ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

2015年秋仁淀川の旅(7)佐川駅から旅の終わりへ

2015-10-14 01:08:04 | 土佐の国
9:40安居渓谷を出発。宿の車でバス乗り場のある狩山口まで送ってもらいました。

10:10狩山口発の黒岩観光のバスで10:52佐川駅前に着き、11:01佐川発のJR土讃線に乗り、再びバースデーきっぷの旅で帰路につきました。

途中、バスの窓からはお茶の段々畑が美しく続いている所をたくさん見ることができました。


JR佐川駅です。



佐川駅前の風景。
佐川には司牡丹の酒蔵を始めとする昔ながらの町並みや、明治維新ゆかりの青山文庫、植物学者牧野富太郎生誕の地など見所が多いのですが、まだ一度も行っていないので、またいつかゆっくり訪れてみたいものです。


佐川からの普通電車は11:51高知に着き、12:13高知発13:21阿波池田着の特急南風14号、13:33阿波池田発14:45徳島着の特急剣山8号と乗り継ぎ、徳島からは行きと同じく高速バスで京都まで帰って来ました。

JR四国のバースデーきっぷを使って仁淀川上流を訪ねた2泊3日の旅でした。
今回訪ねた仁淀川上流一帯は主に仁淀川町に属しています。仁淀川町は2005年8月に吾川郡池川町と吾川村および高岡郡仁淀村が合併して仁淀川町となった町です。

奇跡の清流と言われる仁淀川、その流域には春のひょうたん桜、各地の神楽や秋葉祭り、焼畑農業の跡、伊野の紙博物館と、まだまだ見ていない所が多いですが、今回初めてこの辺りを巡ることができて、とても思い出深い旅となりました。


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2015年秋仁淀川の旅(6)安居渓谷(2)

2015-10-14 01:06:42 | 土佐の国
安居渓谷は、西日本最高峰・愛媛県の石鎚山系の森から高知県に向かって流れ出す安居川の流域に1287万平方メートルの原生林が生い茂り、10キロに渡る渓谷美が県立自然公園となっています。宝来荘から上流に向かって川の側に遊歩道が整備されていますが、所々では遊歩道が途切れていて、その間は川に沿って走っている県道まで上がって歩かねばならず、ちょっと大変でした。


県道から見下ろした「もみじ公園」。この辺りにはモミジの木が多くて、もう少し遅い時期にはきっと美しい紅葉が見られたことでしょう。安居渓谷の紅葉の最盛期は例年11月上旬だそうで、まだほとんどの木は緑のままでした。



大きな岩がごろごろ転がっています。
まわりの山から転がり落ちてきた大岩が、大雨が降ると転がり流され河原の景色を変えていくのでしょう。



岩と岩の隙間が極端に狭くなっていて、人ひとりがかがんでやっと通れるようになっている、「せりわり洞穴」です。



その上流にある砂防ダムの下の淵は「水晶淵」と呼ばれて、最も美しい仁淀ブルーを体感できる場所です。



水は透明なのですが、この青は空の青を映しているからで、安居渓谷で仁淀ブルーがよく見られるのは、周りに空を遮る木がないからなのだそうです。



水がしたたり落ちる岩肌に野生の花々が咲いていました。

ユキノシタ科 人字草(ジンジソウ)。



イワタバコ科 イワタバコ。



これは名前不明。



渓谷散策を堪能した後、宝来荘より下流まで歩き、茶屋で休憩しました。

ツガニ汁を食べました。



このツガニ(モズクガニ)の身を丸ごとすりつぶして汁に入れてあります。



宿の夜はテレビもなんにもなく、早く寝て、星がとてもきれいな夜空でしたが、一夜明けて、朝食前にもう一度渓谷を散歩しました。

「乙女河原」という唯一開けた河原で小さな橋を渡り、



支流に沿って遊歩道が続いています。



少しだけ登っていった先に、



「飛龍の滝」がありました。
落差40m程の安居渓谷で最も有名な滝です。朝のしっとりした空気の中にマイナスイオンが充満している山懐でした。



乙女河原にはいろいろな色の石があり、ここから仁淀川を流れ下って、太平洋に出、海流に流されて高知市の入り口桂浜に流れ着いた頃には小さく丸くなって五色石となる、その元の五種類の石を見つけました。
近年は仁淀川の途中にダムができたために、桂浜に流れ着く五色石が少なくなっているそうです。


