私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
まもなく誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、早や実質として年金生活は丸10年が過ぎている。
こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。
そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
私の中学時代の同級生の女性のひとりが、父上が中小業の創業者で成功され、裕福な家庭で育ち、
私たちのクラスでは、ひときわ目立った同級生であった。
やがて私は40歳になった頃、休日のひととき、家内から依頼されたケーキを求めて、
最寄駅のひとつの『成城学園前』の駅前の近くにある洋菓子店で、
偶然に逢い、誘われるまま、2階にある喫茶ルームで談笑した。
何かしら20代のなかばで結婚されて、相手の男性はある国立大学を卒業されて、
ある大手の民間会社で奮闘されて、国内はもとより海外の生産工場まで飛び回っているので、
休日も少ない、と私は聞いたりしていた。
そして高校2年、中学2年生の男の子、小学6年生の女の子がいるわ、
と明るく楽しげに私に話しかけられ、私はまぶしげに聞いたりしていた。
やがて近くに家があるから、と聞いたりしていたので、
送りながら私たちは中学時代の幾人かの同級生の話題をしたりし、
まもなく、ここが私たちの家、と言われて、門扉の前で私たちは別れた・・。
そして私は門扉を通して、広々とした敷地、豪壮な洋風の家を見ながら、
私のようなサラリーマンでは生涯の給与、ボーナス、退職金を合算を想定しても2億5000万円前後が限界だし・・
とても・・桁違いの裕福なご家庭だ、と羨望も嫉妬も超えてしまった。
この後、10数年過ぎた時、この主人が突然に亡くなり、
私は近くの寺院でお通夜に参列して、ある事業部の責任者に栄進されたので、盛大な葬儀が執行されていた。
やがて心筋梗塞で死去された、と私は聞いたりした。
そして現役時代は死ぬ気で働らくが、退職後は南太平洋でのんびりと過ごしたい、
こうした思いがあった、と私は聞いたりし、仕事に殉じた企業の戦死、と思いながら瞼(まぶた)が熱くなった。
やがて遺(の)された私の同級生、そして成人前後のお子様・・
こうした心情に思い重ねる、と人生は時には残酷なことを・・と思い馳せたりした。
私が定年退職して、まもない時に中学校のクラスの有志会に参加した時、
この女性の話題がたまたま成った時、仲良しだった同級生の女性から、
今は仙台に住んで、ご長男宅に同居しているが、あいかわらず裕福で生活には困らないが、
少し寂しそうだったわ、と電話連絡の時に感じられた、と私たちに教えてくれたりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。
私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
こうした中で、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも我が身を安住な環境ばかりこだわり安息な日々を過ごすと、この残された人生は狭い思考となるので、
ときには私たち夫婦は異郷の地に旅路を重ねてきた。
そして私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、
せめてと思いながら日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
例えば北海道の各地、雪舞い降るマイナス10数度の中、
山里、街の外れなどの雪路を歩きながら、圧倒的な異郷の冬麗な美の情景を享受している。
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まもなく誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、早や実質として年金生活は丸10年が過ぎている。
こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。
そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
私の中学時代の同級生の女性のひとりが、父上が中小業の創業者で成功され、裕福な家庭で育ち、
私たちのクラスでは、ひときわ目立った同級生であった。
やがて私は40歳になった頃、休日のひととき、家内から依頼されたケーキを求めて、
最寄駅のひとつの『成城学園前』の駅前の近くにある洋菓子店で、
偶然に逢い、誘われるまま、2階にある喫茶ルームで談笑した。
何かしら20代のなかばで結婚されて、相手の男性はある国立大学を卒業されて、
ある大手の民間会社で奮闘されて、国内はもとより海外の生産工場まで飛び回っているので、
休日も少ない、と私は聞いたりしていた。
そして高校2年、中学2年生の男の子、小学6年生の女の子がいるわ、
と明るく楽しげに私に話しかけられ、私はまぶしげに聞いたりしていた。
やがて近くに家があるから、と聞いたりしていたので、
送りながら私たちは中学時代の幾人かの同級生の話題をしたりし、
まもなく、ここが私たちの家、と言われて、門扉の前で私たちは別れた・・。
そして私は門扉を通して、広々とした敷地、豪壮な洋風の家を見ながら、
私のようなサラリーマンでは生涯の給与、ボーナス、退職金を合算を想定しても2億5000万円前後が限界だし・・
とても・・桁違いの裕福なご家庭だ、と羨望も嫉妬も超えてしまった。
この後、10数年過ぎた時、この主人が突然に亡くなり、
私は近くの寺院でお通夜に参列して、ある事業部の責任者に栄進されたので、盛大な葬儀が執行されていた。
やがて心筋梗塞で死去された、と私は聞いたりした。
そして現役時代は死ぬ気で働らくが、退職後は南太平洋でのんびりと過ごしたい、
こうした思いがあった、と私は聞いたりし、仕事に殉じた企業の戦死、と思いながら瞼(まぶた)が熱くなった。
やがて遺(の)された私の同級生、そして成人前後のお子様・・
こうした心情に思い重ねる、と人生は時には残酷なことを・・と思い馳せたりした。
私が定年退職して、まもない時に中学校のクラスの有志会に参加した時、
この女性の話題がたまたま成った時、仲良しだった同級生の女性から、
今は仙台に住んで、ご長男宅に同居しているが、あいかわらず裕福で生活には困らないが、
少し寂しそうだったわ、と電話連絡の時に感じられた、と私たちに教えてくれたりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。
私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
こうした中で、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも我が身を安住な環境ばかりこだわり安息な日々を過ごすと、この残された人生は狭い思考となるので、
ときには私たち夫婦は異郷の地に旅路を重ねてきた。
そして私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、
せめてと思いながら日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
例えば北海道の各地、雪舞い降るマイナス10数度の中、
山里、街の外れなどの雪路を歩きながら、圧倒的な異郷の冬麗な美の情景を享受している。
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