夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

されど、清き1票は・・♪   《初出2007.4.9.》

2008-05-11 16:34:24 | 時事【政治・経済】等
私の住む東京都調布市は都知事選が行われ、
私なりに清き1票を投じた。

私の都知事の選定の基本方針は、
このサイトに於いて過日【『東京の未来は、私が決める』・・♪】
として投稿しているので、省略する。

私は立候補として、現職の石原慎太郎、前宮城県知事・浅野史郎のどちらにしょうか、
と選挙運動期間の間に迷ったのは事実である。

新聞、NHKのニュースなどで見る限り、
浅野史郎・氏は『当選後、東京都をどのようにしたいのか・・』
私としては感じられず、はなはだ残念と思ったりした。

止む得ず知事の三選論は嫌いな私さえ、
石原慎太郎・氏に一票を投じ、東京都の運営の4年間を委託したのである。

尚、私は退職後の年金生活の身であるが、
福祉ばかり強調する立候補には、
東京都の運営の最高責任者として委託する気にはなれない。

こうして綴っていると、曇り空であったが薄日が射し込んできた。


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桜花、舞い散りときは・・♪    《初出2007.4.8.》

2008-05-11 16:28:55 | 定年後の思い
私が都知事の選挙に投票する所は、NTT東日本の研修センターである。

私が生まれる前の昭和の初期、丘陵の上に桑畑が拡がり、
外れに松林と雑木があり、
武蔵野のはけと称されるゆるやかな切り立った丘からは、
平地の田畑が展望でき、数多くの湧き水があった、と伝えられている。

この桑畑のあとの広々としたところに研修所が出来て、
国際電信電話公社の家族寮のゆったりとした敷地を知ったのは、
私は小学2年の昭和27年のことである。

こうした景観を見詰めながら、50年の歳月は流れ、
世の中は急速に移り変わったが、
通りに面した数多い桜、そして外れにある松林と
その中に点在するクヌギ、コナラの雑木は変わらないである・・。

私は都知事選挙の投票を終え、風もなく桜花の舞い散る中、歩いた。
地上は淡い桜花が散乱し、私の頭上からも音もなく、桜花が降ってきている。

こうした1年のわずかな時、このような情景にめぐり逢え、
そして雑木の芽吹き、若葉の艶やかさを見詰めれば、
時はこうして幾年、百年と変わらず流れて行くのだろう、
と思いを新たにしていた。

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春紅葉(はるもみじ)を迎えて・・♪   《初出2007.4.8.》

2008-05-11 16:24:15 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外は、曇り空が予測されていたが、
雲ひとつなく快晴の朝を迎えている。

紫木蓮(シモクレン)の花が咲き、藪椿(ヤブツバキ)も咲き誇り、
そして花梨(カリン)の樹木も芽吹きを終えて、
艶(つや)やかな色合いの若葉となり、
可憐なビンクの小さな花が数多く観られる。

もみじの樹木も若葉となり、微風を受けるとかすかに揺れ、
風光(かぜひか)るひとときとなっている。

常緑樹の金木犀(キンモクセイ)、紅カナモチも新芽を伸ばし、
朝の陽射しを受けている。

無花果(イチジク)はここ数日で、芽吹きはじめている。

群生した西洋水仙も相変わらず純白な色合いを見せ、
蕗(フキ)は蕗の薹を過ぎて、葉を大きく広げ始めている。

このように何気ない、朝の陽射しを射し込んでいる情景を眺めていると、
私の心は充たされる。

日中は都知事の選挙に清き一票を投じ、買物の後には、
桜の満開のあとの花びらの状況が気になるので、
春麗(はるうら)の中、散策の折に愛(め)でようと思っている。


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新聞に添付される、気になるチラシ・・♪  《初出2007.4.7.》

2008-05-11 16:08:30 | 時事【社会】
東京の郊外、快晴の朝を迎え、
日中は15度前後の春めいた日となる。

先程まで、NHKのニュースを掛けながら、
新聞をゆっくりと読んだりしていた。

このあとは、新聞に添付された広告のチラシを見たりしているが、
金曜と土曜日は特に多い。


自動車のチラシは、
退職後の免許書更新を辞退した身なので、まずは対象外となる。

家電量販店に関しては、
購入予定品がある時は、気になるが、
今のところは必要ないので、除外している。

マンションなどの住宅のチラシは、
この1年は気になり、
瞬間的に興味を持った物だけは、2週間ほど保存し、
精読したあとは資源ゴミとして新聞紙と同様に手提げ袋に入れている。

