夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《13》

2009-06-21 17:23:55 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『百草園』と題した綴りである。

都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。

千歳村・粕谷の自宅よりも『百草園』までの往復路の情景は、
私でも明確に想像できるが、それにしてもよく歩かれた、
と読みながら深く思ったのである・・。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     百草園

田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。
ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。
暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。

百草園は府中から遠くないと聞いて居る。
府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。
時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、
行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。


大麦小麦はとくに刈られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑ならぬ処もない。
其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、
二人は話しながらさッさと歩いた。

太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。
主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、
麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。
二人はさッさと歩いた。

太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝の為、
平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、
中々健脚である。

主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。
一日に十里も歩けば、二日目は骨である。
二人は大胯(おおまた)に歩いた。

蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。


府中に来た。
千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。

此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、
新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。

玉川の渡(わたし)を渡って、
また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に
川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。
もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。

境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。
茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、
大樹に日をよけた恰好の観望台がある。
二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。


東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。
生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、
筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、
つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から
「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、
磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、
手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。

「好(い)い喃(なあ)」
二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。


やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。
時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。
蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。
唯(と)見ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然(そう)、降るかも知れんですな」


二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。
太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。
日野までは一里強である。
山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」


人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。
残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。
川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、
玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。
彼は足を早めた。
然し彼の足より雲の脚は尚早かった。
一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で殷々々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。

農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。
府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、
曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。
「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」


彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。
而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。


府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。
時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。
早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。

此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、
こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。
彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。


府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上で破裂した。
突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、
雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。
紫色の光がぱッと射す。
直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。

彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。
本能的に彼は奔(はし)り出したが、
所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。
此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。
人通りも絶え果てた。
彼は唯一人であった。
雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあドウと漲(みなぎ)り落ちた。
彼の頬被りした海水帽から四方に小さな瀑が落ちた。
糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。

彼は水中を泳ぐ様に歩いた。
紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。
ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、
夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、
ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。

長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。
其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。
如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。

何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、
屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。
屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。
此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。
雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。
雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、
地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。

彼は是非なく死を覚期した。
彼は生命が惜しくなった。
今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。
彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。
其れは美しくない半生であった。
妻に対する負債の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。

彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。
「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」
と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。
彼は反抗した。
然し其反抗の無益なるを知った。
雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。

最早(もう)今度は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。
而して彼の心は却て落ついた。
彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。
彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。


調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。
暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。
調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。
雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。

戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、
わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、
出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。


雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。
濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。
足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。
滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。
雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。


家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。
それは妻(つま)であった。
家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。
あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、
雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、
而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。

・・】



徳富蘆花氏が千歳村・粕谷に引っ越されたのは、明治40年2月27日であり、
付近の甲州街道はあり、並行したように京王線はあるが、
大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されているので、
この頃は開通以前であり、百草園まで徒歩で行かれたのである。

氏自身は府中まで4里の道のりは土地の登記などで行ったりしているので、
熟路と称し、 百草園は府中から遠くないと聞いて居たので、
夏の日、友人に百草園に行こうと誘ったのが、午前11時過ぎである。

そして、早めの昼食を頂いた後、氏は友人と自宅の千歳村・粕谷を出たのである。


緑の中を一条(ひとすじ)白い中、甲州街道を2人は談笑しながら歩き、
府中から大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、多摩川の磧(かわら)に出た。

そして、新田義貞の軍勢と北条勢軍団が激突した分倍河原の古戦場を通り、
多摩川の玉川の渡(わたし)を渡って、
しばらくすると、低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た、
と綴られている。

この後、2人は大樹に日をよけた恰好の観望台で、
素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら、付近の展望を褒め称えた。

そして、友人はこれから一里ばかり歩いた後、
日野の停車場に出て、汽車で帰京するので、山の下で二人は手を分った。

蘆花氏は、足早に歩いたが、川上の空に湧いて見えた黒雲は、
多摩川の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
そして、一の宮の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で雷鳴が響いたのである。

府中へ来ると、空は暗く、早くもぽつぽつと降りだしてきた。
そして夕立をやり過ごすかな、と迷ったが、
結果として自宅までの四里を道のりを急いだのである。

そして一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。

府中の町を出はなれたかと思うと、
落雷と激しい豪雨の中を歩いたのであるが、この状況を克明に描かれている。

この後は、死を覚期したりするが、
半生を思い浮かべたり、妻に対する負債の数々も、緋の文字をもて書いた様に顕れたり、
此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えたりする。

やがて落雷に観念しながら、心は却て落つき、
心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類に対する憐愍(あわれ)に満され、。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた、
と綴られている。


そして調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降りになり、やがて止んだ。

雷雨が過ぎ、急に激しく疲労を覚えながらも
何とか自宅にたどり着いたのである。

徳富蘆花氏は雷鳴、そして付近に落雷と共に豪雨の中、
自身の心の動きを克明に描いて折、読みながら臨場感が感じてくるのである。



                         《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《12》

2009-06-21 14:23:52 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】の前回に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『二百円』と題した綴りである。

氏が千歳村・粕谷に住まわれて、
ある日、見知らぬ男が突然に来宅し、その男の話であり、
直接には千歳村の生活とは関係はないが、この当時の社会状況に於いて、
このような男もいたと当時の社会実態を知る上、
あえて転記させて頂く。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
   草葉のささやき

     二百円

樫(かし)の実が一つぽとりと落ちた。
其幽(かすか)な響が消えぬうちに、突(つ)と入って縁先に立った者がある。
小鼻(こばな)に疵痕(きずあと)の白く光った三十未満の男。
駒下駄に縞物(しまもの)ずくめの小商人(こあきんど)と云う服装(なり)。
眉から眼にかけて、夕立(ゆうだち)の空の様な真闇(まっくら)い顔をして居る。
「私(わたし)は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻(かない)に不幸な者でして……斯(こう)申上げると最早(もう)御分かりになりましょうが」


最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈(み)ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。


彼は埼玉(さいたま)の者、養子であった。
繭(まゆ)商法に失敗して、養家の身代を殆(ほと)んど耗(す)ってしまい、
其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。

こゝで妻子を呼び迎えて、暫(しばらく)暮らして居たが、
思わしい事もないので、大連(だいれん)に移った。
日露戦争の翌年の秋である。
大連に来て好い仕事もなく、満人臭(まんざくさ)い裏町にころがって居る内に、子供を亡(な)くしてしまった。

「可愛いやつでした。五歳(いつつ)でした、女児(おんなのこ)でしたがね、
其(そ)れはよく私になずいて居ました。
国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻(かない)は無愛想でしても、女児(やつ)が阿爺(とうさん)、
阿爺と歓迎して、帽子(ぼうし)をしまったり、其(そ)れはよくするのです。
私も全(まった)く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。
病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。
其内息を引きとってしまったンです。
医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様(そん)な事をしたものでしょう。
尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾(かつ)て斯々の事をした、
それで斯様(かよう)な罰を受けたと懺悔(ざんげ)したそうですがね」


彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、
夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、
其会社のまあ大将ですね、其大将の家(うち)に奉公に住み込みました。
何(なに)しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、
生活なンかそりゃ贅沢(ぜいたく)なもンです。
召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。
奥さんは好(い)い方で、私共によく眼をかけてくれました。
其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。
奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何(どう)も妻の容子(ようす)が変(かわ)って来ました。
――妻ですか、何、美人なもンですか、些(ちっと)も好くはないのです」
と彼は吐き出す様に云った。

「妻の容子がドウも変(へん)になりました。
私も気をつけて見て居ると、腑(ふ)に落ちぬ事がいくらもあるのです。
主人が馬車で帰って来ます。
二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒(びいる)を盆にのせて持て行くのです。
私は階段下に居ます。
妻が傍眼(わきめ)に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。
一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。
私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、
窃(そっ)と主人の書斎の扉(どあ)の外に抜足(ぬきあし)してじいッと聴いたり、
鍵(かぎ)の穴からも覗(のぞ)いて見ました。
が、厚い厚い扉(どあ)です。
中は寂然(ひっそり)して何を為(し)て居るか分かりません。私は実に――」


彼は泣き声になった。
一つに寄(よ)った真黒(まっくろ)い彼の眉はビリ/\動いた。
唇(くちびる)は顫(ふる)えた。

「妻の眼色(めいろ)を読もうとしても、主人の貌色(かおいろ)に気をつけても、
唯(ただ)疑念(ぎねん)ばかりで証拠を押えることが出来ません。
斯様(こん)な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。
また其様(そう)妻に云ったことも一度や二度じゃありません。
けれども妻は其度に腹を立てます。
斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、
其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出(いで)なさい、
何処ぞへ仕事を探がしに御出(おいで)なさい、
と突慳貪(つっけんどん)に云うンです。
最早(もう)私も堪忍出来なくなりました」

「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。
誰も居ない川原(かわら)です。
種々と妻を詰問しましたが、如何(どう)しても実を吐(は)きません。
其れから懐中して居た短刀をぬいて、
白状(はくじょう)するなら宥(ゆる)す、嘘(うそ)を吐(つ)くなら命を貰(もら)うからそう思え、とかゝりますと、
妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。
嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責(せ)めつけると、
到頭(とうとう)悉皆(すっかり)白状してしまいました」


彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。
すると翌日主人が私を書斎に呼びまして
『ドウも実に済まぬ事をした。
主人の俺(わし)が斯(こ)う手をついてあやまるから、何卒(どうぞ)内済(ないさい)にしてくれ。
其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。
屹度(きっと)成功さす。
これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、
二百円、左様、手の切れる様(よう)な十円札(さつ)でした、
二百円呉れました」

「君は其二百円を貰ったンだね、
何故(なぜ)其(その)短刀で其男を刺殺さなかった?」


彼は俯(うつむ)いた。
「それから?」
「それから一旦(いったん)内地に帰って、また大連に行きました。
最早(もう)主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而(そう)して今は?」
「今は東京の場末(ばすえ)に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君(さいくん)は?」
「妻は一緒に居るのです」
 話は暫く絶えた。

「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸(むね)がむしゃくしゃして仕様(しよう)がないものですから、
それで今日(こんにち)は――」

           *

忽然(こつぜん)と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。

・・】



徳富蘆花氏は会話体の形態で、
ひとりの零落した30代の男のいままでの人生の軌跡を描いているが、
あの当時の社会情勢を還りみると、このような男もある程度は在た、
と苦渋しながら私は読み終えたのである。


                          
                              《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《11》

2009-06-21 13:08:35 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】の前回に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。
前半の第二章まで掲載させて頂いたが、
今回のこの後半とした。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
     憶出のかず/\

      3

東京へはよく出た。
最初1年が間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。
調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。
彼等が千歳村に越して間もなく、
玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、
彼等は其れすら利用することが稀であった。

田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考えた。
彼も妻も低い下駄、草鞋(わらじ)、ある時は高足駄をはいて3里の路を往復した。
しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、
ブラ提灯を便りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした。

丸の内三菱が原で、大きな煉瓦の建物を前に、
草原に足投げ出して、悠々(ゆうゆう)と握飯食った時、
彼は実際好い気もちであった。
彼は好んで田舎を東京にひけらかした。

何時(いつ)も着のみ着のまゝで東京に出た。
一貫目余の筍(たけのこ)を二本担(にな)って往ったり、
よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄(はなすすき)を道々折っては、
親類へのみやげにした。

親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷(いも)を洗ったり、外竈(そとへっつい)を焚いて見たり、
実地の飯事(ままごと)を面白がったが、
然し東京の玄関(げんかん)から下駄ばきで尻からげ、
やっとこさに荷物脊負(せお)うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、
都の子女として至って平民的な彼等も流石に羞(はず)かしそうな笑止(しょうし)な顔をした。


彼は田舎を都にひけらかすと共に、
東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。
彼は一切の角(つの)を隠して、周囲に同化す可く努(つと)めた。

彼はあらゆる村の集会に出た。
諸君が廉酒を飲む時、彼は肴(さかな)の沢庵をつまんだ。
葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。
月番になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、
自身役場に持参した。

村の耶蘇教会にも日曜毎に参詣して、
彼が村入して程なく招かれて来た耳の遠い牧師の説教を聴いた。
荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、
椎蕈ムロを拵(こしら)えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。

都の客に剣突(けんつく)喫(く)わすことはある共、
田舎の客に相手にならぬことはなかった。誰(たれ)にでもヒョコ/\頭を下げ、
いざとなれば尻軽に走り廻った。

牛にひかれた妻も、外竈(そとへっつい)の前に炭俵を敷いて座りながら、
かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして
「大分(だいぶ)話(はな)せる」
と良人にほめられた。


玉川に遠いのが毎(いつ)も繰り返えされる失望であったが、
井水が清(す)んだのでいさゝか慰めた。
農家は毎夜風呂を立てる。
彼等も成る可く立てた。
最初寒い内は土間に立てた。
水をかい込むのが面倒で、1週間も沸かしては入り沸かしては入りした。
5日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、
風呂の底がぬる/\になった。
それでも入らぬよりましと笑って、我慢して入った。
夏になってから外で立てた。
井(いど)も近くなったので、水は日毎に新にした。

青天井の下の風呂は全く爽々(せいせい)して好い。
「行水(ぎょうずい)の捨て処なし虫の声」虫の音(ね)に囲まれて、
月を見ながら悠々と風呂に浸(つか)る時、彼等は田園生活を祝した。

時々雨が降り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。
夏休に逗留に来て居る娘なども、
キャッ/\笑い興(きょう)じて傘風呂(からかさぶろ)に入った。

       4

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、
赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白な富士を見て居た武蔵野は、
裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、
移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、
初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。

彼等は周囲(あたり)の自然と人とに次第に親しみつゝ、
一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。
東と北に一間の下屋(げや)をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、
外に小さな浴室を建て、井筒(いづつ)も栗の木の四角な井桁(いげた)に更(か)えることにした。

畑も1反4畝程買いたした。
観賞樹木も家不相応に植え込んだ。
夏から秋の暮にかけて、間歇的(かんけつてき)だが、小婢(こおんな)も来た。

10月の末、86の父と79の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、
其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、
心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。

而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の10月25日に浴室の使用初(つかいぞめ)をして、
「日々新」と父が其(その)板壁に書いてくれた。


斯くて千歳村の1年は、
馬車馬の走る様(よう)に、さっさと過ぎた。
今更の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。
幸福は心の貧しきにある。
感謝は物の乏しきにある。
例令(たとえ)此(この)創業の1年が、
稚気乃至多少の衒気(げんき)を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁(からさわ)ぎの1年であったとするも、
彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。


彼は生年40にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。

・・】


徳富蘆花氏は初めて千歳村・粕谷に住まわれて、
ご夫妻で過ごした一年を綴られている・・。


甲州街道に調布と新宿の間の馬車、人力車、
或いは千歳村に越して間もなく玉川電鉄は渋谷と玉川までの間は開通したが、
稀に利用する程度であり、殆ど徒歩で都心に行き来していた。

夫妻共々、低い下駄、或いは草鞋(わらじ)をはいたりし、
ときには高足駄をはいて、3里の長い路を往復したのである。
そして、暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした、
と綴られている。

そして氏自身は村のあらゆる集会に参列し、
葬式の折などには、「諸行無常」の旗持をしたり、
月番の時は、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身で役場に持参した。


こうした中で、赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白な富士を見て居た武蔵野は、
裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、
移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、
初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた、
と季節の移ろいを表現している。


私は徳富蘆花氏の綴られたこの随筆を読みながら、
氏自身この地の千歳村の粕谷に住まわれる以前は、
都心の外れの何かと利便性のある青山・高樹町で借家住まいであり、
余りにも環境の違う所で果たして大丈夫かしら、と幾度も考えさせられたのである。
住居はもとより、無知な畑作業、周囲の住民、風習などで克服することが余りにも多く、
都心に出るのにも徒歩主義を貫いている。

氏は柔軟な言動で、自身の描いた田園生活を過ごされたのは、
あの当時を思い浮かべても、強靭な志を持つお人であったと感じるのである。

そして、氏自身が一年を過ぎた時、
彼は生年40にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである、
とさりげなく宣言されのであるが、
この一年のたゆまぬ努力の結晶と思いながら、私なりに感動をさせられるのである・・。

                        《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《10》

2009-06-21 09:16:30 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
これまでは『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまり、
田園生活を始めるにあたって、色々な地を懸案した後、
千歳村・粕谷にし、引越しまで状況を氏自身の思い、そして心情を克明に描かれていた。

そして前回は、初めて千歳村・粕谷の生活を風習、飲料水などに、
戸惑いながら生活をはじめる・・。

こうした中で、今回は千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況、
氏自身の思いが克明に綴られている・・。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
     憶出のかず/\

       1

跟(つ)いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。
あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。


意気地の無い亭主に連添うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯は可なり持馴れた。
自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。
唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方(ひとかた)ならず悩まされた。
一番近い隣が墓地に雑木林、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。

引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母は
「若い女なぞ、一人で留守(るす)は出来ない所ですねえ」と云った。
それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。

墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣があって、破落戸漢(ならずもの)が多く出入した。
一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、
雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。
「今晩は」と彼が答えた。
雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、
先刻(さっき)帰ったことを知らなかったのである。
大にドキマギした容子(ようす)であったが、
調子を更えて「宮前(みやまえ)のお広さん処へは如何(どう)参るのです?」と胡魔化した。
宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸(びた)る其賭博(とばく)の巣なのである。

主の彼は可笑しさを堪(こら)え、素知らぬ振して、
宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍(そ)うて、ずッと往(い)って、
と馬鹿叮嚀(ばかていねい)に教えてやった。
「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。

門戸(もんこ)あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。
ある時彼が縁に背向(そむ)けて読書して居ると、
後(うしろ)に撞(どう)と物が落ちた。
彼はふりかえって大きな青大将(あおだいしょう)を見た。
葺(ふ)きっぱなしの屋根裏の竹に絡(から)んで衣(から)を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。
今一尺縁へ出て居たら、正(まさ)しく彼が頭上に蛇が降るところであった。


人烟稀薄な武蔵野は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。
中塗(なかぬり)もせぬ荒壁は恣(ほしいまま)に崩れ落ち、
床の下は吹き通し、唐紙障子(からかみしょうじ)も足らぬがちの家の内は、
火鉢の火位で寒さは防げなかった。