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2015年秋仁淀川の旅(5)安居渓谷(1)

2015-10-14 01:05:26 | 土佐の国
沈下橋を見て川口橋まで戻り、そこから仁淀川の支流土居川を遡り、池川の集落を通り、さらに支流、安居川に沿ってくねくねと山道をたどって行きます。
途中、何軒かの民家がある一帯があり、川の側に旧安居(やすい)小学校がありました。ここは宮尾登美子さんが17才で小学校の代用教員になって初めて赴任した学校です。その頃の経験が小説「春燈」の中に描かれています。宮尾さんがバスから降りて小学校まで川に沿った狭い道をどこまでもどこまでも一人で歩いて行った道、その道を自動車で走っていきましたが、曲りくねった山道なので、対向車とぶつからないように曲がり角ごとにクラクションを鳴らしながらそろそろと進んで行きました。
安居小学校は1875(明治8)年に設立され、1997(平成9)年に閉校になりましたが、校舎はまだ残っています。

小学校跡からさらにだいぶ長く走って、ようやく安居渓谷の入口にたどり着きました。



安居川の流域にはたくさんの滝がありますが、渓谷に入ってすぐにあるのがこの「みかえりの滝」です。千仞橋を渡って振り返った時に遠くに見えます。立ち去る時に思わず振り向いてもう一度見たくなるという意味からつけられた名前だそうです。



先ずは今夜泊まる「宝来荘」でお昼を食べました。



焼魚定食になっているアメゴが水槽で泳いでいました。
宿に荷物を預かってもらって、渓谷散歩に出かけました。



宝来荘のすぐ近くに架かっているつり橋、蓬莱橋。



橋の上面中央は網目状になっているので、足の下に川の流れが見えて、ゾクゾクします。



水が澄んで、とても美しい~。
あまりに水が澄んでいるので、魚のえさになる苔も生えず、安居渓谷ではアメゴもアユもあまり住んでいないそうです。






「荒男谷」という名のごっつい岩がごろごろ転がっている所を通り、






川に沿って県道を登って行くと、「東陸(とうろく)様」の祠がありました。
その昔、100匹のオオカミに襲われながらも、出産直後の妻を守って闘い、99匹のオオカミを倒したが、最後の1匹に食い殺されてしまったという男の伝説から、今は安産の神様として祀られているものです。



その横に石碑があり、
「正徳より昭和まで尊き銅堀りし安居の村よ 永遠に偲ばむ。平成十三年盛夏」と書かれています。



別の所に「安居銅山跡ご案内」の看板もありました。
「安居銅山は正徳四年(1714)幕府の聴許を得て、伊予西条領大町庄屋田中勝丞の採鉱出願によって始まる。(産出量不明)
安政元年五月(1818)再び土州国豊永郷の人、内田○(判読できず)右衛門により本格的に採鉱が始まる。
此の銅山には文政四年当時100軒730人の労働者とその家族が住み○○採鉱がなされた。
文政七年(1824)六月安居銅山は大暴風で崩壊、潰れ口東西三十間余り、高さ二町余り、潰屋十三軒、この大風雨で死者二十一名、負傷者十一名を出す。
災害後の経営は思わしくなく、天保八年小屋は焼き払い○品は売り払う、の記録がある。
天保十二年(1841)土佐藩は幕府に休鉱を申し出る。
その後、明治に至り、再興。盛況を極め、大正、昭和十九年頃まで続いた。
戦時中は韓国籍の人々も多く採鉱に従事したようである。場所はここより三キロほど上流。そこより徒歩で川を渡る。今なお残る製錬釜、学校、山を登ると坑口、坑道、野焼き釜、吹屋、水路、天保十一年○○された手洗鉢等、当時が偲ばれる史跡がある。」