私は築後30年近い古びた一戸建てに住んで折、
この間は修理、補強等を行っている。
そして、ときたま庭の手入れなどをしている。

私は定年退職後の3年生であり、庭の手入れで身体が負担となった時、
或いは健康を害した時は、止む得ずマンションに引っ越そうと思ったりしている。

私達夫婦は、どちらかが身体が支障を感じた時は、
老人看護付きのマンションに移動、
と日頃から話し合っている。


このような状況であるので、東京駅まで1時間以内、
駅から徒歩10分以内で、雑木林の主体の公園のような中に建っているマンションなどを考えている。
こうしたのがあるようで、中々見当たらないのが現状である。

私が一番望ましいのは、このまま住み続け、70代半ばに体調を崩し、
入院を1週間した後、亡くなるのが理想だが、
こればかりは天上の神しか解からないことである。


パソコンの量販店のチラシは、私は精読する。
パソコン自体は昨年の秋に新調したので、余り気にならないが、
デジカメと周辺機器進化に驚き、ため息を付いたりしている。

このように広告のチラシを見ていると、
ときには30分前後の時もあり、我ながら驚いたりしている。


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私なりの定年退職後の日々・・♪  《初出2007.4.5.》

2008-05-11 15:44:13 | 時事【団塊の世代】
   序章

昨今、団塊世代の方達が本年度から、退職をされるので、
数多くの新聞、雑誌、テレビの番組で特集が報じられている。

私は定年退職後の3年生の身であるが、
大学を中退し、色々とさまよった後、
25歳である企業に中途入社した。

入社して、机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。

このような存在の団塊世代の人々であるので、
私なりに気になり、年上の身として、心の中で応援している。

たまたま妹の2人、そして家内も団塊の世代である。

このような状況なので、私なりの退職後の日々を綴るので、
こうした偏屈な人もいる、と笑話した上で、
参照になれば幸いと思っている。



   第一章 

私達夫婦は、定年退職後の生活を話し合ったのは、
私が本社勤務より出向を打診された55歳の直前だった。

私の勤めている業界は、ピークから下降しはじめ、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われていた。
私の勤めていた会社は外資で、
早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私は同じ業界内に出向勧告をされた。


家内と結婚後、しばらくして一軒屋を構えた時、
借入れの住宅ローンがあったので、
定年の60歳まで務める人生概要設計について、
家内と話し合っていた。

このようなことがあるので、先輩、同僚、後輩の一部の方達が、
早期に退職するのには戸惑ったりした。

この出向勧告された直後、家内と具体的に、自分達はリタイアした時、
どのような生活をしたいのか、そして生活資金などを話し合った。

私は定年の60歳まで働き、
その後は趣味の時間に没頭し自在に過ごしたいので、
現役時代の収支、退職金、退職後の年金推定を算出した。

私達は子供に恵まれなかったので、
私達の退職後の生活収支はある程度算出し易かった。
唯、私は昭和19年生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、
それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、十二分配慮した。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私達夫婦の共通趣味である国内旅行費を除き、
年金内で生活する収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
平成10年から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、
計画、実績、差額を毎月入れることとした。

私は出向を受けて、業界内の関連会社に5年勤め、定年退職を迎えた。

この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。


   第二章
              
私は2004年(平成16年)の秋、定年退職となった。

この退職日の2ヵ月前から、
家内の父が入退院を繰り返していたが危篤状態となり、
家内の母と家内が交代で看病していた。

家内の父が入院した場所は、私の家から遠く、夜間に互いに付き添っていたので、
家内の疲労も増してきた。

私は8月末で業務を完了させ、この後は有給休暇として会社の了解を頂き、
定年を迎えたのが実態であった。

この間、家内の父が亡くなり、
定年前後の諸書類を進めていたので、多忙な時期となっていた。

そして、失業保険の申請を当初予定はし、
5ヶ月分の失業手当を頂こうとしたが、
私は勤める意志なく、
求職される方達の真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、申請手続きを断念したりした。

