子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「花束みたいな恋をした」:「サブカルあるある」を超えるもの

2021年02月14日 12時13分50秒 | 映画(新作レヴュー)
「カルテット」が素晴らしい出来だった人気脚本家の坂元裕二と,その「カルテット」で坂元と組み,「罪の声」によりキネマ旬報ベストテンにも入選して映画の世界でも着実に地歩を築きつつある土井裕泰のチームが,有村架純と菅田将暉という当代きっての人気俳優を起用して作り上げたど真ん中の「恋愛映画」。そんな豪華なコラボレーションは,数多の有力なアニメーション作品を抑えての興行収入第1位(公開週)という栄冠に結びついた。ラスト近く,ファミリーレストランで主役の二人が,つきあい始めたばかりのように見える若いカップルの会話を耳にしつつ自分たちのこれまでを振り返るシーンで,隣に座った若い女性のしゃくり上げるような様子に居場所を失う経験は,実に貴重だった。

終電を逃したことをきっかけに付き合うことになった若い男女の出逢いから別れまでの5年間を綴ったラヴ・ストーリー。坂元らしさは,二人が互いに惹かれ合うきっかけに,山のようなサブカル・マターを盛り込んだ点にある。お笑い関係のものはよく分からなかったが,自分たちと決定的に感性が異なる人たちに対して何度も口にする「やっぱり今村夏子の『ピクニック』だよね」という意味の台詞は,「『押井守』がそこにいることに興奮できるかどうか」という冒頭のエピソードと並んで,観客に対する感性のリトマス紙としても機能していたようだ。

それまで自分の周りにはいなかった「分かってくれる人」を見つけた絹(有村架純)の歓びが,その相手麦(菅田将暉)が実社会を生きていくために徐々に変わっていく姿を目にすることで,次第に色褪せていく過程が,作品後半のハイライトになっていくのだが,長尺のテレビドラマとは異なる映画というフォーマット故の特性が,ここで決定的に足を引っ張っている。

すなわち,あれだけ強く二人を結びつけていたはずの,経済性や社会性一辺倒ではないフィールドへのコミットを,いとも簡単に「生活のため」という理由だけで捨ててしまう麦の造形がどうしようもなく浅薄に映ってしまったのだ。学生時代からフリーターを覚悟してまで,イラストで生計を立てていくと一度は決心したはずなのに,麦とは逆にその世界への接近を試みる絹との対比が紋切り型に過ぎる,と言い換えても良い。「いちご白書をもう一度」から既に45年。「若者の恋愛や人生観は変わらない」というのが作者の主張であるとするなら,「カルテット」で提示した新しい家族観よりも大きく後退しているのは明らかだ。

冒頭のイヤホン分け合いエピソードが,「ペット・サウンズ」モノラル版かもしれないではないか,といううがった見方をしてしまう人生黄昏の年配者は,隣の女性の嗚咽に反比例して,どんどん気持ちが引いてしまうのだった。嗚呼。
★★
(★★★★★が最高)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。