この看板もだいぶ前に建てられたようで、古くて読めない部分が多く、今はこの史跡がどうなっているのかはわからないけれど、まさしく仁淀川町の産業遺産です。

四国の中央部分には別子銅山と同じ鉱脈があり、高知県内にはこの他にもたくさんの鉱山があったようです。安居銅山は藩政時代は土佐藩の重要な資源であり、廃藩後は民営となって、1938(昭和13)年からは日本鉱業株式会社が経営していました。太平洋戦争の開始とともに政府の南方政策に基づき、よりよい鉱物資源を求めて東南アジア(特にマレーシア)への進出をすることになり、日本鉱業は1942(昭和17)年に安居銅山の経営から手を引き、閉山となりました。

最近になって、池川町の町興しを目指して、安居銅山への道を整備し、廃鉱を訪ねるツアーができないかと探る試みもされているようです。



とにかく、安居川を遡って、上流にあるという「昇龍の滝」を目指しましたが、かなりの急坂になってきたので、この橋のたもとで断念。



この辺りの野生の花を楽しんで来ました。


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2015年秋仁淀川の旅(4)久喜の沈下橋

2015-10-13 23:24:25 | 土佐の国
川口橋のある場所から仁淀川を少しだけ遡った所に久喜(くき)の沈下橋があります。これも国の登録有形文化財だというので、見に行きました。
しかし、運転する人がそれなら知ってると連れていってくれたのは、別の所にある現代の久喜橋で沈下橋ではなく、そこを渡って行けども行けども、お茶の段々畑はあるけれど、沈下橋は現れず。地元の人に聞くとまっすぐ行くとあるというのですが、道が狭くて対向車が来たら離合もバックも絶対できそうにない道で、はらはらどきどき、恐る恐る前に進みました。

やっと川に行きあたり、急な坂を降りた所にありました!沈下橋です。

対岸の道は少し広そうです。



1935(昭和10)年架橋。久喜地区の人達が仁淀川を渡るためにお金を出し合って作ったようです。
コンクリート造、橋の中央部はアーチ型になっていて、県内最初のアーチ型沈下橋だそうです。



大きな石がごろごろ転がっている中に、石の間をぬって道がつけられていて、橋の幅は車がやっと通れるくらいなので、運転手以外は歩いて渡り、車がそろそろと渡りました。これもはらはらどきどきでした。



水は深いグリーンです。



対岸には生コン工場があったり茶畑があり、その坂道を上がると国道33号に出ることができました。



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2015年秋仁淀川の旅(3)旧川口橋

2015-10-13 02:31:45 | 土佐の国
越知から車で約20分仁淀川に沿って遡っていくと、仁淀川町役場がある大崎地区に着きます。この辺りまで来ると、両側の山がV字形に迫ってきて、川の上流に来た感じが強くなります。
はるか昔に愛媛県の松山と高知を結ぶバス路線が通っていた頃に、松山からくねくねと目の回る急な山道を越えて来たバスの乗客は、多分大崎バス停が休憩所になっていて、ほとんどの人がバスから降りて、嘔吐の苦しみにあえいでいたことを思い出します。


大崎地区のすぐ近くに仁淀川の支流・土居川が本流に合流する地点があり、その土居川に川口橋が架かっています。
左側が新川口橋で国道33号線が通っていて、右側が昔使われていた旧川口橋です。旧川口橋は1935(昭和10)年に完成し、1966(昭和41)年に新川口橋に役目を譲り渡しました。鉄筋コンクリート造で、橋脚は精緻なフランス積みレンガ張りです。2005年8月に国の登録有形文化財として指定されました。



