夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ブログの世界の片隅で、意志薄弱な私でも、投稿文を9年も継続できた理由は・・。

2013-11-15 14:32:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私の定年退職時が2004(平成16)年の秋であったが、
この3年前の2001(平成13)年の秋に、定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

あるメーカーの市販の上級のクラスの機種を選定して、プリンターも新調し、
これだったならぱ10年ぐらいは大丈夫かしら、と思ったりしていた。
そして民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

この当時の私は、勤めていた会社、業界もリストラ烈風の中、出向となり遠方の勤務先で奮闘する中、
ノートパソコンを持参して、会社で各資料を作ったり、
自宅で家計簿代わりに予算実績表などで、定年後の資金の動向を思案したりしていた。
          
しかし我が家に於いてインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンでインターネットを施設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、退職後からすればよいと思いがあったのである

こうした中で、たまたまパソコン量販店でバソコンを買い改め時、
ソフトコーナーで、『日記』形式のソフトを見つけて、30年先の頃まで日々書き込め内容に、
これだったら私のその日の思い、思考していることなども書き込める、と思いながら買い求めたりした。

そして多忙の勤務の中、休日の時に思いだすように日々のことを書き込んだりした。
しかし外部に発信することのないが『日記』形式の画面に向かって散文を綴ったが、
何かと意志薄弱な私は、欠落する日もあったりした・・。
          

私の定年退職時が2004(平成16)年の秋を迎える数が月前、
自宅でパソコンをインターネットを連動させた時、
ぼんやり定年退職後の年金生活の中で、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いでを随筆風に綴り、公開しょうと思案したりしていた。
          
しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で、
果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
その後は幾つかのブログ・サイトに彷徨(さまよ)いながら加入して、
何とかこの【gooブログ】サイトに定着したのは、2008〈平成20〉年5月であった。

そして過ぎし12日に於いて丸9年が過ぎ、この間の私はパソコンが故障、
国内旅行に行っていない限り、自宅のパソコンが投稿文を日々発信してきた。
          

もとより数多くのブログサイトは、無料の上、匿名制度であり、
ある程度の良識を根底に於けば、どなたでも自在に投稿でき。
何よりホームページより手軽に開設、運営できる。

そして画面表示のテンプレートも瞬時に改定できるし、それぞれのお方の好みを選定できる。

或いはブログサイトの管理側は、多大な投稿文を記憶、保管、整理区分、分析など、
サーバーを活用したシステムにより、
たとえ私のパソコンが故障し、やむえなく買い改めても、
私のそれまで投稿文は、瞬時に甦(よみがえ)るのである・・。

こうしたことは、以前の私が『日記』形式のソフトを購入して、
綴ってきた数多くの散文が、
私のパソコンのハードディスクが故障して、
この当時の私は、このソフトのバックアップ方法も知らず、
跡形もなく消え去ってしまった苦い体験もあったりした。
          
     
私はブログに加入して、日々に感じたこと、
思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
無我夢中に毎日数通は投稿した時もあったり、ここ4年は日に一通となり、
私の年金生活の中で、ブログは欠かせない、いきがいのひとつとなっている。

こうした中で読んで下さる方の訪問数も増え、そしてコメントも頂いたり、
この中の一部の人とは、お互いにコメントを交わしている。

或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
生きた人生の教科書と確信を深めている。

こうした中で、私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしてきた。
          
私は何かと気弱くせに自己顕示欲の強く、その上に意志薄弱な私でも、
ブログの投稿文を9年も継続できた理由は、
偏(ひとえ)に数多くのお方が、つたない私の投稿文を読んで下さっていること、
そして数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、生きた人生の教科書と感じ深めていることである。

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高齢者夫婦の我が家、ふたりで一人前かしら、と私は微苦笑を重ねて・・。

2013-11-14 11:50:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも引け目を感じて、家内の茶坊主に専念し、家内がコーヒーが飲みたい雰囲気を察して、
私は日に5回ぐらいは淹れたりしている。

私は高齢者5年生の齢ばかり重ねた69歳であり、家内はまもなく12月になると64歳となる。
私は定年後から年金生活をしてきたが、何かしら現役サラリーマン時代の緊張感が無くなり、
時折ぼんやりとし、ここ数年ぐらいは体力の衰えを実感している。
          

こうした中で、我が家は金庫がないので、最寄りの銀行の貸金庫を利用している。
こうした時、我が家としては重要な不動産に関する書類、定期貯金通帳などをあずけているので、
私たちは出し入れをする時は、間違いないようにも、必ずふたりで確認してきた。

或いは人通りの少ない道に家内が出かけたり、ときおり家内の要望で駅前に買物をしたり、
年に4回ぐらいは都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
高齢者の私でもボディーガード兼お供、荷物持ちで共に出かけたりしてきた。

このように私たち夫婦は、ふたりで一人前だょねぇ、とお互いに微苦笑してきた。
          

小庭の手入れは私の責務の範疇となっているが、蚊の出る5月下旬頃から10月頃を除き、
体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けている。

こうした理由の根底には、私が定年後まもなくして、
ご近所より少し広い我が家は、植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたので、、
家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行が2回ぐらいできるわ、と私に言い、強力な支援の根源となっている。

               
こうした時は私はストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をした上て、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしてきた。

家内はトレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をして、
高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、私より少し離れた所にいる。

               
こうして私は剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、適度な台に乗り、枝葉を切り落としたり、
家内は高枝鋏(たかえだばさみ)を枝葉を切り落としたり、或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりすることが多い。

こうした手入れ作業は、殆どの昼食を抜きにして、お互いに午後3時過ぎの頃まで奮戦したりしているが、
もうやめようか、と私は疲れ果てて家内に言ったりするが、
もう少し頑張ってみませんか、と家内に言われたりし、私は再び奮闘したりしてきた・・。
          

初夏の陽射しが射す頃には、我が家は家内の指揮のもとで、 簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、
ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、茶室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
こうした時は、納戸に保管している簾〈すだれ〉を家内の陣頭指揮のもとで、
私は頼りない助手となって、取り付けたりしている。
          

私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
          
               
我が家は築後35年の古びた一戸建てであるが、
この間、何か火災、戸締りの不備などで、最悪の場合、もう一度新たに新築するようなことがあったならば、
老後の貯金は大幅に減少するので、何かと小心者の私は、もとより困苦するのである。

こうした心情からして、戸締りなどは恥ずかしながら主(あるじ)の私は、
いつものように夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

平素の場合は、この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりしている。
こうした後に
『ご苦労であった!』
と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
ここ4年前の頃から、 どうしてなのょ、と私は不思議に思ったりした。

そして思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
                    

このようにサラリーマンを卒業して、年金生活をしている中、
齢ばかり重ねた私たち夫婦は、ふたりで一人前かしら、と私は苦笑したりしている。

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ときには『おひとりさま』の生活、愚図の私は進化することなく、あえなく変貌して・・。