こうした家内の父の死去に伴い、
定年退職記念旅行、失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないこともあるので、
私なりに後悔はしなかった。


退職後の数週間後、家内と銀行を廻り、
安全利回りの定期、国債などの金融資産を新たにした。


私は定年後の日常は、趣味の時間に没頭し、日々を過ごす目標であったので、
小説、随筆、歴史書、現代史を読んだりしている。
ときには映画のビデオ、DVDを観たり
音楽のカセット、CD、DVDを視聴したりしている。
そして、文章を綴るのが好きで有り、幸いにしてブログの世界を知った。

家内の父の四十九日の法事、納骨を終えた後、
独り住まいとなった家内の母と3人で墓地から程遠くない所で、
3泊4日の温泉滞在をしたのは晩秋だった。

この旅行中に、私は定年退職をしたのを改めて実感し、
日中の陽射しのうつろいを心に充たすことが出来た。


   第三章

退職後の数が月を過ぎると、落ち着きを取り戻した日常生活となった。

私は日の出共に起き、家内の牛乳とコーヒーをそれぞれのマグカップに淹れて、
家内の枕元に置く、茶坊主が一日のはじまりである。
日中は買物の役割となり、その後は散策をしたりしている。

家内の方は、料理、洗濯、掃除と多忙な身であるので、
多少の役目を負った次第である。

そして、ときたま庭の手入れをしたりしている。
日中、夜のひとときは、読書、映画、音楽を楽しみ、
そしてブログなどに綴ったりしている。

夕食の時は、私は晩酌をするので、
純米酒を呑みながら、家内と他愛ない話をしている。

ときには、家内との共通の趣味である国内旅行をし、
或いは家内の母を誘い、3人で温泉滞在旅行を行ったりしている。

退職後の翌春、私が亡くなった時、家内の老後の生活を考えて、
遺言の公正証書を作成した。

私は退職の数年前から、退職後の10年間は五体満足で生かしてくれと念じ、
その後の70歳以降は余生と思っている。
酒も呑み、煙草も喫煙しているので、こうした思いは強いのである。

春先のひととき、健康保険料、住民税の請求を受けると、
私は多少覚悟はしていたが、思ったりより多かったので驚いた。
この2つの要素は、前年の年収に対応し、
私なりに年収1000万円以上の成果を50代の半ばより持続していた反動である。

現役時代は、厚生年金、所得税、地方税、健康保険料などは差し引かれていたので、
ある程度高いかしら、と思っていたが、
年金の片肺の身としては、
少しため息が出たのは正直なところである。

こうした要素を過ぎれば、後は日常をいかに自分に対して充たされるか、
と思っている。

私は雑木の季節のうつろいで時の流れを教示され、
買物先、駅前で女性のしぐさ、表情に魅せられ、
好奇心を失くしたら人生は終りだ、と思っている。


私のこの間の心情については、退職後から2が月した後、
ブログを投稿しはじめ、このサイトにも綴っているので、
偏屈な私の退職後の日常の心情にご興味の方は、
このサイトなどをお読み頂ければ、ほぼ余すことなく綴っている。

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霙(みぞれ)、雪よりも女性のしぐさに魅了され・・♪ 《初出2007.4.5.》

2008-05-11 15:35:50 | 定年後の思い
東京の郊外は、久々に雲ひとつない快晴の朝を迎えている。
朝方は4度前後の心身すっきりとした空気につつまれ、
日中は14度前後の穏(おだ)やかな日を迎える。


