wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

僕の読書ノート「かもめのジョナサン 完成版(リチャード・バック)」

2021-11-06 08:07:53 | 書評(文学)

カモメが仲間たちから抜け出して、飛ぶことの技術を高めることに喜びを見い出し、同じ目的を持つ者たちで師匠と弟子のような関係ができて、瞬間移動のような神秘的な境地にまで到達する物語である。子どもでも読めるようなとても平易な文章と短さにもかかわらず、難しい小説であった。どこに感動すればいいのか、どう解釈すればいいのかがわからないのである。大衆化・形骸化した一般社会と、個人の自由と成長の対立を描いているようにも見えるが、単純にそれだけではないようにも思える。かんたんには見えない深い意味が隠されているようにも思えるのだが、それが何なのかがわからない。

私は25年くらい前に人から贈られて読んだ「ONE」という小説に、そうとうな感銘を受けたことがあった。その著者が、「かもめのジョナサン」の著者でもあるリチャード・バックであった。心がどうにかしてしまったときに読んだら、大きな気づきをもたらしてくれて、救われたような気持にしてくれた本であった。「かもめのジョナサン」もそういうタイプの小説なのだろうか?本書は、1970年に米国で初版が出版され、最初はヒッピーの間で読まれていたのが、一般大衆、そして世界に広まり、2014年時点で世界で4000万部売れたという。日本でも270万部を超えている。そして、2014年に、新たに第4章が加わった完成版が出版された。初版も完成版も、日本では五木寛之氏が訳(創訳)している。その五木寛之氏はあとがきにおいて、心理学用語のゾーン、仏教者のブッダや法然などを持ち出して、なんとか本書の意味を解釈しようとしているが、不思議な物語だと言っている。

1970年は、米国では泥沼のベトナム戦争の最中であり、一方では1950年代から広がってきた禅ブームという精神性への回帰や、ヒッピームーブメント、フォーク・ロックなどのカウンターカルチャーの流行もあった。そのころは、みな現状にいい加減うんざりしていて、今いる場所の呪縛から抜け出して自由になりたかったのではないだろうか。そんなときに「かもめのジョナサン」は、救いを見せてくれたのかもしれない。

2014年に加わった第4章では、かもめの師匠となったのち消えていったジョナサンが神格化され、飛ぶことの修業は軽視され、ジョナサンの伝説を崇める儀式へと形骸化していくというどんでん返しが付け加えられた。イリュージョン(=かもめの一般社会)から抜け出してせっかく自由になったのに、見えてきたのはまた別のイリュージョン(=形ばかりの儀式)だったというストーリーだ。1969年に発表されたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「I'm set free」という曲の歌詞を連想させてくれた。


僕の読書ノート「夏への扉(ロバート・A・ハインライン)」

2021-10-09 07:37:09 | 書評(文学)

高校生のころはよくSFを読んだものだが、久しぶりにSFをまた読んでみたくなった。まだ読んだことのない名作はたくさんある。その中で気になっていた一つが、ネコが出てくるハインラインの「夏への扉」であった。この早川文庫[新版]表紙の「まめふく」さんによる絵は表紙買いしそうなほど素敵ではないか。

ハインラインは米国の1907年生まれで、日本では太宰治が同じ年の生まれだという。古い世代のイメージの強い太宰治と同じ年代の作家が、こんな未来的な小説を書いていたとは不思議な感じがする。本書は1957年の作であり、もう60年以上経っているので描写に古さも感じるが、そこに出てくる科学技術は2021年の現在でも実現されていないものもある。それが、本書の主要なテーマである冷凍睡眠とタイムトラベル(時間旅行)である。また、現在進行形で研究中の技術も出てくる。主人公の専門であるロボット技術もそうだ。「ほんものの肉でなければなどと贅沢をいうのではだめだが、そんなことをいうやつにかぎって、ハンバーグ・ステーキが、タンクで作られた肉か、天然ものの肉か、区別できはしないのだ」という2000年についての記述など、まさに現在最先端の代替肉の技術開発を予測できている。このように、SF小説における未来予測は当たることもあるけれど、当たらないことも多いというものだろう(もっと未来には実現することもあるだろうが)。

それよりも、普遍的な人間関係の物語が描かれているのであるが、想像上の未来的な状況設定の中で物語の限界が大きく広がっているところが、本書の魅力だと思う。それまでの30年間で、2回の大戦争、コミュニズムの没落、世界的経済恐慌、すべての動力源の原子力への転換などを経て、時代は1970年。恋人ベルと友人マイルズに裏切られて、主人公のダンは、飼いネコ・ピートとともに夏への扉を探すために、30年間の冷凍睡眠に入る。冷凍睡眠から戻ったダンは、何かに追い立てられるように、とにかく前へ前へと突き進む。ベルにも再会するが、「久しく前から、ぼくは、復讐という行為が、大人気ないものだという結論に達していた」と言うように、もうどうでもよくなっていた。あとになって、ベルという人間は、周囲を次々に不幸にしていく、犯罪者的なパーソナリティの持ち主であることもわかってくる。そして、最後の1/4くらいから、大きく展開する。起承転結の転である。何が起きたのかはここには書かないが、ダンよ、よくがんばったと言いたくなるような結末をむかえるのである。

