夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

今年、最初の西瓜(すいか)・・♪

2005-06-21 18:03:59 | 定年後の思い
私が一昨日、買物に行った時、帰り際に西瓜を見かけた。
美味しいそうな西瓜だったので、近寄って、値段は1200円だった。

持ちきれないので、帰宅後、家内に
『○○ちゃん、西瓜売っていたょ。
美味しいそうだから、もう一回、行ってこようか』と家内に言った。

『別の機会にしたら・・』と家内は笑って言った。


昨日、家内が歯科医院の帰りに、買物のついでに、西瓜をぶら下げてきた。
昨日の西瓜よりも、小振りな小玉の西瓜であった。

先程、冷蔵庫で充分に冷やした西瓜を、家内が二分の一にした後、
この二分の一を更に半分に切った。
お盆の上に皿を載せ、西瓜を置いた。

庭先に面したテーブルで、家内と食べはじめた・・。

『○○ちゃん、この西瓜、完全に熟れていないなぁ・・
 まだ、六月下旬だから・・ね
だけど、程々の甘さがあるよねぇ』と私言った。
家内は笑っていた・・。

食べ終わった頃、家内は言った。
『貴方、この西瓜、150円だったのょ』

『本当・・信じられない値段だねぇ』と私は言った。
『アイスクリームの値段と一緒だょ
しかも西瓜は四分の一だょ・・』と更に私は言った。

庭先から風が流れてきた・・。

台所に家内と跡形ずけをしていた時、
残った西瓜、二分の一を冷蔵庫にしまおうとした時、
西瓜に貼ってあるシールが見えた。

こだま西瓜
   初夏の輝き  
      茨城JA 北つくば
更に、生産者の名前が大きく書かれていた。

私は、こうした方に、思わず頭を下げた。
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沖縄戦は、米軍による大虐殺であった・・。

2005-06-21 12:11:44 | 時事【社会】
昨日、『慰霊の日に寄せて・・』と綴り、
近代史上に於いて米軍による大量の虐殺であった、と私は綴った。
この事を具体的に、米軍の兵力等を綴り、残酷ではあるが、
あえて覆い隠すことの出来ないことに、綴ることとした。

私の手元にあるので、一般の方が解り易い書物から転記致します。

  『沖縄慰霊の日』~幸せ暮らしの歳時記~ 
                     著作・藤野邦夫・氏


太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。
そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、
その三の一は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、
バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。
兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、
アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。
彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、
4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、
アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、
すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。
残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、
沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。
更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。
しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、
6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、
県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、
沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、
1951年から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。

以上が全文である。


☆私のコメント☆

戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。

十数年前、私は観光に沖縄に行ったが、
海原を観ていた時、ガイドさんが、
あの海の彼方はアメリカの艦隊でいっぱいだった、と
ご年配の方から教えて貰いました、と言った。

前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土に被弾する、
想像した時、私は静かな涙を流した・・。
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