昨夕、3時過ぎに疲れを覚えたので、
塩野七生・著の『ローマ人の物語』第12巻(新潮文庫)を携えて、
布団にもぐり込んで、読みはじめた。

落雷の音が聴こえたが、数ページ読んでいるうちに眠りについた。

7時過ぎに目覚め、冷たくなった煎茶を飲んで、ぼんやりとしていた。

家内が、
『貴方が寝ているあいだ・・雷と雨・・凄かったわ・・霙が少し降ったわ・・』
と云った。

NHKのニュースでは、
都心では、夕方より雷とともに雨と雪が交じった霙が降り、
4月の雪としては19年ぶり、
と報じていた。

私はこの頃は、
塩野七生・女史に導かれて『ローマ人の物語』を少し読んで眠りにつき、
夢の中で30代から50代の15人前後の女性に囲まれて、
花見をしていた・・。

私は霙と雪は感覚的に天と地の差があると思っているが、
気象庁の定義としては雪、としている。

『だけど・・霙か雪か知らないけれど・・
多くの女性に囲まれ・・しぐさ・・表情は良かった・・』
と私は家内には云えず、
心の中で呟(つぶや)いたりした。


私は9時過ぎに歯科医院に治療に出かけるので、
晴れ間の中、川沿いの遊歩道を歩き、花を愛(め)でながら、
目元が美しく心も綺麗な女医さんに治療を受ける予定である。



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夢の中の『花くらべ』・・♪    《初出2007.4.4.》

2008-05-11 15:22:58 | 定年後の思い
私は昼さがり、一冊の本を見ていた。

野呂希一・荒井和生・両氏に寄る『言葉の風景』(青菁社)で、
四季折々のことばを自然写真で紡ぐビジュアルブックである。

この中で、『花くらべ』という季題があり、
未知な季題であったので、読んで見入った。

無断であるが、転記させて頂きます。



平安時代、宮廷などで行われた遊び『花合わせ』というのがありました。

人々が左右の組に別れ、桜の花を持ち寄って和歌などを詠んで競う遊びで、
『花競べ』ともいうそうですが、桜そのものの美しさのことではないようです。

当時、桜の種類は山桜ぐらいしかなかったのかもしれませんが、
その後改良が加えられ、現在では300種にものぼります。

桜といっても一重、八重、淡い桜色から濃い紅、
そして白や黄や緑まで、色や形、花びらの数も様々です。
花の名前も雅びなものに満ちています。



そして桜の花の数々の写真が掲載され、
有明(ありあけ)、御座の間香(ござのまにおい)、玉垣(たまがき)、
手弱女(たおやめ)、御衣黄(ぎょいこう)、糸括(いとくくり)、
花染衣(はなぞめい)、普賢象(ふげんぞう)、雨宿(あめやどり)、
紅時雨(べにしぐれ)などが花色が掲載されていた。

この後、少し疲れを覚え、文庫本を携えて、布団にもぐり込んだ・・。


私は現役時代の最期に於いて、出向となり、
女性の30代から50代の100名前後いる職場となった。
業務上、懇親会などで色々と話し合う機会があり、
この方達が夢に出てきた。

私は15名前後の女性陣から、桜の花見に招待されて折、
郊外の公園にいた。
そして他愛なく、おしゃべりをして、しぐさや表情を私は見ていた・・。
女性達の容姿も制服を着ていたり、私服の方もいて、
どうしたのかしら、と私は浮かない表情をしていた。

そしてこの中には、私が小学時代の友達、
そして本社の時代の女性がいたりした・・。

私は
『どうして・・』と思っていた時、
夢から目覚めた。

冷めた煎茶を飲んで、ぼんやりとしている。




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私なりの『沖縄』の悲劇とは・・!! 《初出2007.4.4.》

2008-05-11 15:11:35 | 時事【政治・経済】等
私は早朝から、沖縄のことに思い馳せている・・。

私は東京の郊外に敗戦の1年前の昭和19年に生を受けて、
戦争という悲惨な出来事は知らない身である。

小・中学校で沖縄に関して、教科書で知り、高校時代に歴史に興味を持ち、
沖縄に少し解かりかけた。

二十歳を過ぎた頃、中野好夫・新崎盛暉の両氏に寄る『沖縄問題20年』(岩波新書)を読んで、
私なりに沖縄を心の隅に置くようになった。
そして、昭和史としては、『ドキュメント昭和史』全8巻(平凡社)を30歳の頃に読み、
沖縄の敗戦前後を改めて教示を受けたりした。

これ以前の沖縄の歴史の概要としては、
知識人・藤野邦夫・氏の書かれたことを借用すると、
下記のように綴られている。



先史時代の『沖縄』の文化は、
九州地方の縄文文化と深いかかりあいを持ちながら進展したといわれている。
しかし縄文時代の後期あたりから、日本と中国の文化的影響を受けながら、
独自性を強めていったものと思われる。

