1970年と言えば、世の中は大阪の万国博覧会で持ちきりでしたが、私にとっては別の意味で忘れられない年になりました。
当時高校生になったばかりの私は憧れのモータースポーツの世界に浸っておりました。焦点は何といってもモータースポーツの最高峰といわれたフォーミュラ・ワン(F1)と、スポーツカーで争っていた日本グランプリでした。
そしてこの年、私は大好きだった二人のドライバーの死に直面することになりました。
一人は私の好きなロータスF1に乗るオーストリア人ドライバーのヨッヘン・リント。
彼はグランプリシリーズ第8戦までに5勝し、その年のチャンピオンのポイントリーダーでしたが、10戦目のモンツァ(イタリアグランプリ)の予選でクラッシュして帰らぬ人となりました。
最終戦までに彼を上回るポイントを上げたドライバーが現れなかったため、リントは死後ワールドチャンピオンとなりました。ポイントは優勝した5戦のもののみ。いかにも走り屋らしい彼の記録でした。享年28歳。
もう一人がトヨタのワークスドライバーだった川合稔さん。
前年の日本グランプリ(今とは違いスポーツカーの選手権です、念のため)で日産R382に敗れたトヨタはターボを装着した新しいトヨタ7を開発していました。対する日産は新マシンR383を開発していましたが、突如日本グランプリへの不参加を発表(排ガス対策への集中投資が理由だったか?)、トヨタもそれに追従して不参加を発表、結局1970年の日本グランプリは中止になってしまいました。
活躍の場を失ったトヨタ7は、それでも北米の選手権(Can-Amシリーズ)に参戦するために開発を続けていましたが、8月に鈴鹿サーキットで練習中にコースアウトしてマシンが大破、搭乗していた川合選手は死亡してしまったのです。
女優・モデルの小川ローザさんと結婚して半年でした。享年27歳。
今この年になって思うと、二人とも若いですね。それがとても残念です。
私は翌1971年、さらにペドロ・ロドリゲス、ジョセフ・シファート(ジョー・シフェール)という二人のドライバーの死によって完全にモータースポーツから離れてしまいました。
当時はまだ今ほど安全に対する技術が進んでいなくて、大勢のドライバーが無くなった時代でした。
まさしく「死と隣り合わせ」のスポーツだった気がします。
写真は最近購入したトヨタ7のミニカーです。(まだ封を切ってない。このまま切らないかも)
当時高校生になったばかりの私は憧れのモータースポーツの世界に浸っておりました。焦点は何といってもモータースポーツの最高峰といわれたフォーミュラ・ワン(F1)と、スポーツカーで争っていた日本グランプリでした。
そしてこの年、私は大好きだった二人のドライバーの死に直面することになりました。
一人は私の好きなロータスF1に乗るオーストリア人ドライバーのヨッヘン・リント。
彼はグランプリシリーズ第8戦までに5勝し、その年のチャンピオンのポイントリーダーでしたが、10戦目のモンツァ(イタリアグランプリ)の予選でクラッシュして帰らぬ人となりました。
最終戦までに彼を上回るポイントを上げたドライバーが現れなかったため、リントは死後ワールドチャンピオンとなりました。ポイントは優勝した5戦のもののみ。いかにも走り屋らしい彼の記録でした。享年28歳。
もう一人がトヨタのワークスドライバーだった川合稔さん。
前年の日本グランプリ(今とは違いスポーツカーの選手権です、念のため)で日産R382に敗れたトヨタはターボを装着した新しいトヨタ7を開発していました。対する日産は新マシンR383を開発していましたが、突如日本グランプリへの不参加を発表(排ガス対策への集中投資が理由だったか?)、トヨタもそれに追従して不参加を発表、結局1970年の日本グランプリは中止になってしまいました。
活躍の場を失ったトヨタ7は、それでも北米の選手権(Can-Amシリーズ)に参戦するために開発を続けていましたが、8月に鈴鹿サーキットで練習中にコースアウトしてマシンが大破、搭乗していた川合選手は死亡してしまったのです。
女優・モデルの小川ローザさんと結婚して半年でした。享年27歳。
今この年になって思うと、二人とも若いですね。それがとても残念です。
私は翌1971年、さらにペドロ・ロドリゲス、ジョセフ・シファート(ジョー・シフェール)という二人のドライバーの死によって完全にモータースポーツから離れてしまいました。
当時はまだ今ほど安全に対する技術が進んでいなくて、大勢のドライバーが無くなった時代でした。
まさしく「死と隣り合わせ」のスポーツだった気がします。
写真は最近購入したトヨタ7のミニカーです。(まだ封を切ってない。このまま切らないかも)