と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

基本的に

2009年07月04日 22時55分30秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 基本的に・土日の更新はしない基本方針でこのブロクを考えています。
 
 だって、いくらなんでも毎日書けるワケもないですからね。才能もありませんし。

 しかしです。

 今日は、柔道教室の稽古で考えてしまったです。

 それは県銚でも柔道をやりたい生徒がいるということです。

 昨日の県銚の水泳部、陸上部関東大会出場の職員だけの祝いの会で言われました。校長が自分でやればいいということでした。

 
 ほんとうにそれは申し訳ない。

 ずっと柔道部顧問をやれるのなら、わたくしだってやりたいです。

 他所の進学校の柔道部の選手にも言われてしまいました。今日。

 柔道教室にずっと参加いただいている女子選手です。
 
 来年きてくださいって。

 (^0^)/



 ちょっとそれは無理ですがね。体力もないし。

 ありがたいですけどね。

 運動部顧問としてはもう用済みであります。

 ついていけませんです。




 今日だって小学生に「大丈夫ですか?」って心配されてしまいました。

 わたくしの柔道部顧問時代のキャプテンにも笑われたんです。

 昔とまったく違いますねぇ!って。

 いいんです。
 
 もういいんです。

  (^0^)/


 どうせ、良寛さまのごとく共に遊んでいるだけです。


 でも、読書だけは在校生諸君に負けたくないです。


 (^0^)/


 冗談ではないですよ。

 マジに。


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リルケ

2009年07月03日 01時55分10秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 昨日はインターネットで注文したリルケの詩集数冊を入手して一人で喜んでおりました。スポーツジムの帰りに、コンビニで代金を支払って便利な時代になったものだと思った次第です。

 なぜリルケか。
 イメージにあわないと言われそうです。
 在校生諸君には。
 (^0^)/

 これには古い話があって、実はわたくしは10代から遠藤周作先生のファンなのです。沈黙という名作に打撃を受け、最近では(つまり年をとってからは)深い河というインダス川の流れとともにある人間の哀しさ、運命といったものにしみじみとした感動を味わっておりました。齢を重ねたせいもあります。年をとらんとわからない世界でしょう。また、愉快なエッセーもたくさんあって、こちらもなかなか楽しい作家です。

 リルケについて、堀辰雄の風立ちぬとの対比をした遠藤周作先生若かりし頃の評論があって、不勉強なわたくしは最近この評論の存在を知りました。古書店チェーンで入手したのです。しかも東北の米沢で。今週の月曜日に。学校訪問の帰りでした。105円でした。得した、得したと最高に喜んで帰ってきました。
 
 東洋的な受け身の自然観。
 それが堀辰雄の主人公の生き方。
 胸を病み、サナトリウムでの静寂な生活。
 
 高校時代に文芸部にも所属していましたので、堀辰雄について勉強している人もたくさんいて、なんとなくひかれておりました。
 
 同時に柔道部にも応援団にも所属していました。
 ですから、こっちの方の硬派のおっかない同級生には笑われておりました。
 似合わん! 軟弱である! 
 なんていうことを言うのでしょうか。
 (^0^)/

 そうではなくて、リルケ。
 東洋的な諦観と違って、西洋的な文学の根本にあるものは戦いであると言われていたのです。これには、はっとなりました。哲学、宗教、思想がまるで違いますから。それを堀辰雄と比較されたのでは、なるほどなるほど。目から鱗。

 リルケの繊細な生の不安を扱ったように見える詩の展開は、もっと別の次元での戦いであったわけです。これは思ってもみなかった指摘でした。



 それにつけても知らないことが多すぎます。
 生涯学習とはよくも言ったり。
 やればやるほど、深い。
 なんでもそうです。
 完成した、全部わかったと言っているようでは、まだまだ洟垂れ**です。
 
 柔道については毎年パワーが無くなっています。
 もう段位相応の実力がない。
 それは高校柔道部顧問時代の生徒だった方々の保証付きです。柔道教室の幼児たちの先生方になっていますから。
 幼児たちは、わたくしがなんでころころちびっ子たちに投げられてばかりいるのに、いつも来るんだろうと不思議がっていますがね。時々、思い切りわたくしを投げ飛ばしておきながら「痛くなかった?」とかわゆい目で聞いてくれます。ちっとも痛くないのです。孫みたいですもの。
 (^0^)/


 最後に、いつもいつも勉強するしかないのですよと申し上げたい。
 大学に進学しても、就職しても。
 どのような人生を送ろうとも。
 たとえジャンバルジャンのような生涯であろうとも、です。

 勉強なさいませ。



 ではまた来週。

 



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オンリーワンの独自性を持ちたい

2009年07月02日 17時29分59秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 独自性を持つことが大切だと最近は痛感しています。



 わたくしはWebブラウザをユーザーの非常に多いものを使わずに、少数派のものを使っています。言わばナンバー2のブラウザなのです。しかし、わたくしのようなコンピュータの素人にはちょうどいい。実に使い勝手がいい。

 そこにいろいろアドインソフトを付け加えています。
 ナンバー2としての独自性を持たせています。

 最近では、文学作品もテキストファイルで入手可能です。青空文庫というHPで名作が手に入ります。著作権をクリアーした作品ばかりですが。
 書籍では絶版になったものも、です。
 これは本当にありがたいものです。

