江北図書館がある木ノ本の町は木之本地蔵院の門前町であり、北国街道の宿場町として賑わった町並みが残っています。

このJR木之本駅は平成18年10月に建て替えられたもので、近くに昔の駅舎が残されています。

駅前から地蔵院に向かって登っていく坂道の側に蔦のからまるいい感じの建物がありました。


木之本地蔵院。
この前の通りが北国街道で、両側に延びて宿場町のたたずまいの商家が並んでいます。
昭和の始めまでは街道の真ん中に小川が流れ、柳の木が植えられていましたが、今は埋め立てられています。

創業460年の酒屋さん。
清酒「北国街道」

木之本馬市があったあたり。
室町時代から昭和の初期まで毎年2回、街道の民家を宿として牛馬市が開かれ、山内一豊が妻のへそくりで名馬を求めたのもここだと言われています。


うだつの上がっている家がたくさんあります。

元本陣で薬局を営業していた家。

古い薬の看板が並べられています。

本陣の玄関先には馬を繋いだ金輪があり、

本陣薬局の看板。

こちらも創業450年の酒屋さん。
「七本槍」


町並みの南のはずれあたり、北国街道と北国脇往還の分岐点。
近江今津駅から4つ目の駅が湖西線の終点、近江塩津駅。そこで北陸本線に乗り換えて今度は琵琶湖東岸を南下、1つ目の駅が余呉駅です。
前からあこがれだった羽衣伝説の余呉湖、三橋節子さんの絵にもなった余呉の天女の里を訪ねました。

湖は駅のホームや電車の窓からは、田んぼを隔てた向こう側、山の手前に一直線になって見えます。
向かいの山が、お江ちゃんの運命を変えた柴田勝家と秀吉が戦った「賎ヶ岳の合戦」のあった賎ヶ岳のようです。
山の向こう側に琵琶湖があります。

10分程歩くと湖のほとり、余呉湖観光館等が建つ広場に着きます。
その辺りでは釣りをしている人達もいました。
湖の周囲は約6.4km、水深13mです。

ちょうどゴールデンウィークの催しをやっていたようで、屋台で食べ物や山菜等のお土産を売っていたので、ちょっと食べてタラの芽を買い込んでしまいました。

湖の手前は豊かな水量の水路と田植え前の水田が広がっていました。

おおっ!これは虎杖(イタドリ)ではあーりませんか!(手前はタンポポ)
「イタドリ・クラブ」の皆さーん、余呉湖の水路脇の土手にイタドリがどっさり生えていましたよー。
余呉湖の周りは広い水田地帯に農家がかたまってあるだけで、駅前にもお店は一軒もなく、観光館と湖の反対側にある国民宿舎の他に、休憩する所もないようですが、そうした何もないところ、静かな農村風景が余呉湖の魅力なのでしょう。
自然がいっぱいの余呉湖の里でした。
次の電車が出るまでの約1時間の間に湖まで行って帰ってきたので、天女が羽衣をかけたという衣掛柳の方には行くことができませんでした。
さらに時間があればレンタサイクルを借りて湖一周をしたかったのですが、またの機会に。

きゃ~
、今津から乗ったJR電車のつり広告に
大川橋蔵様
が




最近出てきたらしいパチンコの新台の広告で、「銭形平次 with チームZ」。
AKBなんとかがちゃらちゃらして大当たりになると、銭が飛んだり、十手をくるくるしたりと、橋様のかっこいいお姿が見られるらしいので、パチンコ屋の前を通る時は一生懸命覗いて見てみるのですが、未だにそれらしきものが見つけられません。
滋賀県ではやってるのに、京都ではまだなのかな。
どこかにあったら、自分ではとても当てられそうにないから、よその人がやってるのを覗かせてもらえたらなんて、夢想してしまいます。
しかし、この電車のつり広告、この写真を撮ったすぐ後に、交換の人が乗ってきて、この1枚だけとり換えていってしまいました
。

滋賀県でももう終わったということなのだろうか
。

ヴォーリズ通りを歩いた後、近江今津駅の近くのアーケードのある商店街でおいしい鰻丼を食べて、もう一度駅から琵琶湖の方に向かって歩きました。

駅から5分くらいですぐに琵琶湖岸に着きます。

ここが今津港。大津、長浜との間に定期便が運行しています。

ちょうど船が出航したところでした。
船着場の先端に見えるのがその船。
手前の三角の形をした石が「琵琶湖周航の歌記念碑」です。
「われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇るさぎりや さざなみの
志賀の都よ いざさらば 」
なつかし~い歌ですねえ。

