私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
雑木の多い小庭の中で、古惚けた戸建に住み、
近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人の手をお借りながらも田畑を耕していた。
こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは、長兄であると暗黙の定(さだ)めがあるが、この当時も幼児に病死することもあり、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生の通信簿は殆ど『5』と『4』であったが、
なぜかしら私は『3』と『2』ばかりの劣等生であった。
この間、1953年(昭和28年)の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。
そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
こうした中、私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、
そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった・・。
この後の状況は、このサイトで幾たびも発露してきたので、
今回は省略させて頂く。
やがて高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校に通学して、
何かしら自縛から解放されたかのように心情となったりした。
こうした中で、生まれて初めて授業も楽しくなり、結果として程ほどの上位の成績となり、
読書にも目覚めて、熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
私は小学生の後半から映画に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。
こうした中、映画専門雑誌の『キネマ旬報』を愛読し、脚本が掲載されていたので、
多くの映画の脚本を学んだりしていた。
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。
その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフトコースに、
一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、
外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられたりした。
こうした中、制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
この後、経理畑、そして営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年から、各レコード会社はリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
この当時は、大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。
このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたりした・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き75年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。
そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。
こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。
こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
こうした関係で、読書、映画、音楽、そしてパソコンは、
私にとっては大切なお友達となっている。
こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、年金生活を丸20年近くが過ぎている。
私が現役サラリーマンで奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。
そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では、何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。
もとより70代、80代の私より年上の御方でも、心身溌剌と過ごされている方達も、
近所にいる御方、知人に多くいることも、私は知って、少しでも学ぼうとしている。
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
私が定年退職してまもない時、地元の中学校時代の友人が、私の定年退職の挨拶状を読み、
とりあえず近くに住んでいる同級生を招集して、クラス有志会を開催してくれた・・。
やがて指定されたお洒落な居酒屋に行ったのであるが、
男性5名、女性5名のメンバーとなった。
まもなく私は、 『俺・・小学校、中学校も「2」と「3」の多い・・いじけた劣等生だった・・』
と私は皆の前で言ったりした。
『XXくん・・学校の成績なんか・・この人生・・平等に出来ているんだから・・関係ないわよ・・』
と同級生の女性は、微笑みながら私に言ったりした。
『それだったら・・俺の人生・・これから上向きだよね・・』
と私は軽口を言い、皆を笑わせたりした。
やがて二次会は、カラオケができる洋風の軽食事処で、
先程の女性の同級生から、XXくん・・百恵ちゃんの『いい日旅たち』・・一緒に唄おうょ、
と私は誘い出されて、やがて互いに手を軽くにぎり、私は少し照れながら共に唄ったりした。
過ぎし2007年(平成19年)の頃から、団塊の世代の知人、後輩から定年退職を迎えた挨拶状、
或いは電話連絡を受けたりした。
この間、不幸にしてリストラで早期優遇退職制度に応じて、やむなく転職した連絡も幾たびも、
私は受けたりした。
こうした中、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。
私も、定年するまで何かと苦節が多かった半生を振り返れば、
想定したより遥かな安楽な年金生活を享受して、先苦後楽の人生かしら、
と私は独り微笑んだりした。
この人生は、もとより自身の努力は必要であるが、
何よりもその時代ごとに、私は人との出逢いに恵まれて、叱咤激励されながら私は導かれてきた、
こうした思いがあるので、それぞれの時代にめぐり逢えた人に、感謝の念を深めている。
これからの80代の老後の生活を迎えている私は、
幸運にも健康寿命の範囲で、過ごしている・・。
いずれは私か家内が『おひとりさま』となるが、
こればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、
日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。