 しかも、PDF出力可能にしていますので、これを全文検索してくれるソフトを使っています。便利になったものだなぁと思っています。共通する言葉を入力して、違った作品から関連の文章を拾ってくれるわけです。
 それと文書も、いろいろ作った資料も、さらには教育法規まで。古い職員必携という教育関係者なら誰でも持っている教育法規集も。全部PDFにしてあります。
 最近はICレコーダーというのが登場して、音声認識ソフトまであります。
 残念なのは、わたくしのだみ声ではそのソフト、嫌がって変換を拒否してくれるのです。
 (^0^)/

 データベースが好きで、昔からいろいろ挑戦していたのですが、もうこれで一本とられたなと感じています。畳を三回たたいてしまったという感じです。

 つまり、言いたいことは独自性なわけです。
 他人と同じことをしていてもつまらんと思っています。



 さて、月曜日の代休日に学校見学に行ってきました。
 その学校でこの独自性を見させていただきました。
 校長先生が高校の1年先輩ですし、部活で面倒みていただいたし、甘えて言いたいことを言わせていただき、ご指導も拝受しました。
 そして、期せずして独自性についてまったく同じ考え方であったことがわかりました。
 ただし、実態が違っていますから、同レベルで論じては失礼になります。進学成果もまったく違います。
 その地域のナンバー1進学校の国公立合格数が170,学校訪問させていただいた学校が国公立大学合格50。同じ市内で、です。凄いことです。
 ここにも独自性がありました。同じ方向を目指しているわけではなかった。方法も、伝統も違っています。教育課程も違う。
 しかし、成果が出ている。これが何から来ているのかは、わかりました。先方の校長先生とも意見が一致しました。ここには絶対に書けないことですけれども。

 うなってしまいます。



 同じ市内の片一方の学校と同じ方向を目指しては、独自性を失うことになります。
 面倒見のよい、進学も部活もできる学校、あらゆる進路にむけて親身に指導する学校でありたいものです。それが「独自性」になるわけです。ただし、実践を伴わない言葉だけの文武両道という名のじり貧だけは避けなければなりません。中途半端はよくない。じりじりと坂道を転げ落ちてはなりませぬ。めいっぱい頑張ったという達成感なしには、すべてが中途半端になります。その危険性だけは避けたいのです。

 長男長女にも独自性があります。
 次男次女にもあります。
 ナンバー2としての独自性。
 三男三女にも当然あるわけです。


 そういうことです。
 まったくそういうことです。
 (なかなかはっきり書けないのですが)


 また明日。


 
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アラン

2009年07月01日 21時30分43秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 アランという人がいました。

 この方は、「幸福論」で有名なのですが、また高校の先生で生涯を過ごした方でもありました。1868年フランスのノルマンディ地方に生まれ、24歳で高等師範学校を卒業し、以降ずっと高等中学校の先生をされ65歳で引退。著述に専念し、79歳ではじめて結婚し、83歳で亡くなりました。
 
 アランは、(本名は別にあります)華やかさのないいたって渋い人です。著述はたくさんありますが、目立とうとか、売り込もうとはまったくなかった人です。世俗的に生きないで、自分が考えるとおりに、読み、書き、考え、生きました。自分の思想のとおりに生きました。わたくしもまねをしたいのですが、なんと言ってもその肝心かなめの思想というものが全くなく、とてもとても遠くからあこがれの目で見ているしかありません。勉強を続けるしかないようです。所詮、懶惰な人間ですから。

 そのアラン思想の一端が「幸福論」です。

 文庫本でも売っていますので、是非とも一読を勧めたいのです。
 というのも、彼の本はまるでブログのようになっているからです。
 
 アランの表現スタイルは「プロポ」と呼ばれる短いエッセー形式に特長があります。

 彼にとって、プロポは自己との対話であり、日記であり、メモでありました。返事を待たぬメッセージでした。
 
 もうここまで書くと、ブログと似ているということになります。

 ちょっとおもしろい文章を紹介しましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
『人間論』
生徒の勉強は性格にたいする試練であって、知性にたいするものではない。

『人間論』
どんな勉強をするにしても、うまくやろうといった欲望がまずはじめにすり切れてなくなってしまわなければならぬとまで極言しうる。

『教育論』
私は記憶力は勉強の条件ではなくて、むしろまさにその成果だと信じている。

『教育論』
重要なのは気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである。

『教育論』
はじめはゆっくりやってだんだん速くやるというしかたは実はまちがいのもとであるから、こういうやり方はしないで、つねに大急ぎでやって簡単な問題から複雑なものへと進むことが必要なのである。

『教育論』
肝心なのは、読むことを学ぶこと、そして同時に考えることを学ぶことであり、しかもけっしてこの両者を互いに切りはなさずにである。

『教育論』
だれでも聞きながら学ぶのではない。学ぶのは読みながらである。

『教育論』
生徒たちは聞きながら学ぶという習慣を身につけてしまっている。少なくとも彼らは、それで学んでいるのだと思いこんでいる。それに彼らの両親たちも同様で、言葉につまるようなこともなく一時間でも話しつづけることのできるきわめて博識な人の話を二度か三度聞くと、もう彼らは自分の教養のためにたいしたことをしたと思いこむのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 幸福論からは抜粋していませんが、ここに紹介した短文は在校生諸君にも参考になるのではないかと思っています。学習スタイルの構築において。
 特に聞くだけの受け身の学習ではしょうがないのです。
 そんなことを思っていますので。




 学級通信をブログでやっておられる先生も多いようです。
 世間は広い。
 アランのような、偉大な哲学を構築されていく先生が中にはおられるのかもしれません。
 老兵のささやかな楽しみです。


 また明日。 
 


 
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/