かっての『琉球(りゅうきゅう)』という名称は、中国人の命名であり、
8世紀の日本の文献には『阿児奈波(おきなわ)』という文字で表現されているという。

ここに『琉球王国』が成立したのは、1429年(永享元年)のこと。
しかし、1609年(慶長14年)に、
徳川家康の承認を得た薩摩藩(鹿児島県)に攻略され、
王制をとりながら幕藩体制に組み込まれた。

明治政府が出来て、日本が近代国家として出発すると、
琉球王国の帰属を明確にしようとする動きが顕著(けんちょ)となった。
しかし、琉球側に統合に反対する勢力があり、
中国(清)の異議申し立てもあって、事はうまく進展しなかった。
明治政府が軍隊と警察力を投入して、王宮・首里城の明け渡しを迫り、
『沖縄県』の設置を宣言したのは、1879年(明治12年)4月4日。

沖縄県では、この日が『沖縄県誕生の日』とされている。

中国側との問題は、日本が『日清戦争』に勝ったことで消滅した。



以上、無断で引用させて頂きました。


私が長々とこうした事例を取り上げたのは、
第二次世界大戦の中で、沖縄と日本の関係を明確にし、
世界の強国が隣接する地域、国を属国下してきたと同様に、
いかに日本は沖縄列島地域を強奪したのを未知の人に知ってほしかったのである。



第二次世界大戦の中で、日本の各地は空襲に遭われ、災害を多くだされた。
とりわけ、広島と長崎は原子爆弾という新兵器の投下により、
多大な被害となり、被災地は復旧しても、
今日まで多くの人々の心身共に深く傷跡を残している。

沖縄の場合は、諸島の全般に戦地となり、
何より住民まで戦地にまみれ、アメリカ軍に寄る被弾、惨殺、
そして日本軍の一部に寄る住民に対しての自害の進めである。

結果として、日本の各地で戦争に寄る悲惨な出来事は数多くあったが、
あたかも日本の防波堤となった沖縄諸島、とりわり住民までまきこまれ、
戦火に散った人々の事実を知れば知るほど、
例え戦争の知らない私でさえ、心の傷を負っているのである。

そして私は沖縄に対しては、後ろめたい心を何時も持っている。


敗戦後は、アメリカの占領下となった。

沖縄は日本に返還されたけれど、沖縄の地理条件が、
もうひとつの悲劇をもたらしている。

日本の敗戦後、アメリカとソ連の巨国の冷戦の中で、
そして中華人民共和国の建国と軍事上の視点だけでも、
沖縄諸島はアメリカの軍備上では欠かせない地理的条件となっているのである。


国際政治は、各国の国益に基づいて、怜悧に実施されているので、
私は平和ボケではないので、外交の破綻の時、最悪の場合は戦争と思っている。
その前提として、国家を運営する時、外交を協議する時は、
それなりの抑止力となるので、自国の軍備は必要と確信している。

このことは世界の歴史を顧みれば、おのずと理解できるのである。
平和ボケ、他力本願の人々は、他国から占領され、隣人が殺され、
やがて自分も惨殺されても遅いのである。

私なりの沖縄の悲劇とは、
戦時中に住民までまきこんだ戦場であったこと、
そして現在も国際政治の軍事上、
必要悪であるが欠かせない地理に沖縄諸島がある、
という現実である。

このような思いが、朝のひととき、私は憂いていた。
こうした私の思考から、国民に真の平和を享受させる目的として、
政治は基(もと)より、ある程度の軍備を抑止力とし、
外交努力を押し進め、国益を勝ち取るのが、
国家の運営、将来図を委託された政治家の頂点にいる人々の責務と思ったりしている。





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花冷えのひととき・・♪    《初出2007.4.4.》

2008-05-11 15:01:00 | 時事【政治・経済】等
東京の郊外は、曇り空でときおり薄日の射す朝を迎えて、夕方から雨が降る、
と予測されている。
昨日と同様に、平年より幾分肌寒い10度以下の日中となる。

私は目覚めた時、机の中にあるカレンダーに書き込んだメモを見た。

『沖縄県が誕生した日』と私の手書きで書かれて折、
ここ2時間ばかり、沖縄について、色々と思い馳(は)せている。

私は定年退職後の3年生であり、
山川草木を主軸に季節のうつろいを大切にした年金生活の身であるが、
ときたま日本人のひとりの責務として、
沖縄について、思考したりしている。




