことだ。
ところが、ボキは、ありもしないことをゴチャゴチャと考えてしまうから混沌としてくる。アタマが悪いのに、比較しながら生きているから苦しくなっちまう。我々人間は、誰だって本来一元絶対の世界を生きているはずなのに、忘れてしまっているのじゃよん。
ワンコだって、猫だって迷いがない。「いま、ここを生きている」ではないか。動物たちの方がよくわかっているではないか。まさに、本当のリアリティを生きているではないか。過去も未来もないではないか。結局アタマの中にしかないではないか。しかも、そいつは触ることもできやしない。
昨日のお茶も飲めないし、明日のお茶も飲めない。それなのに、観念の世界にはまり込んでしまって、目の前にある「今」をないがしろにしてしまう。だから苦しむことになる。
今日はこれから千葉市民会館で、歴史の研究発表大会がある。冒頭、ボキは開会の挨拶をしなくちゃアカン。この会は別に学会でもなんでもない。歴史の研究連絡協議会という名前である。だったら、枠にとらわれることなく、裾野を広げるために活動していこうではないですかと会員の皆様に訴えるつもりである。実証的な研究も大事だが、ボキとしては比較文化の範囲からもこの会の存続意義を考えてみたかったからである。
タノシミでもある。
新知識を得たいからだ。
BYE-BYE!