農家の冬は大きな炉が命である。
農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。
炉の焚火、自在(じざい)の鍋は、彼が田園生活の重(おも)なる誘因であった。
然し彼が吾有にした15坪の此草舎には、
小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、
周囲(あたり)が狭(せま)くて3人とは座れなかった。

加之(しかも)其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、
熾(さかん)な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。
彼は一月(ひとつき)ばかりして面白くない此(この)型(かた)ばかりの炉を見捨てた。

先家主の大工や他の人に頼み、
代々木新町の古道具屋(ふるどうぐや)で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、
肥車(こえぐるま)の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。

次の6畳の天井は、煤埃(すすほこり)にまみれた古葭簀(ふるよしず)で、
腐(くさ)れ屋根から雨が漏(も)ると、黄ろい雫(しずく)がぼて/\畳に落ちた。
屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、
盥(たらい)やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。

驚いたのは風である。
3本の大きなはりがねで家を樫(かし)の木にしばりつけてあるので、
風当りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。
西南は右の樫以外1本の木もない吹きはらしなので、
南風西風は用捨(ようしゃ)もなくウナリをうってぶつかる。
はりがねに縛(しば)られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。
富士川の瀬を越す舟底の様に床が跳(おど)る。

それに樫の直ぐ下まで一面の麦畑である。
武蔵野固有の文言通(もんごんどお)り吹けば飛ぶ軽い土が、
それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。
彼は前年蘇士(スエズ)運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。
武蔵野の土あらしも、やわか劣る可き。

遠方から見れば火事の煙。
寄って来る日は、眼鼻口はもとより、
押入、箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)の中まで会釈もなく舞い込み、
歩けば畳に白く足跡がつく。
取りも直さず畑が家内(やうち)に引越すのである。


都をば塵の都と厭(いと)ひしに
    田舎も土の田舎なりけり


あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。
風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴(さ)える、水が荒い。
四拍子揃(そろ)って、妻の手足は直ぐ皸(ひび)、霜やけ、あかぎれに飾られる。
オリーヴ油やリスリンを塗(ぬ)った位では、血が止まらぬ。
主人の足裏も鯊(さめ)の顋(あご)の様に幾重も襞(ひだ)をなして口をあいた。

あまり手荒い攻撃に、
虎伏す野辺までもと跟(つ)いて来た糟糠(そうこう)の御台所(みだいどころ)も、
ぽろ/\涙をこぼす日があった。

以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留に来て見ては、
零落と思ったのであろ、
台所の隅で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       2

主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。
何よりも先ず宮益(みやます)の興農園から柄(え)の長い作切鍬、手斧鍬(ちょうなぐわ)、ホー、
ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌(しばかりがま)など百姓の武器と、
園芸書類の六韜三略(りくとうさんりゃく)と、種子と苗とを仕入れた。

1反5畝の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、
大麦小麦が一ぱいで、空地と云っては畑の中程に瘠せこけた桑樹と
枯れ茅、枯れ草の生えたわずか1畝に足らぬ位のものであった。
彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、
重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝(うね)を作って、
原肥無し季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)くのを、
近所の若い者は東京流の百姓は彼様(ああ)するのかと眼を瞠(みは)って眺めて居た。

作ってある麦は、墓の向うの所謂(いわゆる)賭博の宿の麦であった。
彼は其一部を買って、邪魔になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、
果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。
通りかゝりの百姓衆に、棕櫚縄(しゅろなわ)を蠅頭(はえがしら)に結ぶ事を教わって、畑中に透籬(すいがき)を結い、
風よけの生籬(いけがき)にす可く之に傍(そ)うて杉苗を植えた。

無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役(ぞうえき)をした。
あらゆる不便と労力とを歓迎した。
家から十丁程はなれた塚戸(つかど)の米屋が新村入を聞きつけて、
半紙一帖持って御用聞(ごようき)きに来た時、
彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をした。


手脚を少し動かすと一廉(いっかど)勉強した様で、
汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、
酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。

東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、
村入しては好んで肥桶を担(かつ)いだ。
最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革(あずきかわ)の帯をしめた。
斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、
短銃其ものは明治38年の12月日露戦役果て、
満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、
今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、
庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破(うちこわ)してしまったが、
帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。

洋服にも履歴がある。
そも此洋服は、明治36年日蔭町で7円で買った白っぽい綿セルの背広で、
北海道にも此れで行き、富士(ふじ)で死にかけた時も此れで上り、
パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、
トルストイの家でも持参の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。

西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、
流石(さすが)無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、
眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物である。

此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹で担いで帰って来ると、
八幡様に寄合をして居た村の衆がドッと笑った。

引越後間(ま)もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。
其帰りにあまり路が悪いので、
矢張此洋服で甲州街道まで車の後押しをして行くと、
小供が見つけてわい/\囃(はや)し立てた。
よく笑わるゝ洋服である。

此洋服で、鍔広(つばびろ)の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢(す)を買いに往ったら、
小学校中(じゅう)の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。
彼の好物の中に、雪花菜汁(おからじる)がある。
此洋服着て、味噌漉(みそこし)持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、
流石剛(ごう)の者も髯と眼鏡と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。

引越し当座は、村の者も東京人珍(めず)らしいので、
妻なぞ出かけると、女子供が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾(めかけ)の居た家(うち)に越して来た
東京のおかみさんが通るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚(わめ)き立てゝ大騒(おおさわ)ぎしたものだ。


東京客が沢山来た。
新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取りに来た。
遠足半分の学生も来た。
演説依頼の紳士も来た。

労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。
村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶でもすると、
彼はます/\得意であった。
彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突(けんつく)を喰(く)わした。
芝居気(しばいげ)も衒気(げんき)も彼には沢山にあった。
華美(はで)の中に華美を得為(せ)ぬ彼は渋い中に華美をやった。

彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、
抑(そもそ)もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。
小さな草屋のぬれ縁(えん)に立って、田圃(たんぼ)を見渡す時、
彼は本郷座(ほんごうざ)の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、
ふッと噴(ふ)き出す事さえもあった。
彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。
趣味から道楽から百姓をする彼は、
自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾(しゅゆ)も忘れ得なかった。

彼の家から西へ4里、府中町へ買った地所と家作の登記に往った帰途、
同伴の石山氏が彼を誘うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。

爺さんが出て来て種々雑談の末、
石山氏が彼を紹介して今度村の者になったと云うたら、
爺さん熟々(つくづく)彼の顔を見て、田舎住居も好いが、
さァ如何(どう)して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多に欠員があるじゃなし、
要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。

そこで彼はぐっと癪(しゃく)に障(さわ)り、
斯(こ)う見えても憚りながら文字の社会では些(ちっと)は名を知られた男だ、
其様な喰詰(くいつ)め者と同じには見て貰うまい、
と腹の中では大(おおい)に啖呵(たんか)を切ったが、虫を殺して彼は俯(うつむ)いて居た。

家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、
休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。
妻が女児の一人に其(その)家(うち)をきいたら、
小さな彼女は胸を突出し傲然(ごうぜん)として
「大尽(だいじん)さんの家(うち)だよゥ」と答えた。

要するに彼等は辛(かろ)うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。
実際彼等は如何様(どんな)に威張っても、東京の喰詰者であった。

但(ただ)字を書く事は重宝がられて、
彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵の二三本、小松菜の一二把(わ)礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。

彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。
妻は裁縫の師匠をやれと勧められた。
自身(じしん)上州の糸屋から此村の農家に嫁いで来た媼(ばあ)さんは、
己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、
種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕(ようさん)をしろの、
何の角のと親切に世話をやいた。

・・】


15坪ばかり草舎のような家で徳富蘆花夫婦は生活を始められたが、
近所の家は遠く離れ、付近には賭博場もあり、おかしな人物も寄ったりした。
家の中の壁ははがれ、屋根裏に蛇がいたり、
暖を取る肝要の炉も小さく、天上も低く、止む得ず炉を改ためたりする。
その上、風は強く吹くと、家は船のように揺れ、
土ぼこりは容赦もなく室内に舞い込む・・。

こうした中で、氏は白っぽい綿セルの背広で畑作業を始めるのである。
原肥はなく、季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)いたり、
ときには肥桶を担(かつ)いだりして、付近の農家の人々を唖然とさせるのである。
そして、近所の子供たちも蘆花夫妻の容姿に驚き、囃し立てたりするのである。


私はこうした状況を読みながら、苦笑した。
私の覚えている神代村入間の昭和20年代の中頃さえ、
農家は野良着で田畑を耕し、普段着の和服で家の中で過ごしり、
冠婚葬祭などの場合は、紋付の羽織で祖父、父は出かけていた。
まして背広の姿は、祖父が村の役員をしていたので、
この会議に出かける時に見かける程度であった。

蘆花氏の明治の後期の頃は、映画の『二十四の瞳』の島内の村人の親、子と容姿と同様と、
私は思い浮かべるのである、

こうした時代に、千歳村・粕谷で、
白っぽい綿セルの背広で、草を抜き、原肥もほどこすことなく、
季節もいとわず、人蔘(ニンジン)、二十日大根(ハツカ・ダイコン)など蒔(ま)いたり、
ときには肥桶を担(かつ)いだりすれば、
地元の人々は、ただ驚き、唖然としたのは私は理解できる。