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浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪ 《初出2007.4.3.》

2008-05-11 14:56:31 | 時事【団塊の世代】
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎・氏のロング・インタビューを読んでいた。

この中で浅田次郎・氏は、最後に、



・・・仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、
たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。

安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか


(注・原文より勝手に改行しました)

と述べられている。

私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。


私は定年退職後の3年生の身であるが、
日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。

家内と共通の趣味は国内旅行なので、
ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。

家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、
温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。

こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。

日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげている・・。

このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎・氏の発言された言葉に、
思わず苦笑させられたりしたのである。


私は浅田次郎・氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。

尚、浅田次郎・氏の文学に対する真摯な思い、
小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知った。

この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎・氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。



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小雨の降る中、花冷えとなり・・♪   《初出2007.4.3.》

2008-05-11 14:48:01 | 定年後の思い
10時過ぎに家を出て、川沿いの遊歩道を歩いた。
小雨が降りしきる中、川辺の菜の花が黄色の帯状になって、
少し霞(かす)んでいた・・。

染井吉野の桜、山桜は満開となって折、
その樹木の枝の伸びきった下を通り過ぎると、
花につつまれたトンネルとなったいた。
小雨の降る中、小鳥達は餌を求めて、枝から枝へと桜花をついばんでいた。

時折、桜の花びらが空中を舞いながら、遊歩道にまばらに散っていた。

白木蓮(ハクモクレン)、辛夷(コブシ)の純白な花は、空に向かって咲いて折、
小雨の中、風情ある景観となっていた。


花盛(はなざか)り 和(なご)みひととき 雨匂(あめにお)い


と拙(つたな)い歌を詠んだりした。



帰路、雨が上がり、桜の花が舞い散る中を歩いていたら、
2年前の旅先の情景が甦(よみがえ)ってきた・・。

2年前の4月の中旬、九州湯けむり紀行と称された団体観光ツアーに於いて、
別府温泉、霧島温泉を泊った後、
鹿児島県の知覧に寄った情景が浮んできた・・。

私のこのサイトに、この時の思いを綴っている。


    『桜の舞い散る頃に・・。』
            2005.4.14.投稿

4月12日(火曜日)
・・略・・

その後、島津家の別邸『仙厳園』に立ち寄った後、
知覧にある『特攻平和会館』に行く。

私は、歴史の中で不幸にも、
若き日に命を国家に捧げた隊員の遺書が確認したかった。
私の特攻隊に関する根底は、ニュース、歴史書物、映画から得た知識であるが、
何より小説家の阿川弘之・氏の『雲の墓標』を二十歳過ぎに読んだのが、
基礎知識として影響を受けていた。

鹿屋基地にある海軍の海兵団を描かれていた。

   雲こそ吾が墓標
   落暉よ碑銘をかざれ

この小説は、私の人生観を大きく揺さぶられたひとつの書物となった。

そして、ここ数年前に映画の『ホタル』を観た。
この映画は、知覧にあった陸軍の特別攻撃隊をテーマにしている。

このような拙(つたな)い知識の上、この平和会館に入った。

おびただしい遺書、日記が展示されていたが、
20分過ぎると、心が重くなった。

うみやまに まさるめぐみに むくひなむ
   道をゆくなり いさみいさんで
          
           佐藤 新平


君がため 雄々しく散らん 桜花

            上成 義徳


会館を出ると、大通りは桜並木であった。

おびただしい石燈篭の中で、桜の花びらが晴れ渡った空をさまよい、
そして地上に舞い降りていた・・。

路肩に吹き寄せられた花びらが薄い絨毯のように敷き占めていた。

・・略・・



このようなことを甦り、桜花が散りはじめの枝を眺めたりしていた。

帰宅後、もみじの幼い葉、紫モクレンの花は、
微風を受けて揺れていた。

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花冷えの中、菜種梅雨(なたねづゆ)となり・・♪ 《初出2007.4.3.》

2008-05-11 14:43:51 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外は、昨夜から雨が降り続いて折、
平年より少し寒さを感じる朝を迎えている。

