このように私は、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、
私たち夫婦は、安楽な年金生活は激変したりした・・。
そして家内はこの後、2泊3日で検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきたのは、5年半前の出来事であった・・。
震撼しながら揺れ動いたりした・・。
もとより転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、私の『おひとりさま』の生活などを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。
やがて手術後、定期的に採血検査の基づいて、
手術して下さった担当医師より家内は受診して、
結果として幸運にも転移がなく、そのたびに私たち夫婦は安堵をしたりして、
今日に至っている。
75歳を超えたら、これまで常識とされてきた「高齢者観」を忘れ、
新たな発想で考えていくことが必要です(写真:Luce/PIXTA)
長年、老年医学の研究を続けてきた現役の超高齢者である折茂肇医師が、
90歳になってたどり着いたのが、「たいていのことは、ほったらかしでいい」という考えです。
では、実際には衰えていく体と、どう向き合っていけばいいのでしょうか。
折茂肇氏著『90歳現役医師が実践する ほったらかし快老術』
より一部抜粋・編集してお届けします。
■75歳を超えたら「発想の転換」が必要になる
75歳以上の高齢者を対象とした研究は少ない。
「教科書」となるべき指標がなく、人によって個人差も大きい。
そうとらえれば、75歳以上の高齢者では、
これまで常識とされてきた「高齢者観」をひとまず忘れ、
新たな発想で考えていくことが必要だろう。
そもそも、高齢になれば、体の働きが衰えるのは当たり前。
病気になるのも当たり前。
それを嘆いたり、どうにかしようと抗ったりしても仕方ない。
自然な流れに逆らっても、無駄に体力を消耗するだけだ。
病気があるからといって、くよくよ嘆くことはないし、
それで自分の人生をあきらめてしまう必要はないのだ。
75歳を超えたら「無病息災」を願うのではなく、
発想を転換させて「一病息災」の精神で、いくのが賢明だろう。
一病息災とは、「一つも病気がなく、健康な人より、
一つぐらい病気を持つ人のほうが、健康に気を遣うので、かえって長生きする」
ことを意味する。
病気と仲良く、それが無理でもせめて、悪友と付き合うような気持ちで、
「まあ仕方がない。付き合ってやるか」と受け入れるほうが、
気持ちも楽になるのではなかろうか。
病気があっても、元気に生きる。
そのためには、心の持ちようが肝要だ。
75歳を境に、体が大きく変化するのであれば、心の持ちようも変えるのが、道理であろう。
大原則として、「おおらかに考える」ことをおすすめしたい。
自分の老いを感じるたびに、一喜一憂しない。
細かいことに、こだわりすぎない。
くよくよしない。
それが大事ではないだろうか。
「あれしちゃダメ」、「これは体に悪い」などと
細かいことを気にしすぎるのは、ストレスになるし、ストレスこそが、体にはいちばん悪い。
人間だって動物だ。
疲れたら休みたくなるし、睡眠が足りなければ眠くなる。
元気なら動きたくなるし、体調や気分によって、食べたいものも変わる。
理屈にこだわるより、自分の体からの声に耳を傾けて、
その時にしたいようにする。
食べたいものを食べる。それがいちばんだ。
長年、老年医学の研究を続けてきた現役の超高齢者である私自身が、
90歳になってたどり着いたのが「たいていのことは、ほったらかしでいい」という考えだ。
人生は、あれこれ考えたところで、なるようにしかならない。
とくに75歳を過ぎたらもう、細かいことは考えず、自由気ままに生きればいいのだ。
■具体的にはどう向き合う?
