wakabyの物見遊山

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僕の読書ノート「Casa BRUTUS特別編集 死ぬまでに見ておくべき100の建築」

2020-12-26 18:38:36 | 書評(アート・音楽)

コロナ禍で旅行に行けなくなったので、世界の建築を写真で見て旅行気分を味わおうと思って、2016年刊の中古品で買った。テーマは最高、申し分ない。こんな建築をほんとうに沢山見たいと思う。内容は盛りだくさんで186ページあるから、たくさんの建築を堪能できたのだが、編集部が選んだ100建築以外にもいろいろな特集が組まれているのはちょっと余計かなと思った。できれば100の建築のみにフォーカスを当てて、1建築2ページくらいで、複数のアングルで見せてほしかった。1つの建築が小さな1枚の写真による紹介だけですまされている例が多かったのである。一方で、ル・コルビュジエのラ・トゥーレット修道院/ロンシャンの礼拝堂、著名な建築家の作品が集まるヴィトラキャンパス、ヘルツォーク&ド・ムーロンのテート・モダン、オスカー・ニーマイアーのブラジリア建築、ジョージアのビックリ現代建築などのように、現地取材までして詳しく紹介されているものもあって、知見が広がった。

100の建築の中には日本人建築家による作品も多く、丹下健三、黒川紀章、安藤忠雄、サナアなどの世界的なスター建築家を多数生み出してきたことは日本の誇りだと思う。ちなみに、100の建築のうち私が実際に見たことがあるのは、日本の3件と海外の2件の、合せてたったの5件だった。まだまだ見聞が狭いようだ。


僕の読書ノート「高倉健、その愛(小田貴月)」

2020-06-06 08:06:48 | 書評(アート・音楽)

不器用にしか生きていけない男たちの心のよりどころ、高倉健(本名:小田剛一)。2014年11月10日に永眠して、もうすぐ6年になるが、お墓参りしたくても正式なお墓がないし、住んでいた家ももう残っていない。最後の17年間をともに過ごした養女が、骨も遺品も遺産もすべて独り占めしてしまったといって世間からずいぶん叩かれた。その養女、小田貴月(おだたか)さんは何を考えているのかずっと知りたいと思っていたところ、ついに本書を執筆・出版した。

この二人が男女の関係にあったのだとしたら、一般的に見たらずいぶん不思議な関係だったのだなあというのが感想だ。その17年間の間柄は、一緒に出掛けることもなく、会うのは自宅の中だけの、世間から完全に隔離されたひっそりとしたものだった。そして、関係がまったく対等でないのだ。小田貴月さんは高倉の忠実な家政婦兼記録者になりきっている。そういう関係であることをお互いに認め合っていたようにも見える。

これまでに、あちこちで書かれてきたように、高倉は生涯に一度だけ歌手の江利チエミさんと結婚しているが、それは対等な関係だった。しかし、夫婦生活は苦難に満ちたものだった。チエミさんの義姉を名乗る吉田よし子という女が家政婦になり、疫病神のように悪行の限りを尽くした。家に火をつけて全焼させる、財産を横領する、高倉が浮気しているとチエミさんに吹き込んで離婚させる。それが嘘だったとわかり、チエミさんは高倉に謝って再婚を願い出るが、高倉は半年待ってくれと言う。チエミさんはその間にアルコール依存症になってしまい、ほとんど自死に近いような死に方をしたのだった。その後、高倉は亡くなるまで再婚することはなかったが、その理由としてはチエミさんへの思いもあっただろうし、結婚という形に心底懲りてしまったということもあったのかもしれない。

だから、世間から見たらずいぶんと変わっているのだが、心から信用できる、そして女性としても愛する小田貴月さんという人が現れて身の回りの世話までしてくれるようになったことは、高倉にとってはとても幸せなことだったのだろうなと思った。高倉は亡くなる2カ月前にこう書き遺したー「僕の人生で一番嬉しかったのは貴と出逢ったこと 小田剛一(p.330)」。そして、亡くなる2年くらい前に、「僕のこと、書き残してね。僕のこと一番知ってるの、貴だから(p.8)」と高倉から言われた宿題を果たすために、膨大な資料と記憶をもとに書かれたのが本書である。内容は、高倉の映画人生、生活で起きたこと、二人の間に起きたことの記録である。

小田貴月さんも最初は不安でいっぱいだったようでー「高倉への一歩は、地図のない山に入山記録を残さず、単独登攀に臨むようなもの。迷路あり、行き止まりあり、判断を誤れば、遭難、滑落するかもしれない大きな決断でした(p.28)」と述べているが、覚悟を決めた後はー「”目立たずに過ごしたい”という希望に副い、高倉とは国内外の旅はもちろん、一緒に外食すらしたことはありませんでした(p.28)」そして、高倉の食生活の偏りを心配して、「食事のことで、私でお役に立てることはないでしょうか(p.66)」と尋ねたことをきっかけに、自ら望んで家での料理係となった。高倉が亡くなった後、家を処分したことについては、「高倉にとって、家は一代、誰にも見られたくない聖域でした。その思いをうけ、高倉の旅立ちとともに封印しました(p.57)」と、書いている。