氏の住まわれた千歳村・粕谷は畑と雑木林、
私の生家の神代村・入間は田畑、雑木林が多かったのであるが、
家の宅地で風の強い方面には、防風林として大木を、
そして周囲は雑木林として、田畑と分離していた。

氏の場合は、家の周囲は麦畑が広がり、
無知であったが、ひたすら畑作業をし、村人に教えられながら、
村人の日常生活にとけこもう、と真摯な言動が私にも理解できた。

そして買った地所と家作の登記に『府中』まで西へ4里往った、
と明記されているが、
今でも私の住む調布市は、土地、建物の登記などの東京法務局の管轄地は府中支局であり、
税務署は府中にある武蔵野府中税務署となっているので、
百年前とは余り変わらないと、私は教示されたのである。

尚、あの当時の千歳村・粕谷は、現在は世田谷区の管轄地なので、
都内の東京法務局の支局扱いとなっている。



                           《つづく》


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『父の日』の想い・・。 

2009-06-20 08:43:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
この一週間、新聞の折込チラシで、デパート、スーパーなどの多くは、
『父の日』に際しての商品が掲載されている。

こうした時、私達夫婦は子供に恵まれなかったので、
微苦笑しながら、私は見たりしている。

私の父は、私の小学校二年の時に他界され、
家内の父は、私の定年退職の直前に死去されたので、
私共の家族は、『父の日』には無縁となった。

こうしたことで、私は父親の資格もないが、
何かしら父親が存命している子供に切にお願いをしたい、と思ったりしている。


子供の立場として、男の子の場合は『母』を優先に感謝し、
『父』は二の次になることが多く、
特に成人した頃からは父親が現役で奮闘している時、
何かとライバル視となる傾向が多い。

女の子の場合も『母』を重視しがちであるが、
父親の立場としては、ご自分の娘がこの世界で何より一番可愛いと思われる。

こうした心情があるが、
成人した子供は、たとえプレゼントする品がなくとも、
お父さんのお陰で・・、と何かしら感謝の言葉を、
父親に労(ねぎら)いの一言を切に願っている。



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『足立美術館』の日本庭園の余情は・・。

2009-06-19 08:18:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
家内とふたりだけの家庭であり、共通趣味は国内旅行である。

食事の時とか、家内の休息の時なども旅行先の想いで、こぼれ話をすることが多い。

昨日も、昨年の今頃は『上高地』に散策に行ったわねぇ、
と家内は私に話しかけてきた。

今朝6時過ぎに、私は主庭のテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、雑木の多い枝葉を眺めていると、
一昨年のこの時節に初めて訪れた『足立美術館』の日本庭園が蘇(よみがえ)ってきた・・。


一昨年の6月17日より2泊3日で、ある旅行会社の『山陰地方』の周遊観光ツアーに参加した折、
羽田空港から伊丹空港に出て、天橋立で散策した後、城崎温泉で外湯めぐりをし、宿泊し、
翌日は山陰の浦富海岸よりフェリーで海上から鳥取砂丘の景観を楽しみ、
賀露港で下船し、鳥取砂丘を鑑賞した後、
海沿いの羽合温泉に宿泊した。

その後、足立美術館で庭園を眺めた後、
松江の堀川めぐりの遊覧船に乗り、
出雲大社で参拝した後、米子空港より帰京した小旅行であった。

私は海上からの鳥取砂丘、そして初めての足立美術館の石庭に魅了されて、
ツアー旅行に参加することにしたのである。

この時の旅行に関しては、このサイトに於いて、
【 山陰紀行 《下》 【2007.6.17. ~ 6.19.】 】と題して、
投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・

 第7章  初めての足立美術館

旅から戻り、ここ2日間は枯山水の庭を思い返している・・。

私は枯山水の庭は、日本の各地で10数ケ所しか観ていないので、
設計されたお方の創作に基づき、作庭師が具現させながら、
庭師の方達が従事する総合作業と思い、
依頼主の思考を加味させた総合芸術のひとつと確信している。

その上、季節の移ろいに応じて変化する景観なので、
創作はもとより維持管理は苦労の絶えない庭と感じている程度である。

従って、素人なので観た感覚しか綴れない。

最初に感じたのは、借景が十二分に生かされたゆるぎない美の結晶と思い、
5分程、眺めた後は、確固たる美でありすぎるので、
心に余情が生まれないのである。

こうした思いになると、
西洋人の一部のお方が絶賛する理由が分かるのである。

いずれにしても、その季節の移ろいごとに眺め、
百年後の風雪に耐えた枯れた庭を観たい気になるが、
これは叶わぬ夢である。

私は絵画、彫刻、童画の世界には興味はないが、
陶芸の世界は多少興味がある程度である。

館内から茶室の『寿立庵』までの飛び石の配置、
そして松を中核とした庭には、
和やかな心となり、素直に感銘をした。

晩秋のひととき、この茶室で抹茶を頂ただき、余情を感じたまま、
その後、枯山水の庭を眺めるのも一考かしら、
と夢をみたりしている。


http://www.adachi-museum.or.jp/ja/index.html

・・】


そして、後日の22日に於いては、
【 今年、初めての梅雨の1日となり・・♪ 】と題して、
このサイトに投稿している。

【・・
初めて梅雨の時節に相応しい1日となった・・。

連日、30度前後の暑さが続き、空梅雨かしらと水不足を心配していたが、
今朝の早朝から降ったり、止んだりした後、10時過ぎから小雨が降り続いている。

私は梅の実を採った後、ここ数日読んでいる本を午後より開き、読んだりしている。
『足立美術館~日本庭園と近代美術~』(山陰中央新報社)、
足立全康・著の『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日本経済新聞出版社)の2冊である。

最初の一冊は足立美術館の基本解説書であり、
あとの一冊は美術館の依頼主の人生の軌跡であり、
私なりに気になるお方である。

この本の帯には、作家の堺屋太一氏が、

「金儲け、社会還元、道楽、三つとも該当する」・・・
そういいながら71歳で日本一の庭園美術館を創った人物、凄い!

このように推薦文として、明示されていた。

この文を読んだら、私なりに興味が沸(わ)き、購入した次第である。

この二冊は、足立美術館のミュージアム・ショップで私なりに選定し、
買い求めた二冊の本である。

この2冊を小雨の降り、最高気温でも25度程度の過ごしやすい日中を読んだりしていた。

暑さに苦手な私としては、梅雨の時節、
待ち焦がれた静寂な小雨の1日でもある。
・・】


そして、翌日の23日に於いては、
【 夢幻のひととき、足立美術館の庭園・・♪    】と題して、
このサイトに投稿している。

【・・
足立美術館の茶室の前は、秋の情景だった。

私はどうした訳が分からないが、お茶会に招待され、和菓子は避けて、抹茶を頂いている。
周囲の客人も面識のない女性ばかりであった。

この後、私は独りで軒下でたたずみ、
枯山水の庭を眺めていると、ひとりの年配の男性が傍に寄ってきた・・。
このお方は、軒下に部下のような40代の男性に安易な椅子を二席用意させ、
私に座るように目でうながしている・・。

私は年配の男性のお方とは面識がなかったが、
創設された足立全康氏と分かった。

私は座ると、家内に似た50代の女性が抹茶の茶碗を私に手渡した・・。

私は頂ただくと、常温の純米酒であることに気付き、
私は照れて、扇子を取り出し、扇(あお)ぎはじめた・・。

『お気に頂けました・・』
と創設者は私に訊(たず)ねた。

『これだけの庭を創られたこと・・大変な事と・・感じました・・
思いつきはどなたでも出来ますが・・
いざ、具現化する時には・・
たとえ財力があったとしても・・出来ないこと多く・・ただ言葉に重ねるばかりでして・・』
と私は言った。

創設者は微苦笑して、そばにいる女性に、
私が頂いている抹茶茶碗を指して、お代わりを持ってくるように、
手振りをしていた・・。

私は気付き、
『充分・・頂きましたので・・』
と言ったが、声にならなかった。


ここで夢だったか、と昼寝から目覚めた。

私は思い込みの激しい人なので、関心のある方、興味のあることが、
幼年期より夢の中で、よく見ることがある。
亡くなわれた創設者が夢の中で出てきたりするので、
不可解にも夢幻と現(うつつ)の世界を行き来することもある。

先程、庭に下り立ち、樹木を眺めながら、
過日の旅の折、足立美術館の枯山水の庭は、
私の心に何時までも残影があり、余韻があった、
と改めて認めたりしている。

・・】


このように私は『足立美術館』の日本庭園に関して投稿していたが、
今朝の6時半過ぎに読み返し、微苦笑しながら、
旅の余韻、そして余情を享受している。

そして私の住む所は古来より武蔵野の地なので、
雑木の庭がふさわしいかしら、と無力な私は苦笑している。



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我が友、パソコンは長き不在となり・・。 《下》

2009-06-18 17:42:59 | 定年後の思い
私はパソコン専門量販店に修理を6月3日に依頼した翌日は、
日中の7時間ばかり玄関庭、主庭の草むしりに専念した。


5日の金曜日は、小雨の降る一日であり、
私は身体も疲れた為、読書の一日となった。

私が中断していた塩野七生・著の『ローマ人の物語 第32巻~第34巻 ~混迷する帝国~』(新潮文庫)を読んだ後、
作家・新田次郎氏の奥様である藤原てい・著の『旅路』(中公文庫)、
そして元総理の小渕恵三氏を描いた佐野眞一・著の『凡宰伝』(文春文庫)、
五冊ばかり文庫本を精読しながら、15時間を過ごしたのである。


