伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

気球

2008-06-09 22:33:06 | Weblog

 ゆきたんくの住んでいる千葉県松戸市には、有名な玉三白玉粉を製造している川光物産がある。その関連会社の川光倉庫が管理している倉庫が市川市千葉市にある。千葉市にある倉庫だが、なんと戦時中に陸軍気球連隊が使用していた気球格納庫である。 なぜ千葉にあるのか。日本での軍用気球の歴史は、1877年の西南戦争で、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に気球を利用する計画に始まった。熊本城攻防戦に決着がついたため実用化は見送られまである。 1904年の日露戦争の際には、臨時気球隊が旅順攻囲戦に投入されて戦況偵察に活躍した。 翌1905年には、東京中野の電信教導学校内に気球班が設置された。 1907年に、気球班は改組されて陸軍気球隊となり、鉄道連隊、電信大隊、気球隊を合わせた交通兵旅団の一部となった。 1913年、気球隊は陸軍の航空基地であった所沢飛行場に転出した。 1927年、所沢の混雑のため鉄道連隊に近い千葉市作草部町に移転。      このときの兵力は2個中隊であった。 1936年陸軍気球聯隊に改組され、それまでの航空科の所属から砲兵科所属に移管された。 1937年、日中戦争に動員、南京攻略戦に参加。 1941年に防空気球隊が編成され、翌1942年、タイ、仏印、シンガポール作戦に参加するなどした。  しかし、気球隊の任務は航空機の発達により次第に失われ、その後は内地にあり華々しい作戦とは無縁であった。  大戦末期の1944年、対米攻撃のため風船爆弾の計画が持ち上がり、気球聯隊を母体とした『ふ』号作戦気球部隊が編制された。 1945年4月、作戦終了した『ふ』号部隊は解隊され、隊員は原隊に復帰し終戦をむかえている。 ざっと日本に一つしか存在しなかった陸軍気球聯隊の歴史を紹介した。その実績については詳しいサイトが多々あるので探してほしい。


川光倉庫会社の東の畑から見た倉庫

  写真の格納庫は千葉県作草部町のものである。とすればこの建物は建築後80年近い年月が経っていることになる。もちろん世界遺産などと比べてれば歴史は浅いのだが、5階建てくらいある高さで堂々としている。


背の高い倉庫

 このような建物が解体されず、民間の施設として使われているのは大変嬉しいことである。戦後六十余年が過ぎ、戦争の証言者である方々も数が少なくなってきている。それらの方の証言とともに、戦争遺跡とも言える施設を保護して残すことができないだろうか。日本の各地にある戦争遺跡とも言える物件は、解体により減りつつあるのだ。もちろん重要文化財にでもなれば、自由に出入りは出来なくなってしまうのだが、建物に危険性がない限り残すことが望ましいのではないだろうか。

 戦争の歴史を忘れてはいけない。戦争賛成の姿勢ではない。戦争が遺した爪あとから学ぶことって沢山あると思うのだ。 

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