2013-11-13 10:57:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
家内は実家に過ぎし5日から本日の夕方まで8泊9日行っている。

こうしたことは年に5回前後あるので、私は『おひとりさま』となっている。
このようなことは、私は過ぎし今年の8月17日に於いて、このサイトで投稿している。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20130817
☆【夢逢人かりそめ草紙】==>2013年8月17日
   ==>【 ときには『おひとりさま』の生活、ぐうだらな私でも特別演習と思いながら・・。】☆

このように私は、ときおり『おひとりさま』の生活となっているが、
今回の5日から本日までの8日間、家事の全般の料理、掃除、洗濯などが、
恥ずかしながら変貌し、サボり果てて、独り微苦笑している。
          
   
私が家事の朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりしてきたのが前回までであり、
今回は台所から食材の利用後のゴミ以外は、少しぐらい溜まっても我が家として大勢に影響はないわ、
とサボって指定日に出さなかった。

朝食の準備として、最優先として一合ばかりのお米を洗い、
五穀米を加えて電気炊飯器に5分後にセットするのが通例であった。

そして炊き上がったご飯は一合だと私は多くなってきたので、
3割ぐらいラップに包み、冷蔵庫に保管することに変貌した・・。
そしてラップに包まれたのを、昼時に電子レンジで温めて、煎茶を飲みながら頂いたりした。

朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
不変のご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』としている。

私は単細胞のひとりなので、五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰を、
電車の線路のように固守して食べたりしてきた。

昼食は菓子パンの粒あん、こしあんのアンパンをワンペアで食べることが多かったが、
これは肥満児予備軍の私は回避致したく、
ラップに包まれた朝食の残り分のおにぎりに変貌してきた・・。。
                    
夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
煎茶を飲みながら食べたりしてきたが、
なぜかしら独りだと寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりしたが、
今回はテレビのニュース、番組を無視した。

夜の9時過ぎに、映画棚から観たい作品を取りだして、テレビを通して鑑賞してきた。
それぞれの名画は、少なくとも30回以上、映画館やビデオで鑑賞してきたが、
名画は幾たびに観るたびに、私は感動を深めたりする。

『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年) 、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)
『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)
『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、

こうした作品を鑑賞しながら、ひとり宴会しながら深夜まで鑑賞したが、
さすがに『ゴットファーザー(三部作)』だけは長編なので、二日間に分けたりした。
          
          
洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼ってきたが、
前回までは日々貫徹の精神で実行してきたが、これも変貌した。

三日に一回となり、下着、パジャマ、タオルなど3日分、洗濯機に入れて、
あとはお願い・・任せるからねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながらスイッチを入れてきた。

掃除に関しては、日中のひととき、従来もきまぐれに手抜きの部屋の掃除をしてきたが、
これも3日毎となってしまった。
こうした根底には、埃が多少あっても生死に影響はない、とサボり果てた。

台所で皿洗いに関して、これも日々貫徹の精神で実行してきたが、
煎茶の茶碗、コーヒー用のマグカップ以外は、2日毎に、
台所が西陽の射(さ)す暖かい中、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりした。

そして亡くなった歌手の島倉千代子さんは私は苦手であったが、
『この世の花』、『人生いろいろ』をかぼそい声で幾度も唄いながら、
皿洗いをし、哀悼を重ねたりした。
         
このような今回は『おひとりさま』の生活を過ごしてきたが、
料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
洗濯、掃除、皿洗いも前回以上にサボり果てて、
もとより家内のいる平素日常生活から遥かに遠い世界となってしまった。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の『おひとりさま』の劣等生かしら、と苦笑をしている。

或いは私が過ぎし一年半前の頃から隠れキリシタンのように愛読している【マジョリンの気ままにスローライフ】のサイトで、
賢女の麗(うるわ)しき奥方が、イギリス風のユーモアを秘めて、
あえて御茶目な言動の状況を発露して投稿される人であり、私は敬愛を重ねている人である。
          
この奥方が10月29日『目標は100』に於いて、
この奥方が医院で健康診断を受診されて、同行したご主人の心情・・
《・・待っていた亭主、心配そうに「どうだった?」って。
 亭主心配なんですよね。私に何かありますと今の快適な暮らしから地獄の生活になってしまいますから。(笑い)・・》

私は瞬時におふたりの優雅の中での生活実態、そして拙(つたな)いながら私たち夫婦の生活実態を
乾坤一擲(けんこんいってき)のような的言、私は微苦笑しながら、
そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

こうしたことを今回、思い重ねたりし、ときおり『ひとりさま』の生活を過ごしたりしてきた。

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ブログ10年生に進級して、過ぎ去り9年間の中で、良きこと悪しきことは・・。

2013-11-12 11:59:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
偶然にブログの世界を知り、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

そして幾つかのブログ・サイトに彷徨(さまよ)いながら加入して、
何とかこの【gooブログ】サイトに定着したのは、2008〈平成20〉年5月であり、
たまたま本日の12日に於いて、丸9年が過ぎ、10年生に進級か、と微苦笑したりした。

年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。


こうした中で、私にとってのブログの効用は何であったのかしら、と先程ぼんやりと思ったりした。
そして私が投稿文を重ねる中、良きこと、悪しきことは・・と思いめぐらしたりした・・。
                    

2004〈平成16〉年の12月の時、ブログサイトの大手であると100万人前後の加入者がいるので、
小心者でブロクの技巧も覚束ない私は、ブログに準じた簡易なブログサイトで、
3万人ぐらい加入しているブログサイトに加入した。

確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥方と投稿文に於いてコメントをお互いにし、
その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、この当時も私は日々投稿文を綴っていたせいもあり、
殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、散策する時何かと魅せられている小花のひとつです、
と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、植物学者は文学性の感性が余りにも欠落している、
と思い苦笑した。
そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥方に、『星の瞳』に瞬時魅せられました、と私はコメントしたりした。
           
           ☆2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆
   

こうした淡き心の交流をしていたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、
奥方の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している小さなある簡易なブログサイト自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥方は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、心おだやかに過ごせたので、
女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥方はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や5年半が過ぎている。
          

私の加入している【gooブログ】のサイトは、2008(平成20)年の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
       
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
          
こうした中で、『にほんブログ村』のシニア層の多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。
          
そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの半年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
          
そして何よりも感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。
          

良きことは以上のように記載できたが、悪しきことは私は小心者の為か、
ブログ上に於いては論争しないので、皆無となっている・・。

少し過ぎ去り日の投稿文を振り返った時、2005(平成17)年の当時に、
あるブログに準じた簡易サイトに加入していた時、コメント欄に書き込みをして頂いた方があった。
《 タイトルは、《あいうえお》
  内容は、ゲボリッチ
      ゲボリッチャン
  発信人は、f4rr
  発信時間は、20.39 》
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。