堂々とした五段積みの橋脚です。



幾何学的意匠の親柱、右側には「かはくちはし」とあり、



左側には「昭和十年三月架換」と書かれています。この川口橋が最初に出来たのは大正5年で、昭和10年に今のように架けかえられたのです。



欄干の模様もユニークです。



両側の欄干の上部には花が植えられていて、和まされます。



橋の上は毎週土曜市が店開きする「ふれあい広場」になっています。



橋の半分程は屋根付きになっていて、テーブルと椅子もあり、ここで市が開かれるのでしょう。古い橋がうまく活用されています。



橋の上から見下ろした川の水は澄んで透き通っています。


もっとじっくり橋を見たかったのですが、悲しいかな、自動車に乗せてもらって来ている身にはあまり運転手を待たせるわけにもいかず、先に進みます。


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2015年秋仁淀川の旅(2)越知のコスモス祭り

2015-10-13 01:00:42 | 土佐の国
高知県の旅、二日目はJRではなく自動車に乗せてもらってドライブです。
何しろ、今日は鉄道の通っていない山の中に行くので、車でないとものすごく不便なのです。


ドライブ途中で立ち寄ったJR日下(くさか)駅。高知駅から西へ10個目の駅です。
高知駅から7個目の伊野駅を越えたすぐの所で四万十川と並ぶ清流、仁淀川を渡りました。その辺りでは川幅が広くなっていて、通常はほとんどが砂利の河原になっています。



この駅から少し先の西佐川駅の辺りから鉄道の線路を離れて山の方に分け入っていきます。



仁淀川の中流にある越知(おち)の町、高知県高岡郡越知町です。その河川敷の宮の前公園にコスモス園があり、コスモス祭りをしていたので、寄り道して見ていきました。



広い敷地に約150万本のコスモスが一面に咲いていて、とてもきれいでした。迷路になっている所だけ有料で、ほとんどの場所は無料で見られました。



仁淀川の一部を堰き止めて、あめごの釣堀を作っていました。




遠くに大きな沈下橋が見えました。
この近くにある横倉山は源平合戦の後、安徳天皇が逃れてきて隠れ住み、崩御したという伝説があり、また植物学者牧野富太郎が新種の植物を発見したことでも知られています。



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2015年秋仁淀川の旅(1)ありがとう、宮尾登美子さん

2015-10-13 00:51:33 | 土佐の国
10月にJR四国のバースデーきっぷを利用して高知に行ってきました。
バースデーきっぷは、誕生月内なら10,280円で四国内のJR線をグリーンも指定席も自由席でも3日間乗り放題の切符です。同行の人も3人まで同額で購入できます。
ただし四国に入るまでは入っていないので、いつも最安値の京都ー徳島の直通バスで行っています。淡路島経由で3時間です。


徳島駅から乗ったのはアンパンマン列車。幼稚園児達がお見送りしていました。
12:01発の剣山5号。


阿波池田駅着13:15。13:32発の土讃線特急南風9号に乗換えました。



吉野川の大歩危小歩危を越えて高知駅に14:42到着。そのまま最初に行ったのは、



高知県立文学館。高知城の大手門横にあります。


2014年12月30日に亡くなった宮尾登美子さんの特別展を見ました。
「ありがとう。宮尾登美子さん ~88年の生涯を偲んで~」展は2015年9月19日~11月23日に開催されていました。
また、「宮尾文学の世界 ~宮尾登美子の「天涯の花」~」展も2015年4月1日~2016年3月21日開催されています。
高知市出身の宮尾さんは、女性を主人公にした数多くの作品を執筆し、特に自身の家族をモデルにした自伝的小説などで、土佐の女の生き様を生き生きと描いています。高知を出て各地に住んでからも高知への思い入れは強くて、晩年には高知に帰ってきてこのすぐ近くのマンションで一人暮らしをしていたそうです。