繰り返すが、人間の物語+SF的シチュエーションの、ダブルでおもしろい小説である。もちろんネコも出てくるが、どちらかというと脇役かな。


僕の読書ノート「裸のランチ(ウィリアム・バロウズ)」

2021-06-19 12:35:58 | 書評(文学)

読書自体が苦痛だった。

そもそも、日本の文学で満足しないで、世界の最果ての文学を読んでみたいという発想で、選んだのが本書である。デヴィッド・ボウイをはじめ、アンダーグラウンドな精神を持ったミュージシャンたちからも評価が高く、とにかくブッ飛んでいることで有名な、ウィリアム・バロウズ、1959年の著である。購入して10ページくらい読んだが、もう無理だと思って放置していた。それから、1年くらい経ってから、とにかく最後まで読んでみようという強い意志を持って、1カ月半くらいかけてなんとか読み切った。しかし、しんどかった。読んで何か自分の役に立つとはとうてい思えない。読むことが時間の無駄だとしか感じられない。それくらい、マイナス側に振り切れた本だと言えるかもしれない。

内容は、ジャンキーのドラッグ摂取と中毒、売人、ホモ行為、人間の悪意、人種差別、愉快殺人、汚物、そうしたものが配された支離滅裂で悪ふざけなストーリーがぶつ切れに並べられた小説である。米国の怪奇的なアングラ映画に近い世界かもしれない。しかし、まだそうした映画のほうがまともで優しいものである。

私はそのような感想しか持てなかったので、名の通った評論家によるあとがきから講評を引用しておく。

まずは、訳者である鮎川信夫氏によって1965年に書かれたあとがきから:『バロウズの作品は現代世界文学の最前衛における台風の目のような存在になってきている。その彼も、「裸のランチ」が出版されるまでは、英米読書界の一部をのぞいてそれほど知られていなかったのであるから、本書の出現は大きな文学的事件として記憶されるに足るものと言えるだろう。・・・いかなる人間もジャンキーと変わりないものだという認識は、現実を回避したがる多くの人びとに嫌悪を催させ、身慄いさせるかもしれない。・・・いずれにしてもバロウズが自分の感覚の前にあるものとして再現してみせたものは、すぐれた幻視者にとってのみ見ることの可能な現代の地獄図なのである。』

つぎに、山形浩生氏による1992年の解説から:『原著の刊行からほぼ30年がたった現在、本書はすでに20世紀の古典としての地位を確立している。かつては単なるきわもの的な部分ばかりがとり沙汰されていたが、そうした部分の衝撃性が相対的に薄れ、カットアップや折り込みという技法への過度の期待もやっと沈静化した今日「裸のランチ」を筆頭とするバロウズの世界そのものに対する共感なり反発なりが、ようやく表面に出てきているのだ。・・・視覚的であるよりは聴覚/嗅覚/触覚的、具体的であるよりは抽象的な世界。人間関係の構造だけが顕在化した、まるで神話のような世界。』


僕の読書ノート「騎士団長殺し 第1部上下・第2部上下(村上春樹)」

2019-12-14 10:24:16 | 書評(文学)
 
 

30代の肖像画家の男が、妻と離婚し再びよりを戻すまでの9カ月間に起きた物語である。その期間のことを思い返す形で文章が書かれている。主人公は「私」であり、名前は示されない。旅、身近な人の死、セックス、人生あるいは世界の謎が出てくるところは、これまでの村上長編小説のスタイルに則っている。離婚の原因である妻の不義に心を痛め、長旅を経て、新しい家でなんとか新しい生活を始めようとする。ところが、その家で予想もつかない様々な不思議な出来事が起きていき、非現実が現実を侵食していく。そして現実的な平穏が戻ってきたところで、妻とよりを戻して物語は終わる。

重要なモチーフは重層的であり、絵画であったり、第二次世界大戦がもたらした人間の不幸であったり、自らの心の奥にあるどす黒いものであったりするのだが、複雑な舞台装置の陰から浮かび上がってくるテーマは、親が子を残すということではないだろうか。それは、子供への無上の愛についてでもあるし、自らの遺伝子を残すということについてでもある。これまでの村上春樹の小説ではあまりなかったテーマではないだろうか。さらに言えば、プライベートで実子を持たない彼がなぜこのことを書いたのか不思議な感じがした。あるいは、子供を持たないからこそ挑んだ、精神的な実験だったのかもしれない。「私」は「免色」という男に、親近感や連帯感を感じる。そして「私」はこう考える―「我々はある意味では似たもの同士なのかもしれない―そう思った。私たちは自分たちが手にしているものではなく、またこれから手にしようとしているものでもなく、むしろ失ってきたもの、今は手にしていないものによって前に動かされているのだ。(第1部下、p.235)」