この時、私はこれには、困ったなぁ、と感じたりした。
私は書き込みをされた方が、たとえ大学、大学院などを卒業されても、心の貧しい人と思っている。

私の住む所に、ときたま缶コーヒーの空き缶、ペットボトルの空いたのを
我が家の庭の片隅に投げ込んでいる時もある。
こうした時、私は家内に、
『世の中、程度の低い人もいるんだなぁ・・』
と言ったりしている。

そして私は後始末をしながら、こうした方は先々の人生に、きっと良いことない、と信じたりしている。
               

或いは私の投稿文について、確か5年前の頃だったと思われるが、
文節が良くない、文法を無視することもある・・などと執拗に幾度かコメントされたことがあった。

私はつたないながら独創的な文体を目指(めざ)して、今でも悪戦苦闘しているが、
高等学校の国語の文法の先生のようなことをコメントするなよ、と私は無視したりした。

私は何かと気弱な身であるので、今までに9年で悪しきことは、このくらいかしらと思い浮かべたりしている。

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誰でも発信できるブログ、私が投稿文で配慮していることは・・。

2013-11-11 11:53:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
                     
私が初めてブログの世界を知ったのは、定年後のまもない時であった。

我が家に於いてインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンでインターネットを施設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。
          

私は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑としてコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の環境には、驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
                    
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いでを随筆風に綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
          

私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

          
そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、
~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、
それぞれの時代の苦楽を共にした心情があった。

こうして歳月は流れ、その後は幾つかのブログ・サイトに彷徨(さまよ)いながら加入して、
何とかこの【gooブログ】サイトに定着したのは、2008〈平成20〉年5月であった。
このような軌跡で、明日の12日を迎えると、ブログの世界を知って丸9年が過ぎ、
そして10年生に進級か、と微苦笑したりした。
          

ブログの世界は特に匿名制度であり、そして無料ブログサイトが隆盛となって、
2000万前後の方が利用されている、と私は思ったりしている。
そして自由に、それぞれのお方が投稿文に於いて、それぞれの思いを託して、投稿され、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、プロの有識者が雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように素人の愛読者は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。


私は丸9年投稿してきたが、私自身の幼年期から現役時代、そして年金生活の思い等を
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切なのである。

従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、
と言っても差し支えない。
          
しかし人は誰しも光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みを吐露(とろ)しなければ、この先の人生を生きて行くことはできない、
と思い発露してきたのである。
                     

しかしながら私は、どうしても表現できないこともある。
それは私の人格さえも問題視されることで、感情と理性の間を往還しながら、
ためらいながらも結果としては綴れなかった・・。

たとえば、皇室の問題であり、天皇陛下、皇后陛下は限りなく敬愛しているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻に憂うことも感じたりしている。

或いは私の勤めた35年近くのあるレコード会社の秘めたる事柄は、
守秘義務もないが、退職後の10年生となった今でも、心の礼節として綴れない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈して現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。
          

私はこのサイトに於いて、政治、経済、軍事、社会を含めて、
専門知識のない感情だけで吐露(とろ)し、独断と偏見で、
直球とかカープで余すことなく筆力が乏しいまま発露してきたこともあったが、
ここ3年ぐらいは反省をまじえて減少している。
          

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは一年前から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、
早くもブログ丸9年が過ぎ、10年生かょ、と微苦笑したりしている。

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健康寿命は歩いて延ばす、と改めて年金生活の私は学び、微苦笑を重ねて・・。

2013-11-10 11:12:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の9日の朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を読んでいたら、
8面の【経済】面の最下段に於いて、出版社のある雑誌の広告を見て、読んでいるうちに微笑みながら、
確かにそうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

この雑誌は、私が50代の初めの頃に教養娯楽雑誌の『サライ』を偶然に知り、
魅了されて定年退職した2004〈平成16〉年の秋まで購読した。
やはり雑誌の宿命で10年間愛読すれば、季節はめぐると同様に企画も同一化し、新鮮さも失われ、
定年後の年金生活の中、特集に魅了された時、ほぼ年に3回ぐらい買い求めたりしている。
          
今回の『サライ』の12月号の広告が掲載されて、特集記事のひとつを私は見て、
大いに賛意して、微笑んだりしたのである。

《 「健康寿命」は歩いて延ばす 》と大きく見出しされていた。

そしてこの横には、《 サライ世代が、心身ともに健やかに過ごすために実践したい3つの分野。
すなわち「毎日の歩行」「歩く旅」「生活環境を改善する健康家電の導入」で、
「健康寿命」を更に延ばす 》と明記されていた。

こうした中で実践要素として、《 一日8000歩と生活環境作りが肝要 》と明示し、
《 1日8000歩、速歩き20分 》として、《 5つの効果 》が記載されていた。

①生活習慣病(高血圧症、糖尿病、心臓病など)を予防する。
②認知症になりにくい
③免疫力が上がる
④骨を丈夫にし、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)を予防する。
⑤筋肉量を維持、向上できる。

このように丁重に明記され、詳細記事については、本誌は発売されているので、
私は本日の駅前で買物するので、本屋に寄り、
月刊総合雑誌の『文藝春秋』(12月号)と共に買い求める予定となっている。
          

今回、私がこの雑誌の広告を見て、読んでいるうちに微笑みながら、
確かにそうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしたのは、
このサイトに於いて、今年の夏の7月26日に、
【 健康寿命こそ何よりも肝要、と高齢者のぐうだらな私でも、ひたすら歩き・・。】
と題して、投稿しているので、ほぼ同じかしら、微苦笑を重ねたりしたのである。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20130726
☆【夢逢人かりそめ草紙】==>2013年7月26日
   ==>【 健康寿命こそ何よりも肝要、と高齢者のぐうだらな私でも、ひたすら歩き・・。】☆

そして私は、高齢者の思案することは大なり小なり、同じような思いかしら、と微笑んだりしている。

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インフルエンザ予防接種、風邪は天敵と思い、愚図の私でも接種を終えて・・。

2013-11-09 11:33:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎ去りし年の2010〈平成22〉年の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ひたすら歩き廻ったりして大幅に改善されている。

何よりも、この時節に日本酒の純米酒、ビールを長き45年ぐらい夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、週に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科専門医院に3週間毎に定期健診を受けているが、
ここ2年半は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

過ぎし7日、3週間毎の定期健診日に内科専門医院に訪れた時、
受付で国民健康保険証、診察カード、予約票を提出した時、
若き受付担当の女性より、
『XXさん・・今年、インフルエンザ予防接種を受けられますか?』
と私は尋(たず)ねられた。

私は一瞬わからず、数秒後に風邪対策の注射と理解した後、
『はい! 今年もお願い致します。よろしかったら本日お願い致します』
と少しボケてきた私は、返事ぐらい明確に応(こた)える為に、少し大きめの声で言ったりした。
          
この後、『高齢者インフルエンザ予防接種 予診票兼接種済票』と題された指定用紙を受け取り、
私は数多くの質問事項に記載した。

そして書きながら、過日に配達された『調布市 市報』の中で『高齢者インフルエンザ予防接種』を
思い浮かべたりしていた。

この記事を転記すれば、
《・・【平成25年度調布市高齢者インフルエンザ予防接種】

インフルエンザ予防接種を受けましょう!