今津港と駅の間に「琵琶湖周航の歌資料館」ができていました。
9;00~17:00
休館:月曜、年末年始
入館無料
琵琶湖周航歌についてのいろいろな資料が展示され、多くの演奏家による曲を聴くことができます。
しかし、この施設はどこの誰が作って運営しているのだろうか、どうも意味不明だった。
「琵琶湖周航歌」を作曲したのは吉田千秋、作詞は小口太郎です。
吉田千秋は新潟県生まれ、東京農業大学の学生だった大正4年に「ひつじぐさ」を作曲して、雑誌「音楽界」に投稿しましたが、結核のため、大正8年に22才の若さで亡くなっています。
小口太郎は長野県岡谷市生まれ、第三高等学校に入学、ボート部による琵琶湖周航に参加した時、1917(大正6)年6月26日に今津の合宿の宿でこの歌を作詞しました。
ボート部員達がその歌詞を「ひつじぐさ」のメロディにのせて歌ったのが「琵琶湖周航歌」の始まりでした。
小口太郎は、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学理学部に入学、「有線及び無線多重電信電話法」の特許を得るなど将来を嘱望されていましたが、徴兵にあい、精神を病んで大正13年に26才で自殺したそうです。
と、いうようなことを、この「琵琶湖周航の歌資料館」に寄って初めて知りました。
こういう背景を知ると、この歌から何か「青春の歌」という感じを受けるのもうなづけるような気がしてきました。
「ひつじぐさ」というのは、日本産の小型の睡蓮のことで、今津町では今これを増やそうとしていて、たくさんのお家の前に睡蓮の鉢が置かれていました。
7月17日夜、友人と琵琶湖ホテルで夕食をいただきました。
京都では雲っているだけだったのに、滋賀県に入ると雨が激しくなってきました。

「夏姿会席」
前菜は虫籠風の蓋に入って出てきました。
この虫籠、欲しい~です
。

ここの鮎はさすがに琵琶湖産らしく、小ぶりでした。

水物のすいかを入れたお皿も涼しげ。

浜大津駅から琵琶湖ホテルに向かう道から見えたこの建物は何?
気になる建物です。
京都では雲っているだけだったのに、滋賀県に入ると雨が激しくなってきました。

「夏姿会席」
前菜は虫籠風の蓋に入って出てきました。
この虫籠、欲しい~です


ここの鮎はさすがに琵琶湖産らしく、小ぶりでした。

水物のすいかを入れたお皿も涼しげ。

浜大津駅から琵琶湖ホテルに向かう道から見えたこの建物は何?
気になる建物です。
ヴォーリズ建築を訪ねるついでに近江八幡の町もちょっとだけぶらついて来ました。

昔ながらの城下町のたたずまいが残って落ち着いた町です。

旧YMCA会館の近辺には低い瓦屋根の家がたくさんあって、おもしろい景観を作っていました。
京都でもこんなにいらかの波が重なっているところはもうほとんど見られないでしょう。

八幡堀も観光客も少なく、冬の静けさを保っていました。

信楽に行ったのは友達がめざすお買い物があったため。
でも、信楽高原鉄道貴生川駅からの大勢の人出に「これは何事?」と思ったら、信楽駅前で「しがらき駅前陶器市」が開催されていたためでした。知らなかったけれど、第14回ということなので、毎年春と秋に行われているようです。

で、駅の前では千匹の狸がお出迎え。
駅前広場にはたくさんのお店が出ていて、人・人・人・・・。
そして、

タヌキ、

タヌキ、

タヌキ、

フクロウもいました。

家族へのおみやげは、「優勝お願い狸」でした。
近江八幡から近江鉄道電車に乗りました。

到着した電車。

貴生川まで乗った電車はギャラリートレインで、日野の町やお祭りの写真がたくさん展示されていました。
やっぱりこの電車を見ると西武系だとわかります。

日野の駅で電車はしばらく休憩(?)します。この間に電車内のギャラリーも全部見てまわることができたし、外の空気も吸いに出てみました。
なんだか心引かれる駅舎です。

近江八幡から貴生川まで18駅、約1時間。
貴生川から信楽高原鐡道に乗り換えて約25分で信楽駅です。

信楽高原列車に乗ると急に人が増えてきて、ぎっしりの満員です。それは、信楽でこんなイベントがあったから。

おかげで、近江鉄道と信楽高原鐡道を一日1000円で乗り放題の「びわこ京阪奈線フリーきっぷ」でまわることができました。このきっぷは平成21年3月31日までの土・日・祝日に発売されています。詳しくはこちらに。
信楽高原鐡道に乗るとぐんぐんと高度を増して高原に向かって登っていっているのがよくわかります。まわりは新緑の木々が生い茂ってさわやかな景色、所々に山藤の花が咲いているのが見えます。
でも、どうしてもあの事故のことを思わずにはいられません。いったいどのあたりで起こったのだろうと思いましたが、それらしい所は見当たりませんでした。
あれからJRも信楽高原鐡道もきちんと安全への姿勢が立て直されているのでしょうか。JRはとてもそうとは思えません。交通機関には5分や10分早くならなくてもいいから、安全だけは守っていってほしいと思います。
桂離宮を見た後、そのまま阪急電車、京都市営地下鉄、JRと乗り継いで、その夜は近江八幡の国民休暇村に宿泊。ゴールデンウィークは混雑する京を脱出して、近江の国をお散歩しました。
しかし、翌日近江八幡の八幡堀近辺を散策できたのは、わずか1時間程の駆け足散策
でした。


