風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色(31) 就職組

2012-02-06 | 生い立ちの景色
1960年6月  14歳の夏

世間は、新安保条約反対の運動が高まり騒然としていた。テレビや新聞では、機動隊が国会議事堂正門前で大規模なデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生が死んだと伝えている。

誰かが昼休憩の時間に黒板に「安保反対」と書きよった。午後の授業にきたH先生が、「誰だ、これを書いたんは。よくわからんくせに書いたらアカン」と怒った。
新聞を読むのが好きで毎日1面から読んでいた俺だったが、「安保」のことはよくわからんかった。7月になり、岸首相がやめて池田首相に代わり、世の中は少し静かになった。

進学するか就職するか、少し悩んだが俺は働くことにした。近所ではまだ少なかったが、ここ数年で高校へ進学する人もぼちぼち出てきたが、まだまだ就職する方が多かった。そんなんで、「俺、就職するで!」といった時も、親も兄弟もそんなに驚くこともなかった。
どの会社を受けるかは、募集人数など決まらないとはっきりしないので、もう少し先になるということだった。

俺のクラスでは3分の1くらいの17、8人が就職組だった。6月からは就職組と進学組に別れて授業することもあり、進学組は英語や数学の授業時間が俺らより多かった。
クラスでは、それぞれの組の奴らが別れて話しすることが多くなり雰囲気がちょっと悪くなった。特に進学組の奴らは、進学校のことやら塾の話ばっかりだった。一方、就職組はのんびりしたものだった。

勉強が好きでなく、だからといって赤点を取るほどでもなかった俺だったが、「就職したら、もう勉強しなくてもいいんや」と思うと、ほんまに心が軽くなった。

俳優 渡辺謙と3.11

2012-02-06 | 社会

1月25日にスイスのダボスで行われた「ダボス会議」(注1)で俳優の渡辺謙さんがスピーチしています。大手一般紙の多くは、渡辺さんが東日本大震災にふれ、「絆」の大切さを訴えたことは報道しても、「脱原発」を熱く語ったことについては、ふれていません。全文を紹介します。(東京新聞より)

初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。
 まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。
 私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。
 その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。
 しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。
 それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。
 私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。
 そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。
 「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。
 いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
 私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。


※スピーチ後の記者会見では「競争ばかりでなく、もっと穏やかな新しい価値観を作り出す必要がある。各国の出席者も同じ感覚だった」などと語っている。

注1:スイスのジュネーブに本部を置くシンクタンク「世界経済フォーラム(WEF)」が毎年1月、スイス東部のリゾート地・ダボスで開催する年次総会のこと。世界的に活躍する政治、経済、文化など各界のリーダーたちが一堂に会し、地球規模のさまざまな問題について話し合う。