調布市では,高齢者の方にインフルエンザの予防接種を1回に限り,一部公費負担します。
冬から春にかけてインフルエンザの流行期を迎えます。 

インフルエンザワクチンが効果を維持する期間は,接種後,約2週間から5か月程度とされておりますので,
流行の時期を考え,12月中旬までに接種を受けるようおすすめします。

1 対象者
● 予防接種を受ける日において満65歳以上の方
● 60歳以上65歳未満で,心臓・腎臓・呼吸器の機能障害のある方,
 及びヒト免疫不全ウィルスによる免疫機能の障害により日常生活に著しい支障のある方
(障害者手帳1級を所持する方,又はこれと同等の状態にある方)

2 接種期間
  平成25年10月15日(火)~平成26年1月31日(金)

3 接種費用  
 一部負担金として,2,200円を医療機関の窓口でお支払いください。・・》

このようなことが掲載されていた。
          

私は現役サラリーマン時代の時は、一年に一度ぐらい風邪をひいたりしていた。
中小業の民間会社で情報畑が多かったが、こうした中で多忙な勤務をしていると、睡眠不足と過労の為か、
鼻風邪から始まり、やがて熱が高くなり、やむなく会社の近くの内科医院で治療を受けて、
処方薬を飲んだりしていた。

或いは熱が余りに高くない時は、市販薬を飲みながら奮戦していた。

しかしながら、風邪を早めに治す為には、睡眠、栄養、水分、保温の四大原則と定義されているが、
サラリーマンとして多くの責務を果たす為には、困難な状況であったりし、一週間ぐらい長引いていた。

こうした中で、一番困り果てたことがあった。

机の脇机の中に、ティシュ・ペーパーの箱を私は入れていたので、
風邪で鼻水の時は、特に愛用したりしていた。

こうした中、コンピュータ・ルームでプログラムの修正などで、
中型コンピュータに直結された端末機に向って考えながらキーインしている時、
鼻水がたれれ、あわゆくキー・ボートを汚す状況の時だった。
そしてあわてて、ポケット・ティシュを取りだして対処したりしていた。
          
定年退職後の年金生活をしていると、風邪気味かしら、と私は感じたら、
いつでも寝れる年金生活の特権であり、
市販薬も飲まず、早めに寝てしまい、9時間ぐらい睡眠をすれば、
翌日は絶好調と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして私が65歳の高齢者となった後、近くの内科専門医院の医師より、
インフルエンザ予防接種を薦められた時、
『寒さを感じた時は、緊張感があれば風邪などはひきませんょ・・』
と私は明るく応(こた)えたりし、可愛げのない高齢者であった。
          
昨年の12月中旬、年末年始で何かと人と逢う機会が多いので、
遅ればせながら、やはり風邪は移しても移されても困るので、
初めてインフルエンザ予防接種を受けた。

こうした関連で、今年は早めの11月7日に接種を終えて、約2週間から効果があると思い重ねて、
独り微笑んだりしている。

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都立『神代植物公園』、心のふるさとの原景と思い深めて、早や53年が過ぎ・・。

2013-11-08 09:34:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
都立・神代植物公園の落葉樹の色あいは、どのように染められ始めているか、
と思いながら、一昨日の午前中に訪ねた。
          
             ☆今回添付した写真は、一昨日の11月6日の雑木林を中心とした情景である☆

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
平年は11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めらた錦繍(きんしゅう)の情景となる。
          
やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。


私の住む近くには野川が流れて、川沿いには遊歩道があり、
上流に向かい45分ばかり歩くと『深大寺』があり、隣接した所に都立の『神代植物公園』がある。
私は野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からパスを利用することもある。
          
いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
この当時は神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであり、
私は1960(昭和35)年の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961(昭和36)年の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された。

この間の中学時代は、自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を
下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。
          
そして私が心に迷ったりした時などは、樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。
          
私がこれまで生きてきたつたない人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
かえで、花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、木槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思っている。
                        

過ぎ去り年、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、中退を決意したりした。
そしてケヤキ、コナラ、クヌギ、エゴノキ、コブシ、アカマツ等の中、下草としてアズマネ笹が、
彩(いろど)る中を彷徨(さまよ)うこともあったりした。

私は結婚して2年が過ぎた頃、私の生家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときおり神代植物公園にも訪れたりしていた。

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の折、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
花咲く樹木の前で、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、呑んだりりしたことが多かったりした。

50歳代になると私は会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、ひとりで通ったりしていた。

私は定年退職後の年金生活に於いても、独りで植物公園まで四季折々、訪ねてたり、
或いは家内と共に行ったりしている。
          

私は結婚前後の5年を除き、今住んでいる地には64年過きているが、
心のふるさとの原景は家の周辺に、かすかに亡き祖父、父の知人だった旧家の周囲に残っているだけである。

私は農家の児として生を受けたのは、1944(昭和19)年の秋であり、
祖父、父を中心に小作人だった人の手を借りながら、程ほど広い田畑を耕していた。
そして一角には湧水があり、生家の田んぼが拡がる中、小川が流れたり、
蓮(ハス)の専用もあったりした。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。

こうした中で、私は地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春であり、
この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、
緑豊かな村里の情景であった。

やがて私が小学生2年に父が病死し、まもなく祖父も死去し、
生家は衰退したが、小学校を卒業する頃に、東京のベットタウンに変貌しはじめ、住宅街となった。
そして、この間に曲がりくねっていた野川も本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。

こうした中で、私が農家の児として育った原景は、殆ど消え去ってしまった・・。
          
こうした思いのある私は、愛惜を重ねるように、都立『神代植物公園』の園内を歩き廻ったりしている。
          
或いは近くにある『水生植物園』に行ったり、田んぼの情景、湧水を眺めたりして、
私が育った小学の低学年の頃までの情景を思い重ねて、見たりしている。

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麗(うるわ)しき数々のバラに、生まれて初めて私は、真心を込めて・・。

2013-11-07 07:17:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の午前中、都立・神代植物公園を訪れた。
落葉樹の色あいは、どのように染められ始めているか、第一目的であったが、
今年の晩春に『バラ園』を少しばかり鑑賞したが、
秋になったら真剣にバラを愛(め)でようと、心に秘めてきた。
          
こうした私の根底には、幼年期に農家の児として育ったので、畦(あぜ)道の観られる花、草花、
田んぼの中の蓮(ハス)、宅地の片隅の花畑でダリア、ユリなど里花については、少しは解るが、
女性でたとえるならば、高嶺の華(はな)のような存在のシャクナゲ、シャクヤク、バラなどの花には無知である。
          