6日の土曜日は、午前中は小雨、午後に曇りとなり、
昼下がりから快晴となった。
私は居間で、映画を観ようと思い、ビデオ・DVDを収容している三つのラックより、
映画の作品を選定した。
パソコンのない日常の不安げな心情を反映した為か、
『ザ・ロック』(1996年)、そして『グラディエーター』(2000年)
を観賞した。


7日の日曜日は、初夏のような暑さの中、スーパーを2店ばかり廻り買物を済ませた後、
作務衣の軽装に着替え、居間のソファーに座り、
『レッド・オクトーバーを追え!』(1990年)、そして『アンチャタッブル』(1987年)を観賞した。
いずれもショーン・コネリーが主演しているが、
前日に観た『ザ・ロック』(1996年)のショーン・コネリーの余韻である。
私は男優としては、ロバート・デ・ニーロと共にショーン・コネリーを敬愛しているひとりである。
そしてショーン・コネリーの作品は20数本を観た限りであるが、
この『アンチャタッブル』(1987年)の助演が最も好感している。


8日の日曜日は、深夜のひととき、
WBのテレビ用の作品で『FALL SAFE 未知への飛行』(2002年)
を観賞。
アメリカの核を積載した戦闘機部隊が誤ってソ連の首都に核爆撃するまでの過程を描き、
この間にモスクワまでの飛行への間、アメリカ大統領とソ連首相との電話会議を重ねながらも、
モスクワに核投下の結果、謝罪としてアメリカ大統領は自国の首都ワシントンに、
核を投下させる冷厳なドラマである。

この作品は、CBS放送で放映したのを改めて、再編集したと思われが、
テレビ用の作品としては優作である。


8日の日中は曇り空の一日であったが、
佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)を再読する。
この単行本は、昨年の初夏に於いて読んでいたが、旅行も重なり、
中断しながら読んだので、こうしたパソコンの不在の折、
一心に読む決意で再読したのである。

私はこの作品に関しては、昨年の6月14日に於いて、
【 今、読んで見たい佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』】と題して、
投稿していたが、再掲載をする。

【・・
過日、読売新聞の『新潮社の最新刊』の広告として、
私はひとつの本の広告を見ていた・・。

佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』であり、

炙り出される「負の近現代史」

”従来の甘粕像”をことごとく覆す、
  衝撃の大河ノンフィクション!


と明示されていた。

私は著作者の佐野眞一氏の愛読者のひとりであるが、
近いうちに駅前に出た時に、買い求める一冊であった。

先程、【YOMIURI】のサイトの文化欄を見ていたら、
偶然に著作者の今回の新刊に寄せる思いが、
少し紹介されていた。


http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080604bk01.htm

私は著作者の数々の作品より、人の底知れる情念を学び、
怜悧までに真摯な徹底した取材、
そして行間に温かみのある著作者の主人公への思いを、
いつも感じ取りながら、読んだりしている。

現世に数多くのノンフィクション・ライターは存在しているが、
私の知る限り最も力量のある優れた作家と確信している。
・・】

このような投稿していたが、昼食時を忘れるくらい、
熱中したりした。

夜のひととき、『夢伝説・世界の主役たち ション・コネリー』を視聴する。
この作品はNHK衛星放送で2000年8月27日で放映された番組で、
私は魅了される番組でも収録する癖があるので、
たぶん三回目と思われるが、ション・コネリー自身のしぐさ、メッセージを聴きたく観賞したのである。


9日の火曜日は快晴となり、最寄駅のひとつ喜多見の本屋『BOOKS GORO』に行く。
川沿いの遊歩道を散策したのであったが、
樹木の新緑は深緑に染められ中、下草や草花を眺め、この時節の移ろいを甘受した。

講談社MOOKと称せられた『現代プレミア』という雑誌の中で、
『ノンフィクションと教養』を購入する。
この本を買い求めに本屋に来たのであったが、
この本の置いてある付近に季刊雑誌の『文藝春秋 SPECIAL』があり、
今回は《 映画が人生を教えてくれた 》と副題が明記されていたので、
心の中で小躍りしながら買い求めたのである。

そして、店内の一角にパソコン系の棚に行き、
ひとつの雑誌を買い求めたのである。
『日経ベストPC+デジタル 2009年夏号』であり、
パソコンを主体に関連デジタル機種を優しく解説してくれる雑誌であり、
私はバソコン環境に混迷した時に、購入する雑誌である。

今回はパソコンが修理中なので、次期に購入する時の基礎資料と思い、
帰宅後、読んだりしたが、いったいどこまで進化するの、
と思いながら、ため息をついたりしたのである。


10日の水曜日は曇り空の中、散髪屋(理髪店)に寄った後、
2店ばかりスーパーで買物をして、帰宅の途中でコンビニで月刊雑誌の『文藝春秋』を買い求めて帰宅。

午後の大半は、昨日の大半の続きとして、
『ノンフィクションと教養』、そして『文藝春秋 SPECIAL ~映画が人生を教えてくれた~』を読んだり、
今月号の『文藝春秋』もあり、楽しげな優先度でもあった。

夜のひととき、ビデオ棚から『ガンジー』(1982年)を取り出して観賞。
そして、深夜の一時過ぎに、ガンジーが存在していた頃のインド史を読む。
歴史学者のA.L.サッチャー著作で、大谷堅志郎・訳に寄る
『燃え続けた20世紀 第二巻~殺戮の世界史~』(詳伝社黄金文庫)であり、
この中の第5章『インドの目覚め』、第15章『流血の印パ分裂』を読み、
改めてガンジーの時代のインド大陸の混迷を教示されたのである。


11日の木曜日は雨の降る朝であったが、午後より快晴となった。
私は買い求めた雑誌を読んだりしていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『壬生義士伝』(2003年)を観賞した後、
プロレスのビデオを取り出したのである。

『決闘! 巌流島 ~究極の格闘技伝説』と題されたアントニオ猪木VSマサ斉藤の戦いのドキュメント・ビデオである。
私は1970年代は、ときおりプロレスのテレビ観戦をしたことがあったが、
その後、私はプロレスを視聴しなくなったが、風の便りとして、
1987年秋にデスマッチとして、この戦いを聞いたりしていた。
後年、この血戦のビデオを知り、購入したのである。
私は齢を重ねても男の子のひとりであるので、3年に一回ぐらいは、観てしまうのである。


12日の金曜日は快晴となり、いつものように買物を終えた後は、
雑誌を読みふけっていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)を観賞する。
恥ずかしながら初めて観る映画であったが、期待が大きかった為か、
佳作と感じた程度であった。


13日の土曜日は快晴となり、買物を終えた後は、
書棚から一冊の文庫本を取り出した。
宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)であり、
西暦184年の『黄巾の乱』~三国時代、この後は唐の長き七百年の統治、
そして滅亡まで描いた本書である。
私は中国史はうつろ覚えであるので、少しつづ教示を受けたのである。

夜のひととき、習慣となってしまったが、
ビデオ棚より『ジャイアンツ』(1956年)を観賞する。
この作品は、テキサスの20世紀の初めより、1950年頃までを描いた作品である。
私は中学生の初め、渋谷の二流の映画館に於いて、
満員で立見となったが、ジェームス・ディーンが扮した役柄の男に惚れ込んだのである。

牧童の男は卑屈になったり、ときには横柄となったりし、やがて財を築くが、
いじけた内面があり、最後は破滅になる、
こうした男に魅せられたのである。

この作品も私は3年に一回ぐらいは観賞している。


14日の日曜日は、日中の大半は宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)を読む。
そして、夜はビデオ棚より『追想』(1956年)を観賞する。
イングリット・バークマンが扮するアナスタシアが、
ヘレン・ヘイズが扮した大皇妃との初対面のシーンが観たくて、
私は10数回ぐらいは観賞している。
それにしてもアメリカ映画界は、女優バークマンを復帰させるには、
最適な役柄を提供できる力を秘めた時代でもあった、
といつも感心させられる作品である。


15日の月曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー』(1972年)を観賞した後、
『ゴットファーザー PARTⅡ』(1975年)を観る。


16日の火曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー PARTⅢ』(1991年)を観賞した後、
『プラトーン』(1986年)を観る。


このようパソコンは不在となった14泊15日間となった折、
ふしだらな生活を過ごしてきたのである。

定年後の旅行で最長は、沖縄本島の8泊9日であったが、
それにしても17日の水曜日に修理済みのパソコンを受領した時、
長かったというのは本音である。

何より最初の数日間は、予告もなく突然に投稿せず、
お読み頂いている方たちも、申し訳ない心情であった・・。


パソコンのない日常生活の自身のふるまいを改めて知ったりしたが、
残された人生で私は散文を綴り、自身を高めていくのが本来の生き方なので、
やはり長きにわたり投稿文を綴らないと、確実に筆力は衰える、
と実感して戸惑っている。

                          《終り》



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我が友、パソコンは長き不在となり・・。 《中》

2009-06-18 09:46:52 | 定年後の思い
私はパソコン専門量販店に修理を依頼し、一週間から二週間は要する、
と回答されたので、国内旅行などで自宅不在をしない限り、
毎日5時間前後はパソコンに触れている定年後の日常生活を過ごしているので困惑したのである。