日中も10度程度であり、どうして、と思ったりしている。

私は10時過ぎに歯科医院に治療で出かけるので、
川べりの遊歩道を歩く予定である。


昨日は雨の止んだあと家内と歩き、
染井吉野の桜、山桜、白木蓮、辛夷の満開を誉(ほ)めたりした。

そして、川辺には菜の花の黄色の花色が彩っていた・・。
遊歩道に沿って、500メートル前後、黄色い帯状に観られ、
私なりに心を和(なご)ましてくれたりした。

春雨と綴りたいところであるが、ときたま本降りとなっているので、菜種梅雨かしら、
雨の舞い降りる空を見上げている。


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ヴィジュアル総合誌『文藝春秋』臨時増刊号・・♪ 《初出2007.4.2.》

2008-05-11 14:33:01 | 読書、小説・随筆
家内と10時過ぎに家を出た時は、春雨が止んでいた。

川沿いの遊歩道を歩いたが、
週明けの月曜日の午前中であったので、人影も少なかった。
雨でしっとりした中、染井吉野の桜、山桜、
白木蓮、辛夷の満開の花に見惚(みと)れたりした。

花見で人出の多い中より、
こうしたゆっくりと満開の花を誉(ほ)めるられるのは、
贅沢なひとときと思ったりした。

家内の歯科医院で治療を受けるので、駅前で別れ、
私はコーヒー・ショップの『ドトール』で、
持参した塩野七生・著の『ローマ人の物語』第12巻(新潮文庫)を
読んで待機していようと思った。

ここしばらく、このお方の『ローマ人の物語』をあと4巻手元にあるので、
本屋に寄っていなかった・・。

『ドトール』に入る前、何かしら雑誌はないかしら、
と思い立ち、本屋に入った。

総合・教養コーナーの陳列で、ひとつの雑誌が目に止まった。

表紙の左隅には、

《現地イタリア・インタビュー》
塩野七生
ローマ人、司馬遼太郎、そしてリーダーとは!

《ロング・インタビュー》
浅田次郎
型破りな父がのこした言葉

という特集記事であったので、愛読者のひとりとして、
購入することにした。


『ドトール』でコーヒーを飲みながら、この雑誌を改めて見た。
知的円熟世代のヴィジュアル総合誌『文藝春秋』の5月臨時増刊号であり、
副題として《黄金の10年へ》と明示されていた。

最初、目次で記事のタイトルを眺めていたら、
団塊世代の人々が本年より定年退職をされるので、
この人達の祝砲として企画された増刊号と理解できた。

定年退職後の多くは、
60歳代は体力は衰えても知力は充実した年代でもある。

私達夫婦が2年前に北海道の団体観光ツアーに参加した折、
私達より10歳前後ご年配のご夫婦より、
『私達・・旅行が好きなので・・
体力もあった60代の時は、海外にもあちらこちら行けたの・・
ご存知と思いますが、ゴールデン・イヤーズでしたよ・・』
と教えてくれ、
私達夫婦に深く心に残ったりした。

その後、この雑誌の企画のセンスの良さを思考し、煙草に火を点(つ)けた。

             

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春雨の中、花冷えとなり・・♪    《初出2007.4.2.》

2008-05-11 14:21:35 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外は、春雨がしとしとと降り続いている朝を迎えている。

もみじの幼い葉が濡れ、紫木蓮(シモクレン)の枝は雨粒を湛(たた)え、
大きく咲いた花はしっとりとして、情感がある。

日中は雨時々曇りとなり、
昨日の25度近い陽気から、15度前後の花冷えの一日となる。

私は家内と10時過ぎに駅前に出かけるので、
川沿いの遊歩道を歩きながら、春雨の降る中、
桜、白木蓮、辛夷(コブシ)の満開の花を愛(め)でるのも良いかしら、
と思ったりしている。


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夕刻より、春雨となり・・♪    《初出2007.4.1..》

2008-05-11 14:18:40 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外は、5月の陽気となり、
夕刻より雨がしとしとと音もなく降り続いている・・。

日中は雲ひとつなく晴れ渡った陽射しの後に雨となり、
作物の穀物、樹木、草花に恵みの雨となっている。

そして、日中、汗ばむくらいの陽気で観た染井吉野の桜、
白木蓮(ハクモクレン)、辛夷(コブシ)の満開の花たちは・・
春雨の中どうしているのかしら、
と思いを寄せたりしている。


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