「天涯の花」は孤児として育った珠子が剣山山頂近くの神社に引き取られ、様々な苦難を乗り越えてけなげに生きて行く様が、深山に咲くキレンゲショウマの花に寄せて描かれていて、好きな小説の一つです。

他にも高知県ゆかりの文学者は、紀貫之から大原富枝、安岡章太郎、倉橋由美子、寺田虎彦、吉井勇、槇村浩、山本一力、有川浩まで、こんなにたくさんいたのかと思うくらいの数でした。



その帰りにすぐ近くの「ひろめ市場」でちょっと一杯。うつぼのから揚げと、



手長エビ(川エビ)のから揚げをつまみました。



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2015年8月岡山・高知への旅 もくじ

2015-08-18 03:27:57 | 土佐の国
2015年8月13日~16日、高知に行く途中、行きも帰りも岡山にちょっとだけ寄ってきました。




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土佐の日曜市

2015-08-18 03:27:16 | 土佐の国
高知市の中心で毎日曜日(1月1日・2日とよさこい祭本番の日曜日を除く)に開かれている日曜市です。


高知城の大手門前から高知駅前通りまでの追手筋通り片側二車線をつぶして約500店もの露店が並びます。



ここは毎年8月10日~11日のよさこい祭の時には本部競演場になる場所です。



江戸時代から、近郊の農家が農作物を持ち寄り店出ししてきたのが、海産物や植木や古道具など、様々なお店が並ぶようになり、大規模な市になっています。昔から私のお楽しみだったのは、野生蘭や植木などの植物を売るお店と鶏などの生き物を売るお店が集まる高知城近くのエリアでした。




市内の人も観光客もたくさんの人が買物や見物にそぞろ歩いたり、「まけてや」とお店の人とやりとりしたり、楽しんでいます。







自家製のお茶を売るお店。




手作りのようかんやお餅・田舎寿司を売るお店。
ジュルッ。



すぐ横には武田五一設計の追手前高校の建物もあります。

高知市内にはこの他にも、火曜市、木曜市、金曜市があります。

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高知の路面電車

2015-08-18 03:26:26 | 土佐の国
次は高知の街を走る路面電車。
1903(明治36)年に創立した土佐電気鉄道と高知県交通バス会社が2014年に合併して「とさでん交通株式会社」になり、電車とバス事業を営業しています。


高知駅前-桟橋通五丁目間を南北に走る線と、伊野-後免町駅間を東西に走る線がはりまや橋で交差しています。
初乗り運賃は200円ですが、伊野-後免町駅間は日本の路面電車で最長区間で460円です。



はりまや橋にいるといろいろなラッピング車を見ることができます。

これは最もオーソドックスな形。











超低床車(ハートラム)。
他にも外国を走っていた電車や創業当時の電車を模したものなどが時々走っています。


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土佐の高知でお正月

2015-01-03 11:51:42 | 土佐の国
       


   あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。


年末から高知に行ってきました。
おせち料理は皿鉢料理で豪勢に、まんぷくまんぷく。



高知観光の定番、桂浜です。



初めて岬の突端の神社まで登ってみると、強風で飛ばされそうでした。
太平洋が見渡せました。

振り返って見た桂浜の全景です。



定番の龍馬像。




ツワブキがたくさん自生しています。




ノジギクも高知の自生種。






次の日に高知市の西、宇佐市にある国民宿舎へ。



ここも海に突き出た高い山の上にあるので、大平洋が一望。風が強いので白波が立っていました。
中央奥に土佐湾中央の桂浜が、右端奥に室戸岬があります。
1日から寒波が来て、南国土佐でも雪がちらつき、山は白くなっていました。





最後の日に「わんぱーく」に行きました。高知市の施設で動物園と遊園地が一緒になっています。








オハ50型式客車。昭和57年から平成2年まで土讃線で通勤通学列車として走っていました。









高知競馬場で走っていた「ハルウララ」のレプリカです。





次に帯屋町商店街にある「ひろめ市場」に行きました。




わらで焼いてカツオのたたきを作っています。




中央広場で周りのお店で買った食べ物を食べたり飲んだり、たたき、ドロメ、ノレソレと、土佐の食を満喫しました。




塩たたきはウンマイッ!



