倉敷川にかかる「綱盛橋」を渡ると「藤戸」である。
正面の石垣は児島霊場第46番札所「藤戸寺」歴史は慶雲2年(705年)と古い。
「藤戸寺」【岡山観光検定公式参考書P71】
右手には、♪源氏平家の昔より今も変わらぬ風味伝える~「藤戸饅頭」♪がある。
”ALWAYS・三丁目の夕日”のロケ地にもなりました。
源氏平家の昔からある”藤戸まんじゅう”の起こりが記されてました。
源平合戦の古戦場として知られる史跡・藤戸の渡し。源平盛衰記によると、
源平両軍が大戦した寿永三年(1184年)、この辺りは一面海であった。
源氏の将・佐々木盛綱は、村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の虚を衝いて大勝。
しかし作戦の秘匿上、この村人を斬り捨てた。
村人との霊を永さめる供養が「藤戸寺」で行われ、近くの民家からまんじゅうが供えられた。
これが藤戸饅頭の起源だと伝えられている。
「金毘羅往来」宿場町・要所として繁栄していた昔も食べられていたのでしょう。
見落としがちではありますが「藤戸饅頭」店舗前に「道路元標」半分埋もれて残っています。
藤戸・天城は「源平合戦」古戦場であり数多くのゆかりの地が残っている。
ここで紹介したいが主題が「金毘羅往来」であるのでまたの機会に・・・。
話を戻し、「藤戸寺」の北の石垣沿いの県道倉敷~玉野線を50m、藤戸寺の入り口方面に右折。
「藤戸寺」門を過ぎ一つ目の路地を左折すると、さらに道幅が狭くなる。
ゆるやかな坂道から徐々に勾配がきつくなり民家もなくなった。
道はさらに細くなり山中へ消えていく。
心細くもなるが藤戸・天城の町を眼下に、遠くは早島の流通センターを眺めながら鯛焼きで休憩した。
ここからは1mほどの道幅の山坂道で下るだけなので気分は楽だ.。
竹林を抜けるとすぐに民家も見えてきた。
池の土手を歩いていると左下に、へんろみちと彫られた道標を見つけた。
池の横を過ぎたところにはお堂があった。池が二つあるから「二つ池地蔵」なのかな?
藤戸南台団地に入るが、「金毘羅往来」らし道はない。
参考資料とさせていただいている『岡山県歴史の道調査報告書第六集』「金毘羅往来と由加往来」でも
団地の造成により不明とされている。
道なりに団地を通り県道倉敷~玉野線にに合流。
再び現れる「下津井電鉄」線路跡の歩道とクロスし少し行くと植松方面の分岐点の道標が田んぼの角に立っている。
進路を右にとり少し行くと「下津井電鉄」線路跡の歩道と往来の間の木の下に「距岡山元標七里」と彫られた石標がある。
岡山京橋から約28㎞地点ということか?
串田公園脇の道を進むと十字路、寛延3年(1750年)と書かれた石仏と「65丁」と書かれた石仏がある。
由加山まであと7㎞ちょいである。その先は郷内川を渡るのだが橋がかかっていたのだろうか痕跡はない。
「下津井電鉄」線路跡の橋を渡り川沿いの堤防を進む。
次の橋のところが分岐点。
まっすぐ行けば児島下津井へさらに海路を経て四国こんぴらさんへと続く最古の「金毘羅往来」
今回は江戸中世から明治に反映した「ゆがさん・こんぴらさん両参り」
(四国金刀比羅宮・由加神社)を「由加往来」探索するため路を左に折れる。
「下津井電鉄」線路跡の歩道とクロスし別れを告げた。大渕の六差路の交差点を渡り、
さらに久しぶりに県道児島線と対面し横断して林地区に入る。
左手に鳥居が見える「熊野神社」である。【岡山観光検定公式参考書P72】
県・国指定重要文化財。紀伊の熊野本宮からの分かれ創られたと伝わる。
すぐ近くに軒下にひっそりと「54丁」の道標があり
その先200mくらいのところに「常夜灯」文政7年(1824年)がある。
底から少し行くと
修験道総本山「五流尊瀧院」」【岡山観光検定公式参考書P72】
その先には「宝塔」 またその先に「頼仁親王墓」(後鳥羽天皇の皇子)とわずかな距離の中に史跡などいっぱいある・・・・
ほどなくJR瀬戸大橋線「木見駅」に到着した。