しかしながら『神代植物公園』に開園以来、幾たびも訪れてきたが、
『バラ園』は通り過ぎることが圧倒的に多く、時折わずかに鑑賞する程度であったので、
生まれて一度ぐらいは真剣に鑑賞したらどうなの、
と天上の神々の怒りの前に、昨日一時間ぐらい熱中して、視たりして、
一生に一度だけ記念ねぇ、デジカメで撮ったりした・・。
          

私は今年の5月に入園した時、入口の近くで頂いた『神代 花だより』(NO.213、平成25年5月)に於いて、
バラについて解説されていたので、私はバラについての知識は、これしか知らない程度の低い男である。
《・・バラは、北半球の新旧両大陸を中心に広く分布する植物で、
世界に約120~200種の原種があると言われています。
          
バラの栽培は、古代オリエントで始まったといわれており、
薬用・香料として、ギリシャ、ローマ時代には盛んに栽培されるようになりました。

ヨーロッパやオリエント原産のバラは一季咲き(春のみ開花)で、
長い間、バラは春しか咲かないものでした。
          
その一季咲きまバラに、四季咲きの性質を中国産の「コウシンバラ」や「ロザ・ギガンティア」の系統が掛け合わされ、
四季咲性の現代のバラの第1号は、’ラ・フランス’といい、このバラを作出された1867年をもって、
それ以前に作出された系統のバラをオールドローズ、
それ以降に作出された系統のバラを現代バラ(モダンローズ)といいます。
          
現代において栽培されているバラは、
主にこの現代バラと呼ばれる栽培品種群で、多くの品種がありますが、
この栽培品種群は、わずか8種の野生種から作り出されたものです。

その8種とは、ロサ・ガリカ、ロサ・ダマスケナ、コウシンバラ、ノイバラ、
テリハイノバラ、ロサ・ギガンティア、ロサ・モスカータ、ロサ・フォエティダです。
                              
神代植物公園には「野生種・オールドローズ園」というバラ園があります。
このばら園には、中国や日本の代表的な野生種、オールドローズのうち、
現代バラに作出に当たり大きな役割を果たした野生種やオールドローズ、
現代のバラの第1号の、’ラ・フランス’などのバラが産地や系統別に植栽され、
現代バラの作出の歴史をたどことができます。・・》
                    
このような解説を私は読んだりしているが、実際のバラの花と一致しない、
園児以下の男でもある。
                              

神代植物公園では、秋バラの開花時期に合わせて「秋のバラフェスタ」を過ぎし10月12日(土)~11月4日(月・祝)開催され、
世界バラ会連合優秀庭園賞を受賞したばら園で、恒例となったモーニングツアーやコンサートなどをしています、
と10月中旬にテレビのニュースで報じていた。

そして何かの本で、このバラ園は、2009年度世界バラ会議で「世界バラ会連合優秀庭園賞」を受賞した整形式沈床庭園であり、
敷地面積1.6ヘクタールと都内最大規模で、
1961(昭和36)年の開園時から栽培されている老大株や原種バラを含め409品種約5,200株のバラが栽培されている、
と私は学んだりしていた。
          
今回、私が『バラ園』で麗(うるわ)しき数々のバラを鑑賞したが、
花の終わりかしらと心配したが、大半は美麗に咲いていて、
淡き陽射しの中で、つたない感性を頼りに撮ったりした。
          
そしてシャンソンの世界では、『百万本のバラ』という名曲があるが、
恥ずかしながらシニアの数多くの女性に捧(ささ)げたいなぁ、と余計なことを思ったりして撮った。
          

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四君子(しくんし)という銘言、神代植物公園で恥ずかしながら初めて学び・・。

2013-11-06 14:27:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、都立・神代植物公園の落葉樹の色あいは、どのように染められ始めているか、
と思い、明日の6日の午前中に訪ねてみよう、と固く決意したりした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
平年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めらた錦繍(きんしゅう)の情景となる。

やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

この神代植物公園は祝日の翌日は、お休みであったので、
清々しい休み明けの6日の午前中の開園時に行こうと思ったのである。

本日、自宅の近くの野川の遊歩道を45分ばかり歩けば、神代植物公園に到着するが、
何かと愚図の私は、開園時に待ちあわない状況となり、
やむなく途中から路線バスに乗車し、正門前に着いた。
          

そして開園時の9時半の5分前であったので安堵し、
そして入園すると、『神代花だより』(NO.219、平成25年11月)を頂いたりした。
このA4サイズたった一枚の解説書であるが、《今月の花 見ごろ予想》が記載され、
花にも知識のない私は、大いに教示されてきた。

そしてキク(菊花大会)が正門近くの特設展示場で開催中と学んだりした。
          

この後、近くにあるベンチに座りながら、
今回はどのコーナーから見て廻ろう、と思案しながら、この『神代花だより』の解説書を見たりした。
そして解説書の中に読んだりしていると、四君子(しくんし)という銘言、
恥ずかしながら知らなかったょ、赤面したりした・・。

《菊は、古くから栽培されている園芸植物です。
中国では、不老不死の薬とされ、重陽の節句(旧暦の9月9日)には、菊酒を飲む習慣がありました。

菊はその芳香と美しさ、高潔な気品を持つことから、
竹、梅、蘭(現在のランではなくフジバカマだといわれています)とともに『四君子(しくんし)』と呼ばれて、
貴ばれ、好んで絵画の題材に用いられてきました。

我が国には、平安時代の初期に伝わり、江戸時代に品種改良が進み、
様々な菊が作られるようになりました。・・》
   
        ☆この写真は、花の直経が8センチ以下の小菊を茎を曲げて、
         たくさんの花が崖から垂れ下がるような形に仕立てたのを
         懸崖(けんがい)作り、と解説されていた☆

私は齢ばかり重ね、生まれて初めて、四君子(しくんし)という銘言、
学んだ後、キク(菊花大会)が正門近くの特設展示場を鑑賞したりした。

そして特設展示場の中には、菊を盆栽にしたのを、初めて拝見したりした。
          


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日本再生論、つたない高齢者の私が、ここ数年で最も感銘を受けた寄稿文は・・。

2013-11-05 11:24:38 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
先程、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
たまたま【 一人貧乏くじ引かされた日本 経済音痴・民主党政権の罪 】
と刺激的な見出しを見た。

私は政治、経済にも疎(うと)い身ながら、何とか日本の経済の復興を無力ながら望むひとりである。
そして産経新聞より、本日の11月5日(火)6時0分に配信された記事と知り、この記事を読みはじめた・・。
無断ながら、転載させて頂く。
                    
《・・
中国の製造業が世界へ向けて「デフレを輸出した」と言われて久しいですが、
ノーベル経済学賞受賞学者のポール・クルーグマンは
「アメリカも日本も、4%のインフレターゲットを10年間でも15年間でも続けるべきだ」とデフレ脱却論を展開しました。
最初に追随したのが、アメリカのバーナンキFRB総裁で通貨供給量を3倍にするなど5年間にわたる大型金融緩和を続行し、
ここへ来て米景気がやっと上向いてきたことからも、その成果が目に見えてきました。