さすがに高知でも寒いお正月でしたが、京都に帰って来ると、

 
大雪でした。

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土佐の高知のはりまや橋で(2014年10月)

2014-10-21 01:49:37 | 土佐の国
10月中旬に高知に行ってきました。

2日間とも雲一つない快晴で、暑いくらいのお天気でした。


高知に行けば必ず通過する中心街の交差点「はりまや橋」です。
交差点のビル横には大分昔からからくり時計があり、午前9時から午後9時まで1時間おきによさこい節の音楽に合わせて、からくりが動きます。




時計の上から高知城、下からよさこいの踊り子達、左から桂浜、右からはりまや橋が登場し、はりまや橋の上では純信とお馬のカップルも現れます。

はりまや橋の袂の小間物屋で、五台山竹林寺の僧純信がかんざしを買って恋人のお馬にプレゼントしたという話が伝わっているからです。

からくりは大分長い時間動いています。


はりまや橋の姿はこちらに




はりまや橋から一筋北側を東に向かって全長約120mの「はりまや橋商店街」。アーケードは高知県産の木材を使っっています。




はりまや橋商店街の中程から北に向かっているのが「魚の棚商店街」。
全長約80m、幅約3mに約20店が軒を並べるこじんまりとした商店街で、その名の通り魚を扱う店が多く、江戸時代初期(1661年頃)に、土佐藩3代藩主の山内忠豊によって開設されたといわれています。開設当初から西側の屋根から日覆いを架け渡すことを許され、今でもそのままに昔ながらの風情を残しています。




お昼を食べたレストランで、高知城をモデルにした「高知家アイス最中」を食べました。

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2014年青春18夏の旅(1)高知~京都

2014-08-10 00:04:57 | 土佐の国
7月中旬の高知への旅、行きは高速バスでしたが、帰りは青春18の利用期間になったので、JRの鈍行列車で高知から京都まで帰ってきました。



朝10:41高知発阿波池田行きに乗りました。




1両編成。




土佐山田駅で30分近く停車したので、一旦降車して駅の外に出てみました。
高知駅からあまりに近いので、これまで通り過ぎるばかりで、降り立ったことがありませんでした。
この駅舎は2006年に造られたものです。




跨線橋を渡って、




改札を出ました。





駅前の通り。
両側にタクシー会社があります。





駅前にあるバス停。
ここから高知工科大学、龍河洞、アンパンマンミュージアム等へのバスが出ています。





次に長く停まった小歩危駅。
もうここは徳島県です。
1935(昭和10)年築の駅舎を改装して使っています。




はるか下の方に道路を隔てて吉野川の小歩危渓谷が見えます。





三縄駅(みなわえき)。
阿波池田駅の一つ高知寄りの駅で無人駅ですが、1931(昭和6)年築の木造の面影がよく残っています。





阿波池田駅13:08着。
駅の外に出てみました。
土讃線と徳島線の分岐点となる主要駅で、1935(昭和10)年築のものを改築リニューアルした駅舎です。



駅前の商店街はアーケードがきれいになっていましたが、やはり人通りは少なかったです。

13:35阿波池田発の列車に乗るので余り時間がなく、駅の待合室で昼食にパンを食べました。





多度津駅14:46着。
予讃線と土讃線の分岐駅で、車両工場と広い係留線、乗務員待機の多度津運転区も併設されているJR四国の主要駅です。

ここでも乗換え時間に駅外に出ました。




駅前の通り。





駅前広場に機関車の動輪が展示されています。





ホームから見える所に給水塔があります。
蒸気機関車が走っていた頃に上から水を補給したものです。




国の登録有形文化財に登録されています。
転車台もあるそうですが、見つけられませんでした。


多度津15:09発、岡山16:29着。
岡山17:08発、姫路18:42着。
姫路18:56発、京都20:29着で、ト~チャコ!

