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不安症や神経質に関わる遺伝子は進化で残ってきた

2018-12-01 22:40:20 | 脳科学・心理学
脳科学の分野で興味深い研究報告がありましたので、ひさしぶりに紹介します。

ヒトの心の個性や精神疾患に関係する遺伝子が進化の過程でいつ生まれて、どのように現在に至るまで残ってきたかを解析した論文です。こうした遺伝子の存在がヒトという種の存続にとって有害であるとしたら、進化における自然選択の過程で消えていくはずです。でも、実際には多くの人が、心の問題で悩んだり、生きにくさを感じたり、病気にまで進行したりしているというのが現実です。ということは、ヒトという種の存続にとってなんらかの役に立ってきた可能性も考えられます。こうしたことは、人間の本質に関わるすこぶる興味深い課題ですが、これまでほとんど研究が進んでいませんでした。今回の研究報告は、こうした課題に答えを与えてくれる第一歩となる非常に重要なものだと感じています。

東北大学理学部の研究者たちは、精神疾患の関連遺伝子に着目し、哺乳類15種のゲノム配列を用いて、人類の進化過程で加速的に進化した遺伝子を検出しました。また、約2500人分の現代人の遺伝的多型データを用いて、集団中で積極的に維持されている遺伝的変異の特定を試みました。その結果、人類の進化過程で自然選択を受けて加速的に進化してきたことが見出されて注目されたのが、SLC18A1遺伝子。この遺伝子の136番目の座位に2つのヒト特異的なアミノ酸置換が存在し、ヒト以外の哺乳類は全てアスパラギン(Asn)でしたが、ヒトにはスレオニン(Thr)とイソロイシン(Ile)という2つの型がありました。そして、Thr型とIle型はヒト集団中に約3:1の割合で存在していることが明らかになりました(図1)。


図1.SLC18A1遺伝子の136番目のアミノ酸多型の頻度。チンパンジー、ネアンデルタール人、ヒト、そして世界各地のヒトでの比較。

SLC18A1遺伝子は小胞モノアミントランスポーター1(Vesicular Monoamine Transporter 1: VMAT1)をコードしており、神経や分泌細胞において分泌小胞にモノアミン神経伝達物質であるドーパミンやセロトニンを運搬する役割を果たしています(図2a)。136番目がThr型の方が小胞への神経伝達物質の取り込み効率が低いほか、うつや不安症傾向、精神的個性の一つである神経質傾向はThr型の方が強いことが示されています。また、Thr型は双極性障害や統合失調症などとの関連が指摘されています。Ile型のほうが精神的により頑強な健康的なタイプになるのでしょう。


図2(a).SLC18A1(VMAT1)は、シナプスにおいて一度放出されたモノアミン神経伝達物質を分泌小胞に回収する。

Thr型とIle型はどちらが先に出現したのか、また、なぜうつや不安傾向などに関わる遺伝的変異が集団中に高頻度で存在するのかという疑問が浮かび上がります。そこでこの研究では、Thr型とIle型の進化プロセスの解明、およびこの多型に働く自然選択の検出を試みました。その結果、ネアンデルタール人など古人類の時点で既にThr型は存在していること、Ile型は人類が出アフリカを果たした前後で出現し、有利に働く自然選択を受け頻度を増加させていったこと、一方で、アフリカの集団では、Ile型の頻度は低く、自然選択を受け始めてから十分な時間が経っていない可能性が示されました(図1)。また、ヨーロッパやアジアの集団では、この多型座位の付近で有意に遺伝的多様性が増加しており、多型を積極的に維持する平衡選択が働いていることが明らかとなりました(図1)。つまり、不安傾向や神経質傾向などをより強く示すThr型は、チンパンジーとの共通祖先から人類の進化の過程で、何らかの有利な影響を与えていたと考えられます。その後、ヒトがアフリカ大陸を出て、ヨーロッパやアジアなどに広がった際に、抗うつ・抗不安傾向を示すIle型が、自然選択を受け有利に進化したことが推測されます。しかし、Ile型とThr型は、どちらか一方に完全に置き換わることなく、両方の遺伝子が積極的に維持されるような自然選択が働いていると考えられるということです。

現在の人類において、精神的に健康なIle型より、不安症や神経質、様々な精神疾患に関わるとされるThr型を持っているヒトのほうが多いというのは意外な感じもします。しかし、人類の歴史においては過酷な時代が長かったので、Thr型が敵から逃れるのに役に立ってきたが、ほんの最近になって平和な時代になってからは、ポジティブに生きていけるIle型がより適応するようになったという解釈もできるように思えます。この遺伝子だけで、不安症や神経質、様々な精神疾患になるかどうかが決まるわけではなく、多くの遺伝子の相互作用、そして生育環境がそれらを決める要因になると考えられますが、今回の研究をきっかけにさらに知見が積み重なることで、精神と進化の問題が解明されていくことが期待されます。

文献: Sato, D. X. and M. Kawata (2018) Positive and balancing selection on SLC18A1 gene associated with psychiatric disorders and human-unique personality traits. Evolution Letters.