夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『慰霊の日』に寄せて・・。

2005-06-20 16:13:11 | 時事【社会】
今朝の読売新聞で、6月23日の沖縄県が制定した『慰霊の日』に
寄せて、ひとつの戦記の記事があった。
転記させて頂きます。

沖縄本島の南端に近い摩文仁(糸満市)に1995年6月、
「平和の礎(いしじ)」が建立された。
沖縄戦で最後の激戦地となった場所だ。

真っ青な海を見渡す敷地には、御影石でできた116基の
「刻銘碑」に、戦没者の名前が刻まれている。
今年、新たに720人が加わり、
ここに記される戦没者の合計は、23万9801人となった。

このうち、沖縄県出身者は、約15万人。
この数字は、満州事変(1931年9月)から太平洋戦争の終戦前後までに、
県内外で戦争で亡くなった人の合計だ。

実際に沖縄戦を巡って犠牲となった県民は約10万人、
兵士などを含めた日本人犠牲者の総数は約18万8000人(県推定)とされる。

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍の猛攻を、
日本軍の兵士だった仲本宗秀さん(80歳)は、
「夜も照明弾で真昼のように明るくなり、
米兵に見つからないよう、
絶え間なく襲ってくる砲弾の中で、
死んだふりをした」と振り返る。

最南部の喜屋武岬一帯には、
一ヶ月間に680万発ものの砲弾が撃ち込まれた、という推計もある。

住民の集団自決が相次ぎ、
沖縄陸軍病院に動員された女学生ら136人が
犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の悲劇など、
筆舌に尽くしたがい惨状とが繰り広げられた。

同年6月23日、軍司令官の牛島満・陸軍中将らが摩文仁で自決。
この後も戦闘は続いたが、日本軍の組織的戦闘が終結した日として、
沖縄県は23日を慰霊の日と定めている。

以上が記事の全文である。


☆私のコメント☆

この沖縄戦は、米軍による圧倒的な軍事力の下で、
戦争の名目を借りた近代歴史の前例にない《大虐殺》である。

米軍としては、本土に控える日本軍への見せしめに行なった
《大虐殺》でもある。

この沖縄戦は、硫黄島、ノルマンディーと決定的に違うのは、
圧倒的な軍事力の基で、抵抗が殆んど出来ない戦況による
《大虐殺》なので、今後もアメリカサイドによる、
戦争映画としては一般大衆が観る映画化は出来ない。

沖縄の悲劇は、地理的な位置にある。
太平洋のアメリカに寄る、飛び石戦略、位置。

そして、敗戦後の冷戦による、反共封じ込めの軍事上の重要な位置。

私は、日本の本土の犠牲となった沖縄の人々を
正常な神経を持ち続ける限り、感謝の念を忘れることは出来ないだろう。
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わが街は、ごみの減量に成功・・♪

2005-06-20 13:57:00 | 定年後の思い
東京の郊外の私が住む市では、家庭ごみの一部有料化にして、一年たった。

燃やせるごみ・・・・・・・13%減量
燃やせないごみ・・・・・・55%減量
資源物《->リサイクル》・46%増加

昨年の四月より、有料化により、
排出するごみを自らの責任によって減らしていく、
ごみの排出抑制を図り、分別の徹底をすることでリサイクルが推進できると実施された。

その結果、老朽化した中間処理施設への負担を軽減し、
限りある最終処分場(埋立地)の延命にもつながるといわれた。

我が家では、燃やせるごみの場合、指定袋を購入し、LLサイズで45リットル入り、
価格は17.78円となっているのを、使用している。

結果的にわが市では、家庭ごみの有料化に伴う手数料収入は概算4億7000万円となり、
戸別収集、プラスチックの分別収集等で費用が増え、手数料収入額と同額を要している。

収支プラマイ・ゼロの上、施設の軽減し、埋立地への削減を図れ、
資源物のリサイクル増えて、成功といえます。




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私の沖縄問題の原点・・。  ②

2005-06-20 12:28:40 | 時事【政治・経済】等
今ここで、藩制時代の島津藩が行なった経済的収奪、
更に明治期に入っての沖縄に対する差別的処遇、等々の
そういった古い歴史まで遡のぼろうとは思わない。
だが、最近、太平洋戦争末期の沖縄戦、
そしてそれ以降、サンフランシスコ条約に至る経過だけを考えて見ても、
果して私達「本土」は、沖縄に対して「母なる本土」であったろうか。