特急南風と新幹線のぞみに乗ったとしたら11,160円(乗車券6,740円 特急料金4,420円)かかるところが、青春18きっぷ1回分2,370円ですますことができました。
疲れたけれど、楽しい汽車旅でした。
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怖いもの見たさの絵金祭り

2014-07-23 02:20:15 | 土佐の国
高知県中部の町、赤岡の絵金祭りに行ってきました。
毎年7月の第3土日の夜にあるお祭りです。


     


赤岡の町は今は香南市の一部になっていますが、江戸時代には漁港と近辺の商業の中心となり栄えた町です。

JR高知駅を17:34に出発、御免駅からそのまま土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線に乗り入れる列車で、あかおか駅に18:12に着きました。



まだ明るい時間に着いたので、しばらく町を散策しながら、屋台のビールやおつまみで喉をうるおしました。
いつもはひっそりしている町も今日は近所の子供達や観光で訪れた人で徐々に賑やかになってきました。



町中にある伊能忠敬緯度観測記念碑。
1808(文化5)年、幕府天文方一行の伊能忠敬が測量に訪れ、ここに北緯33度33分の杭を打ちました。北緯33度33分33秒の標識は高知市江ノ口川下流にあります。




その向かいに建つ初代村長小松与右衛門邸。
小松与右衛門は寺尾酒造の丁稚から身をおこし、酒造業を営むかたわら学問を身につけ、1890(明治23)年初代村長となり、私財を投じて香宗川の治水工事で新田を開発、赤岡小学校を建設した人です。



古そうな家や、



土佐漆喰壁の家が並んでいます。




海から近いだけあって海抜8m、というと、津波が来た時が心配です。




やがて、7時になると祭の開始を告げる放送があり、家々の前に絵金の屏風絵が立てられ、その前に立つ1本のろうそくの光で照らしだされる芝居絵を人々が観てまわります。その家の人が絵の側に座り、自慢げに見守ったり、絵の解説をしたりしてくれます。


絵師の金蔵--略して「絵金」。
広瀬金蔵(1812~1876)は、高知市に生まれ、江戸に出て狩野派に入門して技術を身につけて戻り、土佐藩家老桐間家の御用絵師に抜擢されます。しかし、贋作事件に巻き込まれて城下追放となり、10年の流浪の後、赤岡の町の商人達に請われて、町絵師として酒蔵で絵を描きました。その絵は歌舞伎の場面を描く芝居屏風絵が多く、土佐各地の神社の祭礼や商家の軒先で飾られ、夏の夜の庶民の目を楽しませました。
赤岡町には特に絵金の絵が多く、通常は「絵金蔵(えきんぐら)」というミュージアムに保存公開されていますが、年に二度、絵金祭りと須留田八幡宮の祭礼の時に、元の持ち主の家に帰されて、軒先で昔のようにろうそくの灯りの下で見られるようにされているのです。

私も前に絵金蔵で見たことはあるのですが、この祭の中で是非見てみたいと思って長年憧れていた願いがやっとかないました。


以下、表題がわかるものは書いておきました。

源平布引滝
松波検校琵琶の段



花上野誉石碑
四段目 志度寺



浮世柄比翼稲妻
二幕目返し 鈴が森
白井権八と幡随院長兵衛のお話です。



伊達競阿国戯場
累(土橋)



佐倉義民伝
宗吾子別れ



木下蔭狭間合戦
石川五右衛門 壬生村



菅原伝授手習鑑
寺子屋の場



伽羅先代萩
御殿



花衣いろは縁起
鷲の段(二月堂良弁杉の由来)



