子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「わが母の記」:冴え渡る役者陣の演技に拮抗する緻密なプロダクション

2012年05月14日 21時38分17秒 | 映画(新作レヴュー)
「KAMIKAZE TAXI」や「突入せよ!あさま山荘事件」,「クライマーズ・ハイ」など躍動的な作品群をものにしてきた原田眞人監督が,母への愛情と確執を描いた井上靖の原作(未読)という,どう考えても,これまで彼が得意として来た「アクション」や「社会派的要素」には欠けると思われる素材に挑む。そのニュースを聞いただけで,還暦を越えて「未知の分野に果敢なチャレンジを仕掛ける」勇姿が思い浮かび,かなり判官贔屓な心持ちになっていたことは確かだが,本作の出来はそんな想像を超えるものだった。

幼少期に母親から見捨てられたと思い込んだまま成長し,国民的な作家としての立場を確固たるものとした今も,徐々に認知症の症状を呈し始めた母親に対するわだかまりを捨てられずにいる伊上(≒井上靖:役所広司)と母(樹木希林)との晩年の交流と和解が,きめ細やかに描かれる。
だがそこはアクティブな作風で鳴らした原田監督作,静かな心情描写に終始する筈もなく,冒頭の速射砲のような三兄妹の会話が象徴するように,短いカットと時に親子間の緊張した関係が支配する茶の間に飛び交う鋭い台詞は,劇中で言及される小津作品とは全く趣を異にする速いテンポで,物語は進んでいく。

だが,一見作品の空気は似て非なるもののように映るのだが,認知症の母を演じる樹木希林の間合いこそはまさしく小津作品の登場人物のそれであり,それによって観客はいつの間にか,本作で描かれている昭和40年代を飛び越えて,家族の絆が崩壊する兆しが生まれた昭和30年代へと連れ去られる。心には溢れるような愛情を持ちながらも,それが形を与えることが徐々に難しくなっていく時代の微かな足音が,ここにはしっかりと捕捉されている。その先導役を果たしている樹木希林の,地と演技の中間領域を行ったり来たりする演技は,「歩いても 歩いても」のしっかり母さんと対を成す,見事なパフォーマンスだ。

もうひとつ忘れてはならないのは,伊豆と軽井沢,そして井上靖が実際に暮らした世田谷の家を,繊細な光で克明に切り取った芦澤明子のカメラだ。
明治以降の日本の原風景と言えるような保養地の落ち着いた自然光の使い方もさることながら,夜のシーンも含めて人工光の違和感を全く感じさせない伊上宅のライティングと,昭和の文豪の書斎を余すところなく捉えたアングルの素晴らしさは,彼女に続く若い撮影監督の素晴らしい教科書となることだろう。

最近ではマーティン・スコセッシの「ヒューゴ」を観に行った時は,私がほとんど最高齢かなと思ったのだが,本作の観客の年齢ピラミッドにおいては,バリバリの若年層に属していたことは間違いない。でも本当はレンタルヴィデオ店の小津コーナーに,本作を観て「『東京物語』ってどんな映画だったんだろう?」と興味を抱いた若い人たちが次々に立ち寄る,なんていう光景が見られたら最高なのだが。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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