夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

天皇陛下の『慰霊の旅』・・。 ②

2005-06-23 17:06:57 | 時事【社会】
一週間後、両陛下は、『慰霊の旅』の感想を発表された。

『今日、我が国が享受している平和と繁栄が、
多くの人々の犠牲の上に築かれていることを深く心に刻み、
これからも、この戦いに連なるすべての死者の冥福を祈り、
遺族の悲しみを忘れることなく、世界の平和を願い続けていきたい』

この時、両陛下は、更にこう述べられている。
『これら四地域にとどまらず、広く日本各地、
また、遠い異郷にあって、かけがえのない命を失った多くの人々と、
今なお癒えることのない悲しみを持つ遺族に深く思いを致します』

この思いに沿う形で、政府は、日本の委任統治領として戦渦に巻き込まれた
マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオを両殿下が訪ね、
サイパンにも立ち寄られるという計画を検討。

2004年の2月から3月にかけての日程が決まったが、
交通手段が確保できず、中止。
政府専用機が離着陸できるサイパン訪問の可能性だけが残されていた。

今回、アメリカと、サイパンを中心とする米自治領の
北マリアナ諸島政府が歓迎の意向を示し、
国際親善を目的としない慰霊だけの外国訪問が、
初めて実現することとなった。

サイパン訪問は、10年前の慰霊の旅の延長線上にある。

以上が記事の全文である。


☆私のコメント☆

やはり思いはあっても、両陛下のお立場は大変である。
気軽に言動も許されない、お立場であります。

私はこの記事を読む前に、今なお他国の地に眠る人々に
旧・厚生省が遺骨の収集を何より最重点施策を採り、
より実施するのが、我々の国民の責務と思う。

何はともあれ、かくも長きにおよぶ、とは溜め息をつかずには
いられない。

☆   ☆   ☆

この事とは別課題であるが、以前綴ったことがあるが、
なぜ終戦なのか、
敗戦といわないのか、私は不思議である。

敗戦記念日と明示すれば、国家の威信が保たれる。
終戦記念日などと、あやふやな表示をすれば他国から、
国際から軽蔑を受けるだけである。

いまもって、だれが終戦などと、発言したのかわからない。
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天皇陛下の『慰霊の旅』・・。 ①

2005-06-23 14:47:56 | 時事【社会】
ここの所、戦争にまつわる事を綴ってきたが、
昨日の読売新聞の朝刊で、

戦後60年 
     両陛下『慰霊の旅』
                27日出発

という見出しがあった。

戦争に関して、昭和天皇は名目上であれ、この大戦の最高責任者であった。
その当時の国民は、天皇陛下をあがめたてまつわる風潮が、
半強制であれ、社会として成り立っていた。

私が小学校に入学前の昭和25年頃でも、
実家の座敷に昭和天皇のご一族の写真を高価な額縁に入れて、
祖父等はあがめていた・・。

昭和天皇のご逝去の後を引き継がれた平成天皇が、
この前の大戦にどの様なお気持ちをお持ちなのか、
私なりに興味があった。

社会部 栗原 渉・氏が記事を書いたのを転記させて頂きます。


『戦争による多くの犠牲者と遺族の事は、
少しも念頭を離れることなく、
今後もその人々を思いつつ、
平和を願い続けるつもりです』

戦後50年という節目に控えた1994年12月の誕生日会見で、
天皇陛下は『慰霊』への思いをそう語られた。

会見では、戦後50年を迎える心境や、
訪ねたい地について質問を受け、
『とりわけ戦争の禍(わざわい)の激しかった土地に思いを寄せていくつもりです』
などと話された。

具体的な地名は、口にされなかったが、
陛下には、特別な思いを寄せる日と土地があった。

皇太子時代の1981年、会見で、
『日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つはある』
と述べ、
沖縄戦が集結した6月23日、
広島、長崎に原爆が投下された8月6日と9日、
そして終戦記念日の8月15日
を挙げられた。

いずれの日も、毎年欠かさずにご一家で黙祷され、
『慎みの日』として私的な行動を控えられてきた。

節目の1995年の夏、『慰霊の旅』は実現する。
訪問地には、沖縄、長崎、広島と、
空襲で多くの命が奪われた都市の代表として、
東京が選ばれた。

両陛下が、戦争犠牲者の慰霊だけの為に地方を訪問されるのは、
初めてのことだった。

まず7月26日、長崎市の平和公園にある平和記念像前で献花。
翌日、広島市に移動して、原爆死没者慰霊碑に献花された。
8月2日には日帰りで沖縄を訪問、
糸満市の国立沖縄戦没者墓苑で供花し、
翌日3日、東京大空襲の犠牲者らが眠る東京都慰霊堂を訪ねられた。


《続く》
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扇子(せんす)と団扇(うちわ)の頃・・♪

2005-06-23 09:57:00 | 定年後の思い
昨今、この梅雨時の季節になると、エアコンを除湿をセットし、
夏になると冷房に切り替える。

現役時代のとき、退社後に駅で電車を待っている時、
プラットホームは暑いので、扇子を取り出し、扇(あお)いだりしていた・・。

以前、会社の業務に知り合った英国の方が帰国する際、
私は彼に奥様にと扇子をプレゼントしたことがあった。

雪花染めといって、こうぞ紙を一枚一枚に手染めで仕上げた若草色した華やかさがあり、
雪の結晶のような模様をした扇子であった。

二週間後、この奥様より、丁重な礼状が着いた。
今では私の大切な宝物になっている。


団扇は、寝室に於いて、布団にもぐっている時、ときたま扇いだりしたいた。

真夏になると、やも得ず、居間と寝室は冷房をする。

家内は冷房が苦手なので、
居間の冷房は《弱》で、28度に設定している。
私は、冷房大好き人間であるので、五、六年前以前は、
私達の夫婦はこの期間で、冷たい戦争、が起きていた。

寝室に関しては、寝室に入る数時間前に《強》にして、
寒いくらいにして、布団に入った時、とめる。
こうすれば、私共は朝まで快適に眠れる。

日本風土に住み、畳の上で団扇を扇ぎ、涼をとり、
家族団らんを過したのは、いまやまぼろしとなった。

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