ずっと気になっていた。あの津波の塔・・・
初めての青森旅行で寄った十三湖。
有名なのは世界遺産になった白神山地の近くにある国定公園になっている十二湖。
ゆきんたく「今年の夏は、青森に行くんだ。」
同僚 「青森のどこ?」
ゆ 「うん、十三湖」
ど 「ふーん、白神山地のそばだね」
注:十二湖と十三湖は位置が全然違う。
なんて青森について全然分っていない会話をしてした時・・・
気になっていたのは、十三湖に浮かぶように架けられている十三湖大橋の傍にポツンと建てられている「津波の塔」のことである。
十三湖大橋
十三湖大橋を渡らずに下をくぐり、十三湖の水の出口(岩木川河口)の北岸に出る。砂浜の西側を見れば日本海である。その向こうには数個の小島を挟んで北朝鮮かロシアかという位置である。
十三湖大橋近くの砂浜に続く道
そこに津波の塔は建っている。逆光だったので、塔正面からの画像では見ずらいので冒頭の角度の写真になったのだ。
この津波の塔とはなんだろう。調べていくうちに「日本海中部地震の伝承と犠牲者の供養塔」ついうキーワードに行き着いた。
しかしながら日本海中部地震というのは、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57秒に、秋田県能代市西方沖で発生したやつを指すはずである。伝承という言葉を用いるのであれば、それより遡らなければならないはずだ。
かつて十三湖には栄えた都市があり、その遺構も残っている。詳しくはこちら五所川原市商工観光化のサイトを見ていただきたい。
さて、真偽のほどが取りざたされている東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)という書物がある。現在の位置づけは、いわゆる古史古伝と呼ばれる文書の一つで、古代における東北地方の知られざる歴史が書かれているとされる偽書だそうだ。
その論争についてはここでは触れない。その東日流外三郡誌には
十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地(津軽・北海道・樺太など)に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、満洲や中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアとの貿易で栄え、欧州人向けのカトリック教会があり、中国人・インド人・アラビア人・欧州人などが多数の異人館を営んでいたとされる。しかし、1340年または1341年の18回に及ぶ大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊した・・・
と記されているという。この青文字の部分が伝承というのに当たる部分なのか。
この「津波の塔」に彫られている字は、塔が建立された当時の青森県知事…北村正哉氏によるものである。そして氏の任期は1979~1995までの三期で、日本海中部地震の発生した1983年には知事在任中であった。この塔の裏面の写真を撮らなかったことは失敗であった。
彼の在任期間には、東日流外三郡誌の真偽の答えは出ていないのだが、世間的には偽書という認識が高くかった。結局この津波の塔が指している「日本海中部地震による津波の被害者」の供養は1983年の地震による津波で被害に遭われた方に対するものだと考えるのだ。