文化大革命後の1978年ごろから中国で日本の映画が公開されるようになり、高倉が主演の「君よ憤怒の河を渉れ(1976年)」は中国全土で10億人以上が観たとも伝えられている。それ以降、高倉は中国で圧倒的に支持されるようになり、「あなたは、高倉健の様だ」と言われることは、男性への最上の褒め言葉で、女性にとっては理想の結婚相手となった。

日本生命/ロングランのCM(1984~1989年)に出演して、「自分、不器用ですから・・・・(どうか幸せで)」というコピーがきっかけで、高倉健=不器用というイメージが固まった。それに対して高倉は「『不器用ですから』というのは、コマーシャルでライターが考えた文句。とっても器用に生きてきたつもりです」とか「自分じゃ、全然不器用って思ってないけど」と、否定していたという。

この本を読んだことをきっかけに、テレビから録画したままだった高倉の映画をいくつか見た。「新幹線大爆破(1975年)」「八甲田山(1977年)」「遥かなる山の呼び声(1980年)」「単騎、千里を走る。(2006年)」―どれを見ても、ぶっきらぼうで不愛想だけれど心に人への強い思いをかかえている健さんが出てくる。もう他に、こんなタイプの映画スターも、中国人が憧れ尊敬する日本人も、出てこないかもしれない。稀有な存在だった。


健さんが亡くなったときの私のコメントはこちらです


僕の読書ノート「永遠のソール・ライター」

2020-05-09 07:55:32 | 書評(アート・音楽)

最近、ときどき名前を見る写真家だったため気になっていたところ、NHKの日曜美術館(2020年2月9日)で紹介されているのを見ていっきに好きになった写真家である。その写真家の名はソール・ライター(1923-2013)、もう故人である。ニューヨークを拠点に撮り続け、初期には商業写真で有名になり、その後その芸術性への世間の無理解のために表舞台から長い間退いていたが、晩年になって再評価されるようになった写真家である。

本書は、Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」(2020年1月9日~3月8日、新型コロナのため2月28日以降中止)などの展覧会に関連して刊行された写真集である。

普通は写真に撮らないような被写体、画像が多い。街の建物のガラス窓越しに見える向う側の景色、ガラス窓に反射して見える景色、ガラス面の水滴や落書き、雪や雨のため景色がモノクロ調になっているところに現れた鮮やかな色彩、陰から覗き見しているような画像、などといった普段私たちの視界に飛び込んでくる画像だけれど、わざわざ写真にはしないような被写体を選んで、狙って、撮ったような写真である。それがとても印象的で、見て楽しいし、その現場や時代の雰囲気が私たちの感覚・感情にダイレクトに入ってくるのである。

この写真集は312ページにわたって、たっぷりの写真と少しの解説文、そしてライター自身の言葉がちりばめられている。いくつかライターの言葉を引用したい。

あらかじめ計画して何かを撮ろうとした覚えはない。

人々が深刻に受け止めてることを見てみると、大半はそんなに深刻に受け止めるに値しない。重要だと思われていることもたいていはそこまで重要じゃない。大半の心配事は心配に値しないものだ。

本があるのは楽しかった。絵を見るのも楽しかった。誰かが一緒にいるのも楽しかった、互いに大切に思える誰かが。そういうことのほうが私には成功より大事だった。

芸術は果てしない再評価の連続だ。誰かがもてはやされ、やがて忘れられる。そして、再びよみがえり、また忘れ去られる。それが、延々とつづくのだ。

こうした言葉からは、成功には興味を持たずに飄々と生きてきたように見える。しかし、モデルだった妻のソームズ・バントリ―が2002年に世を去った後、2006年になって彼の写真集「Early Color」が出版されて再評価されるようになったのだが、その成功を彼女と分かち合えなかったことを、事あるごとに嘆いていたという。


僕の読書ノート「Casa BRUTUS 2020年3月号 [バンクシーとは誰か?]」

2020-03-01 13:20:42 | 書評(アート・音楽)

今年は、日本で初のバンクシー展があいついで開かれる。「バンクシー展 天才か反逆者か」が、横浜・アソビルで2020年3月15日~9月27日、大阪で10月から、また「BANKSY展(仮称)」が東京・寺田倉庫で2020年8月29日~12月6日に開催が予定されている。これらの展覧会を見る前の予習に使えそうな情報源が本書である。

[バンクシーとは誰か?]というタイトルが付いているが、バンクシーが誰かの正体探しがテーマになっているわけではない。それについて少しは触れているが、よくはわからない。正体ではないかと評判になっているマッシブ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)は、バンクシーにとってのヒーロー、先駆者という位置づけになっている。バンクシーという人物とそのアートがどういうものなのかを、多方面から紹介することが主題となっている。サザビーズでのシュレッダー事件、東京都知事による港湾地区のバンクシー作品保護といった最近の話題から始まり、パレスチナに建てられたThe Walled Off Hotelについては14ページがさかれているほか、いろいろな情報が満載で、今まであまり知らなかったことも載っている。