米に追随したEU・中国・韓国なども、それぞれ2~3倍の紙幣を刷りまくって景気刺激策を取り続けた結果、
一人貧乏くじを引かされたのが日本で、超円高とデフレに苦しめられてきたのでした。
その間の日本は、経済音痴の民主党政権と頑迷なアンチ・インフレ論者の白川日銀体制が、
僅か30~40%増に過ぎない微々たる金融緩和策を小出しし続けただけで、
3割もの円高がモノ造りにもダメージを与えることとなり、デフレ不況を脱却できずにきたわけです。

安倍政権に代わってデフレファイターの黒田総裁と岩田副総裁が日銀首脳に就任して以降、
誤った金融政策を打破する大胆な施策が打ち出され、やっと日本経済に火が灯された、といったところでしょう。
          
さて、これからアベノミクスの第二段と第三段の実行が本格化していきます。
願わくは、バラマキ型財政政策と、古い輸出産業振興型成長戦略だけは避けて欲しいものです。
人口減少型成熟社会に向かう日本の未来を鑑みるに、国の競争力ランキングやGDPの多寡を問うのではなく、
デフレ不況を乗り越えた後、日本人が生き甲斐を持てる社会を目標にすべきではないかと考えます。

今の日本には、高度経済成長期に蓄えた富だけでなく、
技術力や人的資本とか文化力など、世界に誇りうる巨大なソフトパワーが備わっております。
アベノミクスでは、これらを活かし、単なる経済力に一喜一憂するのではなく、
日本人に特有の美的感受性に根付いた国柄を守り「清富有徳」国家を目差していただきたいと切望いたします。

日本の復権に必須なのは内需拡大だと信じます。
80年代後半、日米貿易摩擦が極度に深刻化したとき、当時の中曽根内閣の諮問機関として
「経済構造調整研究会」(前川座長)がまとめた画期的な提言「前川レポート」を今思い起こすときではないでしょうか。

ここに書かれたのは、産業・金融政策などのサプライサイドの視点からではなく、
国民生活と言うデマンドサイドの構造的問題点を明記し、その抜本改革を主張して、
真っ先に内需拡大の必要性を掲げ、その実現に住宅政策と消費生活の充実を挙げたことは、素晴らしかったと記憶しております。
          
今注目されている「Quality Of Life」(暮らしの豊かさ)は、
日本では「生活の質」などと誤訳されていますが、
「Quality」とは単なる「Substance」や「Character」ではなく、
良質性、高品質を意味する語ですから、良い生き方、人生の有意義性を問うているとお考えください。
前川レポートは、それを四半世紀も前に提言した極めて先見性のあるレポートでした。

この素晴らしい提言がすべて活かされ、実現されていたなら、全く逆の経済状態になっていたはずでした。
ところが事態は全く負の展開をたどり、デフレ不況に悩んでいるのが現下の日本なのです。

なお、国民生活の抜本的構造改革による内需拡大に至らず、
逆に極めて歪んだかたちに日本経済をおとしめた諸悪の根源は、あの最悪のバブルでした。
プラザ合意に端を発した国内金融の過剰流動性の発生による「円高・株高・債権高」現象で、
歪んだ内需拡大は、ウサギ小屋に住みながら高級ブランド品に現(うつつ)をぬかし、
グルメや海外旅行に散財してしまう結果となります。
実質経済破壊への道程の始まりでした。
バブルが弾けた後の、長期にわたる景気低迷からデフレに至ったわけです。
          
今度こそ、過去の過ちから学び、日本の経済構造を根本から変え、
内需主導型成長経済への転換を図ることが必要となります。

そのモデルのいくつかがアメリカにあります。
アメリカ人は就職、結婚、離婚、再婚、転職や転勤、あるいは所得や家族構成の増減などに呼応して、
生涯に3回から多い人では10回以上も家を買い替えます。
そのたびに、自動車や家具、家電、衣装類などを買い替えますので、
こうした旺盛な個人消費が、アメリカの内需拡大基調を支えているのです。
現状より大きな住宅を購入し、手を加えることで価値を上げて転売し、さらに良い家へ住み替える、
あるいは郊外型中級住宅から都心型高級住居へ住み替える、といった具合にライフサイクルに合わせた売買を繰り返します。

そのことで、近所付き合いや社交の発展や趣味の高揚などが、
宅地開発や住宅メーカーの商品供給を刺激し、各種消費財の高級化や低価格化をリードし、
サービス産業を含めた衣食住総合型の内需経済成長に寄与してゆきます。
これこそ、国民各自にとっては「暮らしの豊かさ」の追求に当たるのです。

日本が経済成長で生み出した分厚い中産階級が蓄えた個人金融資産が1500兆円も眠ったままですから、
これを自国内で回転させることが、経済成長の鍵となるでしょう。
          
内需拡大で見逃せないのが地方活性化です。
中央集権が進みすぎた結果もあって、大半の大企業本社が東京に一極集中している弊害から一刻も早く逃れるべきでしょう。
地方主権と言っても、単に廃県置州といった単純な行政権限の移行だけではなく、
大企業が地方にもっと目を向けるべきではないかと思います。
トヨタやホンダ・ヤマハが東海を活性化し、コマツが石川県回帰を図っていることなどがよきモデルになります。

コマツの坂根相談役の言によると、石川工場の従業員は、
同じ賃金体系でも大阪工場や北関東工場よりはるかに良い生活ができているそうで、
たとえば社内既婚女性の子供の平均数を調べたところ、
東京本社0.7、大阪や北関東が1.3~1.5なのに比べて、石川は1.9にもなり、
管理職の女性に限ると2.6にも跳ね上がったようです。

これこそ、少子化と労働力不足問題の一挙解決策になりそうです。
日本の大企業が溜め込んだ60兆円もの手元資金を、
自社や地方のベンチャー起業に活かしていただくのも、地方活性化に貢献してくれそうです。

唯一の心配点は電力コストの高騰です。
地震国トルコは「巨大地震に耐えた日本の原発技術力と経験を信じて購入したい」と、
津波被害の福島第一と耐震性を証明した福島第二や女川原発を正しく評価してくれましたが、
国内の評価はそうではありません。
原子力規制委員会の不作為、日本のマスコミの自虐的偏向報道、小泉元首相の“寝言”のごとき脱原発主張…。
こうしたことが、今後の産業成長の鍵となる原発再稼動を遅らせることのなきよう祈るばかりです。
(上田和男)
・・》
注)記事の原文にあえて改行した。
          
私はこの記事を読みはじめて、やがてこの記事こそが、まぎれない日本再生論だ、
と感じ深めて、読み進めたのである・・。
特に日本は1998年以降、政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化する中、
私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年に定年退職となった。

そして政治、経済にも疎(うと)いので、新聞を読んだり、テレビのニュース、ドキュメンタリー番組を視聴したり、
或いは月刊総合雑誌の『文藝春秋』、ときおり『中央公論』、『新潮45』などを読んだりし、
何とか日本経済の復興をして、日本の再生を願ってきたひとりである・・。

