子供はかまってくれない

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映画「アキレスと亀」:みんな何かを止められない

2008年10月17日 23時46分04秒 | 映画(新作レヴュー)
私が映画を見始めた時には,もう既に「世界のクロサワ」という名声を確固たるものとしていて,リアルタイムの印象で言うと,独立騒動や「トラ・トラ・トラ」事件,その他諸々の「映画以外の出来事」のインパクトの方が強かった黒澤明だが,幸運にも1980年作「影武者」以降の作品は,全て公開時に劇場で観ることができた。
しかし,スピルバーグやルーカスなどの後押しを受けて,制作資金の調達という長年の課題をもクリアしながら撮り続けた晩年の5作品は,いずれも私が愛して止まない躍動的で力感溢れる昭和20~30年代の諸作品とは明らかにトーンを異にした,「人間の業と死」について水明の境地で取り組んだ,という印象を受けるものばかりであった。
しかも最晩年の3作品は,作品の内容もさることながら,巨匠の新作のロードショーなのに殆ど観客が入っていない,という劇場の光景の方が,鮮明に脳裏に残っている。

そんな晩年のクロサワ作品鑑賞体験ではあったが,それがつまらなかったかと問われると,実は全然そんなことはなかったのだ。不思議なことに。
確かにどの作品も映像の密度や物語の吸引力という観点で見ると,往年の作品が獲得していた驚嘆すべきエネルギーは持ち得ていなかったし,かと言って熟達の語り口で収まりよく観客を唸らせる,という技に走るという訳でもなかった。
しかしどこかバランスを欠いた,極端に言えば,歪んだ情熱のようなものが,重量感溢れる様式に姿を変えてスクリーンに映し出されるのを,がらんとした大劇場で凝視するという行為は,実は非常に贅沢な時間の過ごし方だったと言えるかもしれない。

そしてそんな体験とそれにまつわる記憶は,何故かそのまま,毎回北野武作品に接した時に受ける印象と重なる。それは今回も変わらず,「アキレスと亀」もまた「人間の業と死」を静かに炙り出し,それを見つめるお客さんの数も予想通り少なかったという訳だ。時代は変われど,真の巨匠というものは,決して期待を裏切らない。

才能がないことははっきりしているのに,どうしても絵を描くという行為から逃れられない,一人の男の生涯を描いた新作は,相変わらずの画面の密度の低さと,それに呼応した登場人物の体温の低さで,観るものを捕捉する。
主人公の妻を演じる麻生久美子と樋口可南子が,顔が似ていないにも拘わらず,滑らかに繋がっていることに比べて,主人公真知寿に顔が全く似ていない3人の役者を配したキャスティングは,主人公を取り巻く世間(親の破産,新聞配達所の親父さん,工場の仕事,妻と子などなど)と,真知寿との間に存在する救いようがないズレと,ついに実体を持つことが出来なかった似非芸術家の悲劇とを,二重に象徴しているようだ。

意識を失う寸前でこそ傑作をものに出来ると信じて,風呂場で奮闘する夫婦の姿は,自分を客観視できない人間の姿ほど滑稽なものはないという見本であると同時に,絶妙なギャグとして昇華した北野武の映画に対する覚悟そのものだろう。天国のクロサワも,膝を叩くであろう秀作だ。


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