では実際に、「ほったらかしの精神」で、衰えていく体と、
どう向き合っていけば、いいのだろうか。
一般的に、日本の医療では、病気に対して治療を行う。
肺が悪ければ肺の薬、心臓が悪ければ心臓の薬、血圧が高ければ血圧の薬、というように、
一つの病気、一つの臓器に対して薬を使い、治療を行う。
しかし、高齢になれば、すべての臓器が衰える。
それぞれの臓器は、それだけで独立して働いているわけではなく、関連し合っているため、
どこか一つに衰えや障害が生じると、
連鎖反応のように、ほかの機能も低下してしまうということが起こる。
高齢になると、いくつもの病気を併せ持つようになり、
「あっちもこっちも、ガタが来て困る」などと思うのはそのせいだ。
全身で衰えていくのだから、どこか一つの病気を治せば済むという問題ではない。
だから、高齢者は若いころのように、一つ一つの臓器ごと、病気ごとに考えるのではなく、
トータルケアとして、全身をみることが大事だ。
「病気を診て、人を診ず」であってはいけないのだ。
■「病気の一つや二つ」は強がりではない
私自身も、糖尿病や前立腺の病気があり、定期的に病院に通っている。
でも、それで悲観的な気持ちになることはないし、
「年をとれば、病気の一つや二つ、あって当然」と思っている。強がりではない。
それは、病気があっても、痛い、苦しい、つらいなどQOL(生活の質)を低下させるような症状がなく、
日常生活を送る上で、困らない程度に体も機能しているからだと思っている。
歩ける、話せる、聞ける、食べられるといったことができているのだから、
病気を気にする必要はないのだ。
つまり、75歳を過ぎたら、病気があるかないかよりも、
ディスアビリティ(disability、機能障害)の有無が重要だと考える。
機能が衰えたとしても、人間らしい生活ができるか、できないかが重要なのだ。
QOL(生活の質)を維持し、自立した高齢者として
生活するために必要な、歩く、食べる、聞く、見る、話すなどの機能が
障害されないように予防すること、
あるいは、障害された機能を補うことが、大切になるだろう。
ディスアビリティ(機能障害)の原因になっている病気があるならば、
その病気を治すことも考えるべきだが、その目的は機能が元に戻るか、
改善するかであって、病気を治すことが目的になってはならないのだ。
機能を改善して、支障なく生活することを目的と考えれば、
病気を治すだけが手段ではなくなる。
歩きにくいようなら、杖や手押し車を使えば、ゆっくりでも歩くことはできる。
階段や段差が支障になるのであれば、
環境をバリアフリーにすることで、不自由を減らせるかもしれない。
■「機能が保てれば」で視野が広がる
ディスアビリティ(機能障害)は、個人の問題だけでなく、
環境や社会によって制限されているものも多い。
病気があるかないかで考えてしまうと、どうしても視野が狭くなる。
「病気があっても、機能を保てていればいい」と思えば、少し視野が広がるのではないだろうか。
ディスアビリティ(機能障害)という「より高い視点」でとらえることで、
これまでの病気やQOL(生活の質)に対する考えも変わってくるはずだ。
その結果、細かいことは気にしないという境地に、たどり着くことができるだろう。・・》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
今回、東京大学医学部老年病学教室の元教授で、90歳を迎えた今も
現役医師として働く折茂肇医師より、
《・・75歳を過ぎたら「一つくらい病気持ち」が案外いい・・》、
80歳の私は、多岐に及び、具体的に解説して下さり、多々教示されたりした・・。
たとえば《・・75歳を超えたら「無病息災」を願うのではなく、
発想を転換させて「一病息災」の精神で、いくのが賢明だろう。
一病息災とは、「一つも病気がなく、健康な人より、
一つぐらい病気を持つ人のほうが、健康に気を遣うので、かえって長生きする」
ことを意味する。
病気と仲良く、それが無理でもせめて、悪友と付き合うような気持ちで、
「まあ仕方がない。付き合ってやるか」と受け入れるほうが、
気持ちも楽になるのではなかろうか。 ・・》
こうような基本的なことを私は学んだりした。
そして《・・高齢になれば、すべての臓器が衰える。
それぞれの臓器は、それだけで独立して働いているわけではなく、関連し合っているため、
どこか一つに衰えや障害が生じると、
連鎖反応のように、ほかの機能も低下してしまうということが起こる。
高齢になると、いくつもの病気を併せ持つようになり、
「あっちもこっちも、ガタが来て困る」などと思うのはそのせいだ。
全身で衰えていくのだから、どこか一つの病気を治せば済むという問題ではない。
だから、高齢者は若いころのように、一つ一つの臓器ごと、病気ごとに考えるのではなく、
トータルケアとして、全身をみることが大事だ。 ・・》
そして《・・75歳を過ぎたら、病気があるかないかよりも、
ディスアビリティ(disability、機能障害)の有無が重要だと考える。
機能が衰えたとしても、人間らしい生活ができるか、できないかが重要なのだ。
QOL(生活の質)を維持し、自立した高齢者として
生活するために必要な、歩く、食べる、聞く、見る、話すなどの機能が
障害されないように予防すること、
あるいは、障害された機能を補うことが、大切になるだろう。 ・・》、
このような人生の晩秋を過ごすには、基本として、こうしたことを学び、
私はこれからの日々に光明をを得たりした・・。