地元の天気情報、読売新聞、日経新聞のサイトのニュースを読んだりし、
興味のあるニュースをビジネス情報誌として名高いダイヤモンド社のサイトを深く読んだりしている。

http://diamond.jp/

このサイトは経済、時事はもとより政治、軍事、社会などの実態、変貌を
その分野で優れた専門家のお方が執筆されているので、
私は多々教示されている。

この後、私は自身のサイトの投稿文を思案し、綴ったりし投稿した後、
私が気になるお方の投稿文を拝読したりしている。
そして、そのお方の日常生活の思い、思考されていることなどを学んでいる。

このような時間を過ごすと、少なくとも5時間前後は要している。

私は買物、散策はほぼ毎日し、読書などで大半の生活をしているが、
パソコンのない机を目の前にぼんやりと椅子に座り、
しばらくして机の引き出し、脇机の書類を整理したりした。


翌日、玄関庭、主庭の草むしりに専念していた時、
私が愛用しているパソコンを購入した時が蘇(よみが)り、微苦笑したのである。
この時の心情は、このサイトの2006年9月29日~30日に於いて、
【 されど、パソコン・・♪ 】と題して投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
9月の中旬、パソコンの電源がときたま突然に落ちることがあった。

22日(金)に購入元のパソコン量販店のクリニック科に問い合わせをした後、
修理点検を依頼したが、来宅は26日(火)となった。

このブログをはじめ、パソコンの使用は23日(土)の午後より、一切取り止める事とした。

翌日より、最悪のケースを思って、最新のパソコン状況を確認するために、パソコン量販店に行き、見たりした。

26日(火)に量販店のクリニック科に来宅して貰い、パソコンの実態を調べて貰った結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、部品の交換の話となる。

部品代の概算を訊くと、10万円を超えるので、結局は新製品の購入とした。

ディスクトップ、ノート型は、新調した場合のケースで昨夜まで悩んだが、
安定性と操作性を配慮し、従来通りディスクトップとした。

問題として、壊れかけたパソコンのハードディスクのデータ救済であった。

結果として、強制的に出来うる限り、新機種に移行して貰い、
新機種のパソコンは本日の午前中に自宅に着き、
色々と再設定させるために、先ほどまで時間が掛かったりしている。

操作が覚束ない状態でこのブログを綴りはじめている・・。

私はこのブログを綴り始めたのは、一昨年の11月の下旬からであるが、
旅行などで投稿できない場合は、事前に綴って折、
今回のようにパソコン本体の故障は初めてであった。

何時もお読み頂いているお方には、この間は申し訳なく、しょげていたのが本音である。


私が綴っているパソコンは、昨日到着した富士通のディスクトップである。

ディスプレイは最近流行の20.1型のワイド画面であり、
CPU、メモリ、ハードディスクもある程度最強版となっている。

この一週間前に愛用していた機種は、やはり富士通のディスクトップのタワー型であった。
2001年(平成13年)の秋、定年退職時が2004年(平成16年)秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

この頃の時代は、液晶ディスプレイが普及し始めたであったが、
迷ったりしたが安定性を配慮し、19型のフルフラットCRTとした。
ドライブもCD-R/RWとDVD-RAM/Rの2ドライブ、そしてフロッピー・ディスクも備えたタワー型であったので、
ある程度10年前後は大丈夫かしら、と思ったりしていた。

プリンターも新調し、机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

それまで使用していたのは、富士通のノートパソコンを使用していた。
1998年(平成10年)の夏に会社と自宅で使うので購入し、それ相応に使い込んでいたが、
下取りとしてこのノートパソコンを手放した。

昨日、最新の富士通のカタログに、
【本製品には、有寿命部品(LCD、HDD等)が含まれています。
有寿命部品の交換の時期の目安は使用頻度や使用環境等に異なりますが、
一日8時間のご使用で約5年です】
と明示されていたのを読んだりして、苦笑いをしたりした。

何よりWEBの環境がここ10年進化し、ハード、ソフト・メーカーが連動し、飛躍してきたが、
世界の誰が今日の状況を予測できたのが私は問いかけている。

多分、どのお方の予測出来なかった、と思ったりしている。

各分野の専門担当の方達が、時代を先取りしたそれぞれの思考の結晶が、
今日のWEB環境と思ったりしている。

・・】


このように投稿していたが、愛用しているパソコンは3年弱であるが、
液晶画面のLCDは、一日8時間のご使用で約5年です、と思い浮かべ、
少し早いじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりしたのである。


                          《つづく》



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我が友、パソコンは長き不在となり・・。 《上》

2009-06-17 15:57:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
過日、6月3日の朝、いつものように私はパソコンの電源を入れた後、
主庭のテラスに下り立ち、煙草を喫いながら、何を綴ろうかと、
このサイトの投稿文を考えたりしていた・・。

居間にあるパソコンを置いている机に戻ったら、
電源ランプは点(つ)いているが、液晶の画面は黒く、おかしいなぁ、
と思いながら、強制遮断した後、再度立ち上げた。

OSのXPのスタート画面は表示された後、いつものようにネットで、
地元の『天気情報』を眺めていたら、画面が黒くなったので、
止む得ず立ち上げ直して、
ネットで『富士通サービスアシスタント』に於いて、
『ハードウェアの診断』で画面をチェックをしたが、異常は無し、と表示されたが、
しばらくすると画面が黒くなった。

この後、私は富士通のサポートセンターに電話で問い合わせをした結果、
液晶のバックライトが異常、と教示されたのである。

私は液晶画面系を修理するために、
このパソコンを購入したパソコン専門量販店に修理を依頼したが、
一週間から二週間は要する、と回答されて、
私は困惑したのである・・。

私は定年退職後まもなくして、ブログの世界を知り、
その日の思い、思索していることなどを心の発露として、
国内旅行などで外出しない限り、あふれる思いをほぼ毎日綴り、投稿をしてきたので、
修理の終わるまでの期間をどうように過ごすか、漠然と考えたりしたのである。

我が家は、無念ながらパソコンはたった一台しかなく、
その上に携帯電話は私達夫婦は使えず所有していないので、
ネット喫茶まで出かけて投稿する元気はなく、
私がパソコンを買い改めるのは、Windowsの次期のOSの『7』が発売され、
専門誌より格段の飛躍の評価が認定された後に、購入する予定であったからである。


私はこのサイトにほぼ毎日に投稿してきたので、心身の波長の狂いはもとより、
何より突然に予告もなく投稿を中断するのは、読んで下さっている方に心苦しくもあった。


午前中のひととき、液晶画面の要(かなめ)であるLCDパネルが交換されたパソコンが配達された後、
こうして、私は二週間ぶりに修理を終えたパソコンに私はキーインしながら、
少し感覚に違和感もありながら綴ったりしている。

次章に於いて、投稿を中断したこの二週間の過ごした思いを発露する。


                            《つづく》

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快晴の中、我家に『チップ車』が来宅・・♪

2009-06-02 16:11:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
一昨日までは、雨が降ったり、ときおり止む走り梅雨となり、
昨日は久々の晴れと予報されていたが、午後の3時過ぎに小雨が一時降ったりしていたので、
少しばかり憂鬱でもあった。

今朝は澄み切った快晴で迎え、6日ぶりかしら、と私は微笑んだ。

私は10時過ぎ、市に予約した市の『チップ車』の来宅を待っていた・・。

過日、我家で樹木を剪定していたので、
枝葉をチップ化にして貰いために、玄関庭の外れに積み上げていた。

わが市は、家庭の庭の樹木の剪定した枝木に関して、
燃えるごみの減量化に伴い、
それぞれの自宅までチッパー車で出向き、剪定された枝木を破砕し、
無料でチップ化して家庭のたい肥などに有効活用をしょう、
と一昨年から環境の資源再活用の一環として開始されている。

我家も昨年の4月中旬に初めて利用させて頂き、
秋にも利用させてもらい、
チップ化して草の生える一角に5センチ程度の厚さで撒き、
お陰で草もわずかしか生えず、
その上を公園の遊歩道に見られるようにフカフカと足元に優しく、
やがて朽ち果てると肥料にもなるので、
一石三長と喜びながら、成功体験を繰り返している。


これ以前は、燃えるごみとして、
市から指定された有料の『燃えるごみ袋』に、
枝葉で袋が破れないように細かく切ったり、
太めの枝は長さ45センチ以内としたりしていたので、
私なりにある程度の労力の時間を要し、
剪定の度ごとに10個前後の袋を積み上げたりしていた。

私の住む処は住宅街であるので、遙か30年前のように、
自宅の庭の外れで、焼却炉で燃やすことが出来なくなり、
やむえず『燃えるごみ袋』に袋詰めとしてきたのであった。

そして、五年前の春からは、『燃えるゴミ』、『燃えないゴミ』は有料となり、
我が家では『燃えるごみ袋』、『燃えないごみ袋』のLL、L、M、Sサイズの袋を買い求めて、
それぞれの指定回収日に備えている。


過日、剪定した枝葉を玄関庭の外れ積み上げていたのであるが、
一昨日まで走り梅雨、昨日の午後3時過ぎに小雨が一時降ったりしたので、
積み上げた枝葉が濡れ、困ったなぁ、と思いながら、
朝の10時半に予約した『チップ車』を待っていたのである。

