私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
午後のひととき、机の引き出しを整理していたら、新聞の小さな切り抜きが出てきて、
やがて読んだりした。
私が手にした小さな切り抜きは、過ぎし2012年4月7日の読売新聞の夕刊の記事であり、
『ウイークエンド 文化』で、確か月に2回ほど連載されている【魂の一行詩】であった。
この定期記事は、俳句を詠まれ、投句された方たちの選定、講評を俳人でもある角川春樹(かどかわ・はるき)氏が担当され、
私は無念ながら俳句、短歌を詠む素養はないが、ときより読むのが好きなひとりでもある。
そして何より魅了されてきたのは、角川春樹さんの序文である。
今回の記事は、二句詠まれた後、いつものように格調高い文章を綴られている。
私は精読した後、しばらく溜息を重ねたりした。
今回に二句詠まれたのは、映画監督の森田芳さん、歌い手のホイットニー・ヒューストンさんに対し、
氏の哀悼を詠(うた)った作品、と氏は明記している。
この後の綴られた文に、私は溜息を重ねたのである。
無断ながら転記させて頂く。
《・・俳句は、上手(うま)いに越したことはないが、上手いだけの句など、なにほどでもない。
技術に限界はあるが、生き方に限界はない。
究極のとろこ、人間は人生の途上で死を迎える。
俳句も、人格も、生き方も完結がない。
完結がないならば、より一層、切実に豊かな人生を楽しむことが大事である。
西行も芭蕉も、詩人である前に、人生の達人であった。・・》
注)原文より、あえて改行を多くした。
私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
その後は多々の理由で年金生活を始めた身である。
東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭となっている。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある独りで遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋などで逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
日常の大半は、随筆、小説、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
私は定年後に年金生活をしたのは、
それまでの半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしたのである。
もとより多くの人は、食事をしたり、寝て安らぎを得たり、性愛をしたりしているが、
こればかりだと動物と一向に変わらないのである。
そして人は誰しも知識欲があり、これを失くしたら、この人生は終わりだ、と私は確信したりしている。
或いは好奇心を失くしたら、この人生は単なる生き長がられているだけで、
もとより生の充実感がない、と思ったりしている。
このような齢ばかり重ねても可愛げのない私は、角川春樹さんより、
《・・切実に豊かな人生を楽しむことが大事・・》と銘言を学び、
つたない私は考えめぐらして、早や4年が過ぎ、微苦笑したりしている。
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午後のひととき、机の引き出しを整理していたら、新聞の小さな切り抜きが出てきて、
やがて読んだりした。
私が手にした小さな切り抜きは、過ぎし2012年4月7日の読売新聞の夕刊の記事であり、
『ウイークエンド 文化』で、確か月に2回ほど連載されている【魂の一行詩】であった。
この定期記事は、俳句を詠まれ、投句された方たちの選定、講評を俳人でもある角川春樹(かどかわ・はるき)氏が担当され、
私は無念ながら俳句、短歌を詠む素養はないが、ときより読むのが好きなひとりでもある。
そして何より魅了されてきたのは、角川春樹さんの序文である。
今回の記事は、二句詠まれた後、いつものように格調高い文章を綴られている。
私は精読した後、しばらく溜息を重ねたりした。
今回に二句詠まれたのは、映画監督の森田芳さん、歌い手のホイットニー・ヒューストンさんに対し、
氏の哀悼を詠(うた)った作品、と氏は明記している。
この後の綴られた文に、私は溜息を重ねたのである。
無断ながら転記させて頂く。
《・・俳句は、上手(うま)いに越したことはないが、上手いだけの句など、なにほどでもない。
技術に限界はあるが、生き方に限界はない。
究極のとろこ、人間は人生の途上で死を迎える。
俳句も、人格も、生き方も完結がない。
完結がないならば、より一層、切実に豊かな人生を楽しむことが大事である。
西行も芭蕉も、詩人である前に、人生の達人であった。・・》
注)原文より、あえて改行を多くした。
私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
その後は多々の理由で年金生活を始めた身である。
東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭となっている。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある独りで遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋などで逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
日常の大半は、随筆、小説、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
私は定年後に年金生活をしたのは、
それまでの半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしたのである。
もとより多くの人は、食事をしたり、寝て安らぎを得たり、性愛をしたりしているが、
こればかりだと動物と一向に変わらないのである。
そして人は誰しも知識欲があり、これを失くしたら、この人生は終わりだ、と私は確信したりしている。
或いは好奇心を失くしたら、この人生は単なる生き長がられているだけで、
もとより生の充実感がない、と思ったりしている。
このような齢ばかり重ねても可愛げのない私は、角川春樹さんより、
《・・切実に豊かな人生を楽しむことが大事・・》と銘言を学び、
つたない私は考えめぐらして、早や4年が過ぎ、微苦笑したりしている。
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