戦後日本の「奇蹟的」復興とやらにつけても、
私達は、爆撃の災禍はさておき、
とにかく本土が戦場にならなくてすんだ幸福を、
今更のように思う。

だが、それにひきかえ沖縄はどうであったか。
わずか三ヶ月の戦闘に二十万近い犠牲者を生んだ沖縄戦、
しかもその半ば近くが実に非戦闘員の県民であった。
意図的にそうしたとまではいわないが、
少なくとも結果的に見れば、ある意味で私達は、
沖縄同胞の犠牲の上において、本土戦場の不幸は免れたともいえるのではないか。

そして最後には、サンフランシスコ条約の第三条である。
沖縄同胞は、しばしば「売り渡された」という言い方をする。
県民の意志は何ひとつ問われることなく、きずいた時には、
祖国から引きちぎられ、不沈のの軍事基地という運命を
背負わされていたというのである。
もし「母なる本土」であるとすれば、重ね重ね、
随分ひどい仕打ちを繰り返した母親といわなければならぬ。

正直に言うが、少なくとも私達は、
戦後の沖縄県民の間から、祖国復帰の運動が起きる等とは、予想しなかった。

歴史的な収奪、差別的処遇があった上、
更に最後に沖縄戦という犠牲を強いられた人々が、
もはや祖国に愛想をつかして、日本から離脱を考えたところで、
私達としては、到底一言もなかったからである。

だが、事実はその後まもなく強い祖国復帰への動きが、
脈々として盛り上りつつあることを知らされて、正直にいって驚いた。

これは絶対に応えなければならない義務と責任があることを直感した。
沖縄出身でもなければ、沖縄の土を踏んだこともない
《もっと正確にいえば、踏むことを許されない》私が、
柄にもなく沖縄に関心を持ち出したきっかけである。
      【略】
           著作者の中野好夫・氏が綴っている。


私は二十一歳の感受性が豊かであったので、年長者の暖かいアドバイスを
頂いたようになった。
これで沖縄に関し、理論整然と観かたを教示された。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている現在、
沖縄、のことばを聴くと、後ろめたい気持ちを引き摺っている。
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私の沖縄問題の原点・・。 ①

2005-06-20 10:58:24 | 時事【政治・経済】等
私の手元に、一冊の本がある。
『沖縄問題二十年』である。
この本は、中野好夫・氏と新崎盛輝・氏のお二人による共著であり、
岩波新書で1965年6月21日 第一刷発行と記されている。

この頃の私は、大学二年で中退し、映画青年気取りだった。
高校時代以来、時事に興味を抱き、ベトナム問題と同様にまとわりのない
動きに思考が整理できず、深く悩んでいた。

そしてこの本に出会ったのは、二十一歳の時だった。

この本のまえがきに書かれている、

なぜ私達がこんな本を書いたかという動機については、
私達本土の日本人は、戦後、そして現在、沖縄が置かれている実情について、
もっとよく身近に知らなければならない、
そしてまた、我々自身の問題として考えなければならない、
いわば義務をもっていると信じるからである。
一種の道徳的責任といってもいいと思う。

こうした言い方をすることを、
最近はなにか感傷的偽善といった風に考える風潮も出ているように見えるが、
少なくとも沖縄に関する限り、私達はそうは考えない。

沖縄同胞の祖国復帰運動を語る本土日本人の声の中に、
それは「母なる本土」への復帰をねがう悲願、
「母鶏の翼の下を求める雛鶏」の願い、
というような表現を見かけることがある。

事実、沖縄返還の運動に精力を傾けている人達の中にあってさえ、である。
善意を理解するにはやぶさかでないし、
また美辞麗句としてならともかくだが、
もし少しでも客観的に、冷厳に、
本土と沖縄との過去の歴史を顧みるならば、
どんな意味でもこんな感傷的な言葉は出ないはずである。


《続く》
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