少し早めに市の委託された職員さん3名が『チップ車』に乗り来宅された。
そして30分前後で作業をして頂き、
私としては現場監督のような立場であったが、楽な立場であった。

この後はチップを玄関庭の一角に敷きならしたり、
玄関から門扉、そして垣根の面した歩道を掃き清めると、汗が吹き出たりした。
そして、少し衣服が汚れたりしたので、入浴したのである。

そして、風呂上りで心地良いが、
やはり齢のせいか、少し疲れた身体であるが、
心は安堵感につつまれて、わずかに高揚したりした。


この後、燦燦と照りつける快晴の中、私は買物に出かけたり、
二度目の買物の時は、今年初めて扇子を持ち、スーパーに向かう歩道で、
扇子で扇(あお)ぎながら歩いたりしたのである。

帰宅後、居間にある気温計を見たら、27度を指していた。
微風が通り居間であったので、外気は少し気温が高いようである。

この後、私は今年初めてのアイスクリームを食べたり、
暑さに苦手な私は冷やした煎茶を飲みながら、ほっと一息ついたりしている。


家内は早朝から洗濯機が活動している間、家の各部屋を掃除をしたり、
何度も洗濯したりした後、夏物の衣服、靴など取り出して準備をし、
久々の快晴の日中、忙しく動き回っている。

私は買物の担当の責務を果たしたので、
庭のテラスに下り立ち、大きな樹木の下に身を寄せて、
煙草を喫いながら、今年の夏は暑くなるかしら、とぼんやりと思ったりした。




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《9》

2009-06-01 16:31:15 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
前回は、徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまり、
田園生活を始めるにあたって、色々な地を懸案した後、
千歳村・粕谷にし、引越しまで状況を氏自身の思い、そして心情を克明に描かれていた。

今回はこの続編であり、初めて千歳村・粕谷の生活を風習、飲料水などに、
戸惑いながら生活をはじめる・・。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。



     村入

引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速(さっそく)田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。
三吉は植木を植えて了うて、
「到底一年とは辛抱なさるまい」
と女中に囁(ささ)やいて帰って往った。

昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、今日も来て井戸を浚(さら)えてくれた。
家主の彼は、半紙2帖、貰物の干物少々持って、
近所四五軒に挨拶に廻った。

其翌日は、石山氏の息子の案内で、
一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、
両(りょう)角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に2軒隣り合い、
石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。

何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、
富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、
霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、
樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、
廻れば一里もあるかと思われた。

千歳村は以上三の字(あざ)の外、
船橋(ふなばし)、廻沢(めぐりさわ)、八幡山(はちまんやま)、烏山(からすやま)、給田(きゅうでん)の五字を有ち、
最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北1里余の間にあり、
粕谷が丁度中央で、1番戸数の多いが烏山2百余戸、
一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒、
余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。


期日は3月1日、1月おくれで年中行事をする此村では2月1日、
稲荷講(いなりこう)の当日である。
礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更(あらた)めて、
午後石山氏に跟(つ)いて当日の会場たる下田氏の家に往った。


其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、
小高い堤(どて)を流るゝ品川堀と云う玉川浄水の小さな分派(わかれ)に沿うて居た。
村会議員も勤むる家で、会場は蚕室(さんしつ)の階下であった。
千歳村でも戸毎に蚕(かいこ)は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。
板の間に薄べり敷いて、大きな欅の根株(ねっこ)の火鉢が出て居る。
十五六人も寄って居た。
石山氏が、
「これは今度東京から来されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某(なにがし)さんで」
と紹介する。

其尾について、彼は両手をついて鄭重にお辞儀をする。
皆が一人(ひとりひとり)来ては挨拶する。
石山氏の注意で、樽代(たるだい)壱円仲間入のシルシまでに包んだので、
皆がかわる/″\みやげの礼を云う。

粕谷は26軒しかないから、東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。
会衆中で唯(ただ)一人チョン髷(まげ)に結った腫(は)れぼったい瞼(まぶた)をした大きな爺さんが
「これははァ御先生様」
と挨拶した。


やがてニコ/\笑って居る恵比須顔の60許(ばかり)の爺さんが来た。
石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。
彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。

二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。
煙草の烟(けむり)。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合もある。
米の値段の話から、60近い矮(ちいさ)い真黒な剽軽(ひょうきん)な爺さんが、
若かった頃米が廉(やす)かったことを話して、
「俺(わし)と卿(おまえ)は6合の米よ、早くイッショ(一緒(いっしょ)、一升(しょう))になれば好い」
なんか歌ったもンだ、と中音(ちゅうおん)に節をつけて歌い且話して居る。


腰の腫物で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛の石山氏の注意で、
雑談会はやおら相談会に移った。
慰兵会の出金問題、此は隣字から徴兵に出る時、
此字から寸志を出す可きや否の問題である。

馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、
然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、
結局出すと云う事に決する。


其れから衛生委員の選挙、消防長の選挙がある。
テーブルが持ち出される。茶盆で集めた投票を、
咽仏の大きいジャ/\声の仁左衛門さんと、
むッつり顔の敬吉さんと立って投票の結果を披露する。

彼が組頭の爺さんが、忰は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、
皆が寄ってたかって無理やりに納得さす。


此れで事務はあらかた終った。
これからは肝心の飲食となるのだが、
新村入(しんむらいり)の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末なので、
一座に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達に遠ながら目礼して引揚げた。

           *

日ならずして彼は原籍地・肥後国葦北郡水俣から
戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。
子供の頃、自分は士族だと威張って居た。
戸籍を見れば、平民とある。

彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。
それを知らなかったのである。
吾れから捨てぬ先きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、
魯智深(ろちしん)の髯(ひげ)ではないが、
些(ちと)惜しい気もちがせぬでもなかった。
兎に角彼は最早浪人では無い。無宿者でも無い。
天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。



     水汲み

玉川に遠いのが第一の失望で、井(いど)の水の悪いのが差当っての苦痛であった。


井は勝手口から唯6歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根が通路と井を覆うて居る。
上窄(うえすぼま)りになった桶の井筒(いづつ)、
鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶(つるべ)は一方しか無いので、
釣瓶縄の一端を屋根の柱に結わえてある。
汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨(いかり)を下ろして見たら、
渇水の折からでもあろうが、水深が一尺とはなかった。


移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚(いどさら)えをやってくれた。
鍋蓋(なべぶた)、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚(あ)がって来て、
底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁(にご)り水で、
如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。

近隣の水を当座は貰って使ったが、何れも似寄(によ)った赤土水である。
墓向うの家の水を貰いに往った女中が、
井を覗(のぞ)いたら芥(ごみ)だらけ虫だらけでございます、
と顔を蹙(しか)めて帰って来た。

其向う隣の家に往ったら、其処(そこ)の息子が、
此(この)家の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、
と得意になって吹聴したが、
其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。


使い水は兎に角、飲料水だけは他に求めねばならぬ。

家から5丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水(ながれ)がある。
玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、
附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓(おしめ)の洗濯もする、肥桶も洗う。

何(な)ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、
男役に彼は水汲(みずく)む役を引受けた。
起きぬけに、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、霜を(ふ)んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦をやる。
日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、
面(めん)籠手(こて)かついで朝稽古から帰って来る村の若者が
「冷たいでしょう」
と挨拶することもあった。

摩擦を終って、膚(はだ)を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々(なみなみ)と水を汲み上げると、
ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。
耐(こら)えかねて下ろす。
腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分(ぶ)に減って居る。

其れから半丁に一休(ひとやすみ)、また半丁に一憩(ひといこい)、家を目がけて幾休みして、
やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。
両腕はまさに脱(ぬ)ける様だ。

斯くして持ち込まれた水は、細君、女中によって金漿(きんしょう)玉露(ぎょくろ)と惜(おし)み/\使われる。


余り腕が痛いので、東京に出たついでに、
渋谷の道玄坂で天秤棒(てんびんぼう)を買って来た。
丁度(ちょうど)股引(ももひき)尻(しり)からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、
理想を実行すると笑止(しょうし)な顔で笑われた。

買って戻った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担(にの)うて、
汐汲(しおく)みならぬ髯男の水汲と出かけた。

両手に提げるより幾何(いくら)か優(まし)だが、
使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。
天秤棒に肩を入れ、曳(えい)やっと立てば、腰がフラ/\する。
膝はぎくりと折れそうに、体は顛倒(ひっくりかえ)りそうになる。
(うん)と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、
五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。
思い切って蹌踉(ひょろひょろ)とよろけ出す。
十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷(に)を下(お)ろす。
尻餅舂(つ)く様に、捨てる様に下ろす。
下ろすのではない、荷が下りるのである。
撞(どう)と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。

下ろすのも厄介だが、また担(かつ)ぎ上げるのが骨だ。
路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。
鼻息は暴風(あらし)の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、
脊髄(せきずい)から後頭部にかけ強直症(きょうちょくしょう)にかゝった様に一種異様の熱気がさす。
眼が真暗になる。頭がぐら/\する。
勝手もとに荷を下ろした後は、失神した様に暫くは物も言われぬ。