こうした中で、私が知る限りこの記事は日本再生論として、ここ数年で最も優れた記事である、
と読み終わった後、感銘した。
そして日本の多くの方に、この記事を知って共有致したく、あえてこの記事を転載させて頂いた。

そしてこの記事を綴られた方は、(上田和男)と記載されていたので、
恥ずかしながら私は無知であったので、ネットで調べたりした。

《・・上田和男(こうだ・かずお) 1939〈昭和14)年、兵庫県淡路島生まれ。
1962〈昭和37)年、慶応大経済学部卒業後、住友金属工業(鋼管部門)に入社。
米シラキュース経営大学院(MBA)に留学後、1970〈昭和45)年に大手電子部品メーカー、TDKに転職。
米国支社総支配人としてカセット世界一達成に貢献し、1982〈昭和57)年、同社の米ウォールストリート上場を支援した。
その後、ジョンソン常務などを経て、1996〈平成8)年カナダへ亘り、住宅製造販売会社の社長を勤め、
2013〈平成25)年7月に引退、帰国。現在、コンサルティング会社、EKKの特別顧問。・・》

こうした分野で歴任された氏の今回の寄稿文は、私は遅ればせながら氏を信愛でき、多々教示されている。

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65歳定年制のある大企業の実態、遅ればせながら私は学び、溜息を重ね・・。 

2013-11-04 13:25:21 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
先程、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 65歳定年制 5年多く働いても生涯賃金900万円しか増えぬ例も 】
と見出しされたニュースを見た。

私は、昨今の社会状況の中で、多くの企業は65歳定年制を採用されていることは少し新聞などで知っていたが、
具体的な年収も無知であったので、どういうことなのょ、と思ったりした後、クリックしてしまった。

そして『週刊ポスト』の2013年2月15・22日号に掲載された記事と知り、
無断ながら、転載させて頂く。

《・・
4月から施行される65歳定年制(雇用延長義務づけ)導入で企業の賃金体系見直しが進んでいる。
三菱電機などが採用しているのが「定年年齢選択型給料」だ。

社員は55歳の春、会社からサラリーマン人生の大きな決断を求められる。
〈給料は現状維持のまま60歳で退職するか、それとも給料ダウンで65歳まで働くか〉──というものだ。

前者の60歳定年を選択すれば、本社勤務のままで給料はカットされないが、雇用延長(再雇用)はない。

後者を選べば、56歳で早期退職して子会社に再雇用され、給料(本給)が2割カット、
60歳以降はさらに5割に減らされる。

年収600万円の55歳サラリーマンの場合、前者を選ぶと、56歳から60歳までの5年間の総額で3000万円になる。

一方、後者を選択すると、65歳までの10年間の総額は3900万円だ。

5年間多く働いても生涯賃金の差はわずか900万円にすぎない。

「60歳で退職する人も、65歳まで雇用延長する人も生涯賃金は基本的に変わらないという考えです」
と三菱電機広報部は説明している。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、何とか中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

そして配属された音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、
まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身である。

こうした中で1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。

こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
私は1970(昭和45)年の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。

そして激動の1998(平成10)年の前後、先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
やがて私は1999(平成11)年の新春、出向となった。
          
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

                    
出向先は物流会社の中のひとつの物流センターであり、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そして販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であるが、
私は最期には出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
結果的には幸運の星と思ったりしている。
          

今回の記事を私は読み終わった後、溜息を幾たびも重ねた・・。

ここ1998(平成10)年から昨年の2012〈平成24〉年まで、デフレ経済の烈風の中、
大企業の社員さえも、年収は横ばいと知り、私は驚き、溜息をしてきたひとりである。

私が長らく勤めた中小業の時は、昭和の終わる1989(昭和64)年頃までは、
年齢給、成果給、そして家族・住宅などの諸手当があり、その後は成果給が大半以上に拡大してきた。
そしてボーナスと称される成果に応じた賞与があった。

こうした中で、たまたま私は40代には年収は900万、やがて1000万を超えて、
2004〈平成16〉年の秋にサラリーマンを卒業した。

この当時の民間会社の年退職時は、殆どの企業は60歳が多く、わずか一部の人は栄進されたりしたが、
大半の人たちは、第二の人生で、年金が満額(報酬比例部分と定額部分)になる時期まで自ら求職し働いたしていた。
或いは一部の人だけが、勤めいた関連先の会社に年収が低下しながらも、勤められたりしていた。
そして私のように退職時と共に年金生活に入った方もいる。
          

しかしながら、政府の指導の下で、本年の4月から施行される65歳定年制(雇用延長義務づけ)導入で、
民間会社は大きく余儀なくされ
私は遅ればせながら大企業の三菱電機の実態を学んだ・・。

勤められている方には、ご家族のそれぞれの事情により決断せざるを得ないが、
《・・65歳まで雇用延長する人・・60歳で退職する人よりも5年間多く働いても
生涯賃金の差はわずか900万円にすぎない・・》
と記載されているが、私は異論する。

大企業も厚生年金、健康保険などは、会社と個人が折半であるので、
60歳で退職する人は、この後の健康保険は自己負担となり、
やがて厚生年金の受給時からは勤続年数より差異があるので、《生涯賃金の差は900万円》これ以上にある。

問題があるとすれば、《・・56歳で早期退職して子会社に再雇用され、給料(本給)が2割カット、
60歳以降はさらに5割に減らされる・・》
こうした大企業の三菱電機の社員の一部の人が思案した時、
職責、職場の変貌の対処、そしてプライドに耐えられるか、だけである。

私はたまたま時代こそ違え、年収も下がらず出向時代を5年ばかり体験してきたので、
少しは心情が理解できるのである。

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文化の日、限りなく美しい日本の風土に愛惜を重ね、私は自宅の周辺を散策し・・。

2013-11-03 16:13:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、居間にあるカレンダーを見て、『文化の日』と朱記されているのに微笑んだりした・・。

もとより『文化の日』は、戦前に於いては『明治節』と呼ばれ、
明治天皇の誕生日を寿(ことほ)ぎ、偲(しの)ぶ日とあったが、
敗戦後の1946(昭和21)年に、平和主義・国民主権・基本的人権を宣言した新憲法に基づき、
1948〈昭和23)年7月20日に『祝日法』が公布され、
自由と平和を愛し、文化をすすめる日として、『文化の日』となった。

私は限りなく美しい日本の四季折々の情景に信愛を重ねているひとりであり、
人々の営みの集積が文明であり、その一端に文化がある、と思い深めている。
そして山川草木の美しい日本の風土を秋の或る日、その人となりに思いめぐらせ感謝すれば良い、
と信愛じている。
          
      ☆本日、明照院を訪ねた時、観音堂の一角に掲げられていたので、自身の戒(いまし)めとして撮った☆

東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

たまたま本日の午前中、淡き陽射しが射す中、
霞嶺(かすみね)神社、明照院を訪ねてみょう、と思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。