お堀には黄色いアヤメ(or 菖蒲?)も咲いていて、

遊覧船も浮かんでいました。
この日もとても暑い一日
で、木陰がうれしいです。


白雲館は明治10年に擬洋風建築として建てられた八幡東学校です。現在は修理されて1階が観光案内所、2階が市民ギャラリーになっています。

その2階からは向こうに八幡山とロープウェイが見えます。

日牟禮八幡宮の境内にはこいのぼりがたくさん吊られていました。

和菓子のたねやさんの店頭で販売されていた焼き餅を食べました。
2007年5月13日、近江商人を訪ねる旅に行ってきました。
最後に訪れたのは日野町、ここも近江商人の里としてはずせない所です。

近江日野商人館(日野町立歴史民俗資料館)。山中兵右衛門の旧宅。
山中兵右衛門は1704(宝永元)年より日野椀の行商から始めて、酒の醸造と販売を業としてきています。
ここを訪れるのは3度目です。

玄関に駕籠と車石が展示してあります。
車石は大津から三条あたりの東海道に荷車の轍が通りやすいように溝を掘った石をならべたもの。財をなした近江商人が地域社会の環境改善や文化の向上に出費した例として、車石の設置が挙げられています。

1階のお座敷。この建物は昭和11年の新築ですが、とてもよい材質の木材を使用して建てられています。

二階には日野近江商人のいろいろな資料が展示されています。
日野小学校前にある天秤棒を持った商人像の写真も。

ついでに、近くにあるシャクナゲ寺(慈眼院)にも寄りました。

シャクナゲはほとんど咲き終わっていましたが、わずかにこれだけが残っていました。
昨年5月3日にシャクナゲが満開だった様子。
近江商人郷土館ではお二人も説明に出てきていただいて、じっくりと見たので、後は時間がなくなってきて、近江八幡はパス、五個荘の近江商人屋敷も外から眺めるだけになりました。

中江準五郎邸。

外村宇兵衛邸。

鯉が飼われている水路。


母屋部分は生活館として公開され、当時の商人や家族、店員の生活をうかがい知ることができるようになっています。
入ってみると、ここもまたお宝の山でした。
伊井家から拝領した絵画や陶器などと、和漢の古典や実用書等の古書籍、茶道の手習い本や道具類などたくさんあって、商家の教養の高さがよくわかりました。
何しろ、一つの蔵が典籍類だけでいっぱいなのです。



お庭の手入れも行き届いています。

箱階段。とても幅が広いです。

屋敷に続いて蔵がいくつもあります。

家の中に井戸があります。

おおっ!茶弁当ですぞ。>もちや様。

こちらはお燗の道具?

茶壷もいっぱい。

家の中に水路をひいて、洗い物などをする「川戸」。

浴衣の紋型板。

石臼もありましたぞな。
近江商人を訪ねる旅、次に訪ねたのは東近江市小田苅町にある「近江商人郷土館」。

元は豪商小林吟右衛門の店舗と屋敷だったのを財団法人にして公開し、商用具、家具、古文書等を展示しています。
入館料 大人500円(資料館、生活館両方見れます)
開館10時~16時
月曜、12月~2月休館

蔵を利用した資料館。
昔のお店の様子を再現したところ。
「小林」の名前入り千両箱があります。

商いの旅に使った道中合羽と天秤棒、帳面類・看板その他の商用具類が展示されています。

小林家がシンボルとしたのは香辛料の丁子、このマークがいろいろなところに使われています。
丁子屋林吟右衛門から「ちょうぎん」と号し、やがてチョーギン株式会社に発展しました。
元は1798(寛政10)年に創業、織物卸業、金融業を江戸、大阪、京で営み、伊井家御用達となり、苗字帯刀を許され、伊井家の本陣ともなりました。
幕末には、桜田門外の変の様子を江戸店から京店に連絡し、伊井家にも知らせた文書が残っています。
小林家は河川、道路などの公共事業や教育、福祉などへの貢献も努め、明治になってからは近江鉄道の計画にも参与し、その資料も展示されています。

何棟もの大きな蔵と屋敷が軒を連ねています。
近江商人恐るべし! スケールの大きさにびっくりしました。