早速右の肩が瘤(こぶ)の様に腫(は)れ上がる。
明くる日は左の肩を使う。左は勝手(かって)が悪いが、痛い右よりまだ優(まし)と、左を使う。
直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤(こぶ)で人間の駱駝が出来る。
両方の肩に腫れられては、明日(あす)は何で担ごうやら。

夢の中にも肩が痛い。
また水汲みかと思うと、夜の明(あ)くるのが恨めしい。
妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。
天秤棒の下にはさんで出かける。
少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。

全体(ぜんたい)誰に頼まれた訳でもなく、誰誉(ほ)めてくれる訳でもなく、
何を苦しんで斯様(こんな)事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、
必要に迫られては渋面作って朝々通う。
度重(たびかさ)なれば、次第に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力(ちから)が出来(でき)、
調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。

今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽(たのしみ)になる。


然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、
一月ばかりして大仕掛(おおじかけ)に井浚(いどさらえ)をすることにした。
赤土からヘナ、ヘナから砂利と、一丈(じょう)余(よ)も掘って、
無色透明無臭而して無味の水が出た。

奇麗に浚(さら)ってしまって、井筒にもたれ、井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水の湧く音を聴いた時、
最早(もう)水汲みの難行苦行も後(あと)になったことを、
嬉しくもまた残惜しくも思った。

・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。


『村入』と題された章に於いて、
引越しの日は温暖な日であったが、翌日には烈しいからッ風に吹かれ、
原宿に住んでいた時によく仕事に来た善良な小男の三吉は植木を植えて貰った人であるが、
『到底一年とは・・辛抱なさるまい』
と女中に囁(ささ)やいて帰っていかれたりする。

そして昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、
今日も来て井戸を浚(さら)えてくれたりした後、家主の彼は、半紙2帖、貰物の干物少々持って、
近所四五軒に挨拶に廻った。

其翌日は、石山氏の息子の案内で、
一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、
両(りょう)角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に2軒隣り合い、
石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。

何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、
富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、
霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、
樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、
廻れば一里もあるかと思われた。


千歳村は上祖師ヶ谷、下祖師ヶ谷、そして粕谷以上三の字(あざ)の外、
船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、
最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北1里余の間にあり、
粕谷が丁度中央で、1番戸数の多いが烏山2百余戸、
一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒、
余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。

私の実家は神代村入間であったので、上祖師ヶ谷、下祖師ヶ谷、そして粕谷はもとより、
烏山、給田の地域には、
私の幼年期の昭和20年代は殆ど田畑、雑木林の広がり情景は知っている。
氏は明治後期に住まわれたが、
引越しなどの近所の挨拶回りは余り変わらないと私は感じたのである。

この後、石山氏に導かれて、村の仲間入すべく紋付羽織を着て、
村の会合に出かけたりするが、
私の幼年期の情景と余り変わらない、と思いを重ねたのである。


そして、氏はまもなく、原籍地の肥後国葦北郡水俣から戸籍をこの地に移し、
東京府北多摩郡千歳村字粕谷の平民となった。



『水汲み』の章になると、
釣瓶でくみ上げる井戸の水の悪く、止む得ず飲料水だけは、
家から5丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水から、
氏自身は、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、水汲(みずく)みをしたのである。

最初は両手で下げてきたが、やむえず渋谷の道玄坂で天秤棒を買ってきて、
手桶とバケツとを振り分けにかついだが肩は腫れ、難行苦行の日々が続いた。

この後は、いつまで川水を汲んでばかりも居られねので、
一ヵ月後、井浚(いどさらえ)を徹底的にして、掘り下げた所、
井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水の湧く音を聴き、
何とか井戸の水が使えるようになったのである。


このように氏は飲料水さえ苦労された人である。
氏の住まわれた千歳村粕谷は地勢として、武蔵野台地であり、
難行苦行の末、水にめぐりあえたと感じたのである。


私の実家の神代村入間に住んでいる多くは、
この武蔵野台地のはずれに国分寺崖線と称せられた20メートル前後の崖の下に広がる田畑、雑木林の地帯である。

崖の半ばより、湧き水が多くあり、
ほぼ平坦となった地帯でも私の幼年期は、多くの湧き水を眺めたりした。

私の幼年期、実家の母屋の裏に釣瓶井戸はあったが、
台所に近い裏口に井戸を使用していた。
手押しのポンプ形式であり、飲料水はもとより、
洗面、台所、風呂、洗濯等の生活用水にも使用していた。

私の幼年期、井戸の底などを修理した人を眺めた記憶であるが、
地表の黒土が1メートル半、この下に赤土が半メートルぐらい、
その下に黒土が1メートル半、そして粘土質の土が1メートルとなり、
この下の砂利層を少し掘れば、清冽で豊かな湧き出てていた。

農業用水に関しては、付近の三百メートル先には川幅2メートル前後が川があったが、
実家の田畑の中に川幅1メートル足らずの小川が流れて折、
豊かな水量で流れ、田んぼ等を潤していた・・。
そして、昭和20年の半ば頃までは、長兄、次兄は前夜に安易な釣り針をセットしていたら、翌朝にウナギが獲れた、
と祖父、父に話したりしていた。

このように実家は、国分寺崖線と称せられた20メートル前後の崖の下に広がる田畑、雑木林であったので、
水に恵まれた地帯でもあった。


私は特に湧き水に関しては、深く哀惜するひとりであり、
このサイトにも、たびたび投稿したりしている。
【 湧き水の想いで・・♪ 】
と題し、2006年7月14日に於いて投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外の私の住む周辺には、昭和30年の頃までは湧き水が見られた。

昭和28年に父,翌年に祖父が亡くなるまでは、農家をしており、
程ほど広い田畑を耕していた。
田圃(たんぼ)の一帯の脇に蓮専用の田圃があり、
その付近に湧き水があった。

湧き水の周囲は、いつも小奇麗に手入れがされており、ミソハギが植えられていた。

夏のお盆になると、仏間の仏壇は閉じられ、
位牌等が座敷の一角に、四方を竹で囲み、真新しい茣蓙(ござ)の上に移行されて、
蓮の花、淡いピンクの咲いたミソハギが飾られていた。

私は湧き水を観るのが好きだった。
春の季節であっても、冬の時節に於いても
淡々と湧き出る水を不思議そうに眺め、飽きることがなかった。


小学五年生の頃、下校の途中で廻り道をしている時、
雑木林の斜面を下り立った処に池があり、その端に湧き水があった。
この家の主人と思われる老人が池を眺めていた。
私がときたま通る時、よく見かけていた・・。

『池のある処の・・お爺さん・・いつも難しそうな顔しているなぁ・・』
と私は友達に話したりしていた。

後年、私が高校に入学し、小説を読みはじめた頃、
本の中に、このお爺さんの写真があり、
武者小路実篤、と付記されていたのには、
私は驚いていたりした。

・・(略)




次回は、徳富蘆花氏は、千歳村の粕谷に少しつづ馴染み、
自宅の情景、周辺のうつろいが綴られると思ったりしている。

                          《つづく》



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限りなく情感を秘めた『水無月』を迎えて・・♪

2009-06-01 07:54:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨夜、カレンダーを一枚破り、
皐月の五月に別れを告げ、新たな水無月の6月に、
『こんにち~は・・』と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

過ぎ去った5月の私の思いは、
このサイトに余すことなく心の発露として綴っているので、
省略する。

私の住む東京郊外は、ここ5日ばかり走り梅雨で、
小雨が降ったり、止(や)んだりしてぐずついた4月下旬のような気温の日々であったが、
今朝はまばゆい陽射しで迎えた。

私は日中、久々の陽射しの中、買物と散策する予定であるが、
家内は早朝から洗濯の合間、掃除などで忙しくしている。

平年はこの6月中旬から7月の下旬の初め頃までは、
私の住む地域は、『梅雨』の時節となっているが、
こうした雨降る中、紫陽花(アジサイ)、杜若(カキツバタ)と同様に、
下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせる。

この雪ノ下の白い花は、幾つかのかんざしを合わせたかのような可憐な容姿で、
葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
微風に揺れながらも凛(りん)した気品をたたえている。

主庭の外れに半夏生(ハンゲショウ)を10数本植えているが、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられたりする。

庭の樹木のたわわな葉は、淡い緑色や深緑となり雨粒でしっとりと濡れ、
地表は黒土となり、清々(すがすが)しい情景になる。


我が家では、残念ながら紫陽花(アジサイ)はないので、
買物、散策の折、小公園などに立ち寄り、享受したりしている。

淡い紫色、透きとおる青色の色合いが好みであり、
小雨が降ったり時、散策の折、偶然に見かけると、
傘を差しながらも、見惚(みと)れてしまい、しばらく独りでたたずんでいる。

この時節、忘れてならない菖蒲の一種の杜若(カキツバタ)が美の極致と、
思いを寄せたりする。

この梅雨の時節、私なりの散策をしながら、
歴然とした美を享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。

そして雨の降りしきる中、煙(けむ)るような木立の情景に見惚(みと)れたり、
ここ四年ばかり梅雨の時節は、私なりに秘かに心を寄せている。

この後、少しぼんやりと、水無月に相応しい茶花を思ったりした。
薊(アザミ)、杜若(カキツバタ)、がく紫陽花(ガクアジサイ)等は私好みである。
そして初夏になると、夏椿(ナツツバキ)、宗旦木槿(ソウタンムクゲ)に待ち焦がれる。


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