10代の頃からしばらくの間、
私は過換気(過呼吸)症候群を患っていた。
日常生活に支障はないと言われながらも、
いつ起こるかわからない発作という
爆弾を抱えての生活、
言いようのない不安に
押しつぶされそうになりながらの日々は、
精神的には支障だらけの生活と
言っても差し支えないと思っていた。
当時はまだ過換気症候群は広く認知されておらず、
周囲もどう対処していいのかわからず
困惑していたが、
本人は自分の体に何が起こっているのかさえ
納得できるような説明もされず、
自身の体に対する不信感は募るばかり。
結果的にはこうした状況すべてが
症状を悪化させる方向に働いていたのだ。
だから良くなるはずがない。
最多の時で1カ月で21回の発作を
起こしたこともあったが、
鍼灸と漢方薬を併用してから治癒するまでに
20年近くかかっているのではなかろうか。
そんな過換気症候群が、
実は骨盤の緊張から胸椎5番を硬化させて
胸部の過緊張状態を生み、
呼吸に影響しているのだというのだ。
片山洋次郎さんの「骨盤にきく」に書かれている
一連の説明は納得がいく。
もしあの時、こういう説明を誰かが
してくれていれば…。
同書には過換気症候群の対処法も
掲載されているのだが、
驚くことにその方法とは
自分が寝るとき自然にとっていた姿勢だったのだ。
体はほんとに自分で治ろうとしているのだなぁ。
バランスを調整しようとする能力を
自ら備えているのだ。
あの頃は思うようにならない自分の体に
苛立ったりしていたのだが、
それでも体は自力で治ろうとしていたのだった。
知らなかったとはいえ、
ほんとに申し訳なかったなと思う。
片山さんの考え方は
導引にも共通する点が多い。
骨盤の緊張をゆるめる呼吸法と骨盤の動きは
そのまま導引の呼吸法と
基本姿勢にも通じる。
つまり過換気症候群も骨盤の緊張も
太極導引で改善することは十分可能と思われる。
太極導引との出会いは、やはり我が人生において
歴史的事件だったのだな~。
どうして自分がこれほどまでに夢中になるのか、
尽きることなく次々と新たな興味がわいてくるのか、
これでようやく納得がいった気がする。
4年目にして、改めて太極導引を
ライフワークにしたいと思い始めている。
明日を生きるためではなく、今を生きるために。
今現在に集中できるようになれれば、
不安に心を乱されることもなく
平安でいられることだろう。
それは松静自然に近づくことでもあるように思うのだ。
私は過換気(過呼吸)症候群を患っていた。
日常生活に支障はないと言われながらも、
いつ起こるかわからない発作という
爆弾を抱えての生活、
言いようのない不安に
押しつぶされそうになりながらの日々は、
精神的には支障だらけの生活と
言っても差し支えないと思っていた。
当時はまだ過換気症候群は広く認知されておらず、
周囲もどう対処していいのかわからず
困惑していたが、
本人は自分の体に何が起こっているのかさえ
納得できるような説明もされず、
自身の体に対する不信感は募るばかり。
結果的にはこうした状況すべてが
症状を悪化させる方向に働いていたのだ。
だから良くなるはずがない。
最多の時で1カ月で21回の発作を
起こしたこともあったが、
鍼灸と漢方薬を併用してから治癒するまでに
20年近くかかっているのではなかろうか。
そんな過換気症候群が、
実は骨盤の緊張から胸椎5番を硬化させて
胸部の過緊張状態を生み、
呼吸に影響しているのだというのだ。
片山洋次郎さんの「骨盤にきく」に書かれている
一連の説明は納得がいく。
もしあの時、こういう説明を誰かが
してくれていれば…。
同書には過換気症候群の対処法も
掲載されているのだが、
驚くことにその方法とは
自分が寝るとき自然にとっていた姿勢だったのだ。
体はほんとに自分で治ろうとしているのだなぁ。
バランスを調整しようとする能力を
自ら備えているのだ。
あの頃は思うようにならない自分の体に
苛立ったりしていたのだが、
それでも体は自力で治ろうとしていたのだった。
知らなかったとはいえ、
ほんとに申し訳なかったなと思う。
片山さんの考え方は
導引にも共通する点が多い。
骨盤の緊張をゆるめる呼吸法と骨盤の動きは
そのまま導引の呼吸法と
基本姿勢にも通じる。
つまり過換気症候群も骨盤の緊張も
太極導引で改善することは十分可能と思われる。
太極導引との出会いは、やはり我が人生において
歴史的事件だったのだな~。
どうして自分がこれほどまでに夢中になるのか、
尽きることなく次々と新たな興味がわいてくるのか、
これでようやく納得がいった気がする。
4年目にして、改めて太極導引を
ライフワークにしたいと思い始めている。
明日を生きるためではなく、今を生きるために。
今現在に集中できるようになれれば、
不安に心を乱されることもなく
平安でいられることだろう。
それは松静自然に近づくことでもあるように思うのだ。