結婚にも家族を持つことにもまったく関心のない人生を送ってきたはずの冷静で完璧な男「免色」は、自分の実の娘かもしれないが確証はない少女の存在を知り、その少女の様子を見ることだけに全ての精力を注ぎ込む生き方をしている。それは愛情なのか、本能なのかもわからない。「免色」は「私」にこう言う―「この世界で何を達成したところで、どれだけ事業に成功し資産を築いたところで、私は結局のところワンセットの遺伝子を誰かから引き継いで、それを次の誰かに引き渡すためだけの便宜的な、過渡的な存在に過ぎないのだと。その実用的な機能を別にすれば、残りの私はただの土塊のようなものに過ぎないのだと(第2部上、p.167)」
ここでは、自らの成功にはもはや価値を感じず、極端に生物学的な存在としてのみ自分の存在意義を見出すような精神に至っている。

一方で、「私」に部屋を貸してくれた「雨田」は高名な画家である父について述べる―「おまえにはDNAを半分やったんだから、そのほかにやるものはない。あとのことは自分でなんとかしろ、みたいな感じなんだ。でもな、人間と人間との関係というのは、そんなDNAだけのことじゃないんだ。そうだろ?何もおれの人生の導き手になってくれとまでは言わない。そこまでは求めないよ。しかし父親と息子の会話みたいなものが少しはあってもよかったはずだ。自分がかつてどんなことを経験してきたか、どんな思いを抱いて生きてきたか、たとえ僅かな木れっ端でもいい、教えてくれてもよかったはずだ(第2部下、p.36)」
自らの実の子を持っても、まったく興味を持たない親もいる。

「私」の元妻「ユズ」は妊娠して子供を産むことを決意する。その子の父親が誰なのかははっきりしないが、「私」は夢の中で明確に「ユズ」を身籠らせる行為をした。そして「ユズ」に対してこう言う―「ひょっとしたらこのぼくが、君の産もうとしている子供の潜在的な父親であるかもしれない。そういう気がするんだ。ぼくの思いが遠く離れたところから君を妊娠させたのかもしれない。ひとつの観念として、とくべつの通路をつたって(第2部下、p.356)」
そして、「私」は「ユズ」と夫婦に戻り、「ユズ」が生んだ子供「むろ」を育てる。
「彼女が誰を父親とする子供なのか、事実が判明する日が来るかもしれない。しかしそんな「事実」にいったいどれほどの意味があるのだろう?むろは法的には正式に私の子供だったし、私はその小さな娘をとても深く愛していた。そして彼女と一緒にいる時間を慈しんでいた。彼女の生物学的な父親がたとえ誰であっても、誰でなくても、私にはどうでもいいことだった。それはまったく些細なことなのだ。それによって何かが変更をうけたりするわけではない(第2部下、p.371)」
イデアやメタファーといったいかに観念的なものであろうと信じているのであれば、その子は自分への贈りものなのだと言って結んでいる。
現実には様々な親子のありようがあるが、子は親にとってかけがえのない宝物のはずだいうことを、メッセージとして伝えたかったのではないだろうか。
もし自分に子供がいたらきっとそう思うはずだと、村上春樹は言っているようにも思える。

書評「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)」

2017-12-24 20:54:21 | 書評(文学)


2013年に発表された村上春樹の長編小説である。文庫版で421ページ、1巻のみの、彼の長編小説としては比較的短いほうの部類だ。物語としての面白さに引き込まれて一気に読めた。無意識を最大限活用して物語を紡ぎ出すのが彼の小説執筆作法だから、実際に物語の中でも夢や空想と現実が相互に影響し合っているし、精神分析的な深読みもできるのかもしれない。しかし私はそういう分析的な読み方より、自分の人生と世界の仕組み=謎を少しでも解き明かそうとする主人公の心の旅=冒険を共有できることに何よりの喜びを見出している。だから、村上春樹の小説を読んで何かを学ぼうとしているのではなく、読むこと自体が快感なのである。

高校時代の仲良し5人組から大学の時に追放されたことが今でもトラウマとして残っている主人公の多崎つくるは、人にこれと示せるような特質がない、つまり色彩が希薄であると自分で思っている。36歳になったとき、はじめて本気で好きになった沙羅から強く勧められて、高校時代の友人たちから自らが拒絶された理由を聞くために旅に出る。そこで聞いたことよって他者の弱さも知り、失われていた人生の断片を取り戻そうとする。一方、沙羅は他にも付き合っている男がいることを知る。最後に彼女は自分を選んでくれるのか決断を引き出そうとするが、結末は示されずに小説は終わる。
おそらく沙羅はつくるを選ぶのだと思うが、仮に選ばなかったとしても、大学時代で止まっていた彼の人生は再び動き出したのだ。それこそが大きな収穫ではないか、と言わんとしているようだ。


この小説に何度も出てくる音楽は、リストのピアノ曲集「巡礼の年」の中の「ル・マル・デュ・ペイ」という曲、それもラザール・ベルマンというピアニストによる演奏だ。それが映像と共にユーチューブに紹介されていた。
Liszt: Le mal du pays / Lazar Berman / Haruki Murakami / Années de pèlerinage