忠臣二度目清書
寺岡切腹



播州皿屋敷
鉄山下屋敷



屏風絵の他に、絵馬提灯もありました。
長方形の箱型の両面に和紙を貼り、内側に蝋燭を灯して和紙面に描かれた絵を見る仕組みになっています。一つの芝居を続きものとして展示されることが多く、今回は義経千本桜が何枚も飾られていました。







赤岡の町には、昔行われていた村芝居の小屋が復元され、素人の人達が歌舞伎を実演しています。

これがその「弁天座」で、それまでJAの集荷場に舞台を組んでいたのを、2007年から弁天座が建設されたのです。花道、桟敷席、二階席を備え、木の香りのする立派な芝居小屋でした。



毎年、絵金祭りの時には土佐絵金歌舞伎が上演され、今年は第22回です。



浄瑠璃は女の方で、プロの方のようでした。



三題演じられていましたが、最後の「傾城阿波の鳴門巡礼歌」を見ました。
素人とはとても思えない迫真の演技でした。このお二人、実のお父さんと娘さんでした。

おひねりが客席でなく、楽屋から飛んでくるので、笑いを誘っていました。







芝居小屋を出ると、夜もふけてきて、芝居絵はますます妖しくおどろどろしく、広場ではカラオケやロックで盛り上がり、地元の子供達は浴衣で楽しみ、観光客やカメラマンも加わって通りはぎっしりの盛況でした。




名残惜しいけれど、帰りの電車の便もそんなに多くはないので、21:00あかおか駅発に乗って帰ってきました。次は21:52発が最終便です。
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の電車はタイガース電車でした。



ごめんからは土佐電鉄の電車ではりまや橋まで帰ってきました。





子供の頃に見た絵金の絵は、朝倉神社の夏祭りの時、参道をまたいで何台も建てられた台枠の中に芝居絵が灯りに照らされているのを、下をくぐりながら見上げたものでした。
切り落とされた腕や腹からしたたり落ちる血、苦悶の形相、真っ赤な衣装の色など、おっそろしいものでした。まともに見るのも怖くて、目をそらしながらもやはり見たくてそっと見てしまう。強烈は印象が残っています。
大人になって見てみると、それ程の怖さはなかったけれど、やはり暗闇の中で蝋燭の灯りがゆらめく中見ると、なまめかしく、おどろおどろしく、そして、何故か美しいものでした。
幕末の時代に土地の人々の心をつかんだ絵を描いた絵金、その絵が今も赤岡の人々に受け継がれ、多くの人を引き付けているのもまた自然に思えました。

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桂浜西海岸にウミガメが来る

2014-07-22 22:14:05 | 土佐の国
高知県に行って来ました。


高知県の定番観光地と言えば、桂浜。

何度も行っているので、今回はその裏側へ。裏と言っても、桂浜の西側、高知県のほぼ中央、太平洋に面して南に開けた長い砂浜の海岸です。

画面一番左に見える小さな島のようなのが、桂浜の西の突端の祠のある岬です。




この浜で偶然こんな看板を見つけました。

「高知海岸でのウミガメ情報。
アカウミガメが上陸して産卵するところです。

本日までの上陸は97頭、
産卵は48頭。
(産卵の時期は5月下旬~8月上旬)」

ここでウミガメが産卵するとは知りませんでした。
看板にあるように最近だんだん増えてきているようです。保護活動が功を奏してきたのかもしれません。
桂浜とそのすぐ西側は小石の浜で、五色の石が採れるので、お土産用に売るために地元のおばさん達が石を拾っている姿がよく見られますが、この辺まで離れてくると石というより砂の浜になっているので、ウミガメの産卵に適しているのでしょう。


実は、この近くは戦国時代、長宗我部元親の根拠地だったところで、桂浜のすぐ上の山が元親の城があったところなのです。この海岸にある長い道路の側にも元親の生涯を紹介するパネルが設置されています。長宗我部元親と信親、盛親の隠れファンなので、その遺跡を訪ねようとしたのですが、見つからず、ウミガメ看板で慰められて帰ってきました。
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