たとえば、どうやって収入を得ているのか?壁に描かれるグラフィティとは別に、アトリエで制作した作品も出回っている。最初は安価で知り合いなどに売っているらしいが、オークションやディーラーを通じて作品が転売されるたびに、その都度作者に印税が入るARR(アーティスト再販権)制度が英国やEU圏にはあり、収入になっているという。また、自ら監督した映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」はアカデミー賞にノミネートされるほど成功したので、そこからの収入もある。

バンクシーは匿名の作家なので偽物も出やすいが、どうやって防いでいるのか?コレクターが偽物をつかまされないために認証機関「ペストコントロール」が作られた。作品の真贋を確認し、本物と認められた作品には証書が発行される。

手掛けたCDジャケットは、ブラーのThink Tankだけだと思っていたが、マイナーなアーチストを含め少なくとも9作品を提供しているようだ。

990円でこのボリュームとクオリティーは、コスパが高いと思った。

 

Massive Attack - Risingson


僕の読書ノート「教養としてのロック名盤ベスト100(川崎大助)」

2019-10-26 09:54:23 | 書評(アート・音楽)


ロック好きでいろいろ聴いてきたつもりだが、自分の趣味趣向にそった直感や思いつきで聴く音楽を選んできたので、他にも聞くべきすばらしいロックがあるんじゃないだろうかという意識は常にあった。本書は一定の客観的基準で選ばれたロック名盤ベスト100だから、個人の嗜好で選ばれていない。より普遍的なよい音楽と考えられているものは何なのかがわかるし、これから何を聴くかの参考にもなる。

米英にはロック名盤のリストがある。アメリカで最も有名なものが、音楽雑誌「ローリング・ストーン」が発表した「500 Greatest Albums of All Time」の2012年改訂版である。イギリスで最も有名なものが、音楽メディア「NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)」が発表した「The 500 Greatest Albums of All Time」である。その両方にランキングされているものを抜き出し、それぞれのランキングでの順位に従ってポイントを付与し、双方のポイントを合算して、トータル・ポイントの多いものから順位を決めている。従って、両方の雑誌で評価の高いものが上位にくるが(普遍的、音楽史的によいもの)、指向性の異なる両雑誌間で評価が分かれるものや売れたけれど評論家の評価が低いものはランクに入ってこない(趣味性、大衆性が高いもの)、という性格を持ったランキングとなっている。

結果を見ると、半分くらいは私が聴いていないアルバムであった。とくに黒人音楽はほとんど聞いていないに等しい。黒人音楽やヒップホップは、いまやロックという音楽カテゴリーの中の大きな一画を占めているのである。100枚のうち、多くのアルバムがランク入りしているアーティストは、ビートルズ(6枚)、ボブ・ディラン(5枚)、ザ・ローリング・ストーンズ(4枚)、デヴィッド・ボウイ(4枚)、ブルース・スプリングスティーン(3枚)、レディオヘッド(3枚)であった。

著者の川崎大助は、ロックに対する日本独特の評論について下記のような批判をしている。

52位の「リメイン・イン・ライト(トーキング・ヘッズ)」への評論について、次のように述べている。
『ところで、どうも世界じゅうで日本でだけ、本作へのバッシングがおこなわれていた、らしい。「白人のロック・バンドが黒人音楽をあからさまに導入するのは間違っている」のが理由だという。意味がわからないのだが、もしそう考える日本の人がいるのなら、その人は洋楽を聴いてはいけない。「他民族」がやっているのが洋楽なのだから。また日本人の演奏でも、それがロックなら聴いてはならない。トーキング・ヘッズの「このやりかた」こそが、ロックの原点から脈々と流れ続ける思想に基づいているものだからだ。』
これは、川崎が以前ライターをしていた音楽雑誌「ロッキン・オン」の社長、渋谷陽一に向けた痛烈な批判だ。

また、4位の「ペット・サウンズ(ザ・ビーチ・ボーイズ)」について、批判をしている。
『本作は、明瞭な保守反動性につらぬかれていた。...それでもいい、という考えかたはもちろんある。だがこの「反動性」は、たとえばボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンのようなロックとは水と油で、まったく相容れないものだ。しかし日本では、村上春樹を筆頭に、これらの全部を「同等で等価のもの」として並べるのが格好いいと「誤解」する人が多く、音楽評論家もそんな人ばかりのようで...僕は不思議でしょうがない。だれも歌詞を聴けないのだろうか?英語圏においては、僕はそんな人、ひとりも見たことないのだが。』
このアルバムは日本の玄人筋では非常に評価が高い。しかし、私にはプラスティックな、オモチャのような音楽にしか聞こえなくて、心から好きになることができないでいたので、このような批評をする人がいることを知って心強く感じた。