私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。

  
霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
                           
小高い丘が聳えるようになり、
                           
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。

霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
私は教えられてきた。
                                  
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
          
周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。

先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、 
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。

お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となり、

そして旧家毎の門で停車し、青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。

今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。

やがて私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
                   
                 
明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
                          
そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
          

私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。

或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。

そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。

このように何かとお世話になった明照院に別れを告げて、石段を下りた。
                
               
この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
                 
この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
やすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。


この後、自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は下流沿いとした。
          
この野川は川べりに小道があり、そして少し高い処の両岸には遊歩道があり、
          
私は少なくとも週に一度は、こよなく愛している遊歩道のひとつである。
          
               
                       
そして今回、10数年前に小公園のあるマンションが、10数棟あるゆったりとした敷地のはずれを歩いたりした。
                                       
この後、このマンション群の中央の道の歩道を歩き、私は一枚を撮ったりした。
          
このマンションの情景が私は魅せられて、早や7年が過ぎている。
          
私は調布市の片隅で、雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

しかしながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内に先立だれて、独りぼっちとなった時は、
やむなく自宅を処分して、小公園のあるマンションで独り住まいを思案している。

こうした状況の場合は、このマンション群の中で、こじんまりとした2LDKを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている所のひとつとなっている。
          

この後、私は再び遊歩道を歩き、対岸への橋を歩いたりした。
                     
しばらく野川の遊歩道を歩いていると、
隣接した処に世田谷区立の『きたみふれあい広場』と称された小公園があり、
私鉄の小田急の車両基地などの階上にある小公園で、
小田急のご厚意で、世田谷区が管理されている区立の公園となっている。
                     
そして私は、2週間ぶりかしら、と思いながら入園し、階段の途中で歩いてきた遊歩道を眺めたりした。
この野川の遊歩道の周辺は、緑豊かな恵まれた地帯であるが、
この周辺も家並みが密集している住宅街であるので、私はやすらぎを実感できる数少ない所となっている。
                     
園内を歩けば、淡き陽射しの中を歩いたり、或いは緑陰の所を歩き廻ったりした。
                               
私はこうした雑木の樹木に魅せられているが、
過ぎし日に家内と共に歩いていた時、あなたは農家の児だったから、
と私は言われ、確かに幼年期に農家の児として育てられたから、こうした情景にやすらぎを覚える、
と家内に応(こた)えたりした。
          
その後、園内を歩き、少し色づいた葉に見惚れたりし、いよいよ錦繍(きんしゅう)の到来かしら、
と私は微笑んだりした。
                    
私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。

やがて葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

こうした中なので、この時節は私は読書も中断して、付近を歩き廻ることが多いので、
錦繍(きんしゅう)の季節だよなぁ、と心の中で呟いたりした。
                     
やがて園内の広場の中で、数多くの若きご夫婦が幼児、小学生の低学年と共に、やすらぎを得ている光景に、
私は人生の微笑みを頂だいたりした。
          

やがて園内を辞して、遊歩道を歩いたりした。
          

この後、私は遊歩道を下り立ち、川辺の小道に下り立ち、水面を長らく見たりした・・。
          

こうして水面を見つめたりすると、世の中の良いこと、悪いこと、
そして過ぎ去った私の人生のささやかな良きこと、悪しきことは、
水の流れと同じように流れ去り、忘却の彼方に消え去って行く、と脳裏から舞い降りてきた。

やがて私は帰路に向かいながら、漠然と思ったりしたことを思い浮かべ、苦笑したりした。

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日経トレンディの今年の「ヒット商品ベスト10」を学び、私は無知なことが多く、ため息を重ね・・。

2013-11-02 10:12:39 | 定年後の思い
私は昨夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】の【雑誌】コーナーに於いて、
ひとつの見出し記事を見て、どのような商品か今年ヒットしたの、とクリックした。

《 「2013年ヒット商品ベスト30」が発表! 1位は「コンビニコーヒー」 》

と見出しされた記事であり、私は齢ばかり重ねた69歳の年金生活している身であるが、
好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、という生活信条としているのて、
この記事に掲載されている『ベスト10』を、こっそりと見たりしてしまった・・。

《・・
1位 コンビニコーヒー

2位 パズル&ドラゴンズ

3位 アベノミクス消費

4位 半沢直樹

5位 伊勢・出雲

6位 Nexus 7 & iPad mini

7位 あまちゃん

8位 レイコップ

9位 ノンフライヤー

10位 グランフロント大阪
・・》

この後、私は恥ずかしながら無知なことが多く、うなだれたりして、
やがて添付されている【詳細画像または表】を見たりした・・。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131031-01053200-trendy-bus_all
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
          <==『日経トレンディ』<==『「2013年ヒット商品ベスト30」が発表! 1位は「コンビニコーヒー」』☆

          
包み隠さずに発露すれば、『パズル&ドラゴンズ』、『Nexus 7 & iPad mini』、『レイコップ』、
『ノンフライヤー』、『グランフロント大阪』はまったく無知であった。

『コンビニコーヒー』に関しては、新聞などのニュースで知ったけれど、
私は駅前に買い物に行った時は、駅前の近くにあるコーヒー・チェーン店の『ドトール』て゜飲むか、
散策の時に『コンビニ』で煎茶のペットボトルを買い求めるので、対象外である。

そして『アベノミクス消費』に関しては、私も生活者のひとりなので、少しばかり実践している。

『半沢直樹』は、何か視聴率の良い民間テレビのドラマ、と新聞などで読んだりしたが、
サラリーマンを卒業した私は興味がなく、視聴したことがなかった。

『伊勢・出雲』は、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつで、幾たびか訪れている。
幼年期は農家の児として育ち、神棚もあったし、結婚式は神前であった。
そして私でも、近くの神社も四季折々に通ったりしている。
もとより『伊勢・出雲』は、日本古来からのまぎれない神のやどる地であり、
私は退去するたびに、心が清められる。

『あまちゃん』は、NHKの朝の連続ドラマであり、ときおり家内が視聴していた。
私は連続ドラマは苦手であり、家内と共に数回視聴したが、おばあちゃん役に扮した宮本信子さんに、
相変わらず好演している、この程度しか残っていない。
          

私の現役時代は、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
制作畑でなく裏方の管理畑、情報畑などで私なりに奮闘していたので、
もとより音楽業界、コンピューター業界は、多少は知っていた。

そして、週刊誌の音楽専門誌の『オリコン』、ビジネス全般として『日経ビジネス』、
月刊誌の『日経トレンディ』、そしてテレビ・CM・音楽・映画界などの『日経エンタテイメント』を購入し、精読していた。
当然の責務として、音楽の業界紙も読んでいた・・。

こうした中で、『日経トレンディ』の誌上に於いて、
毎年「ヒット商品ベスト30」を発表されているのを長らく見たりし、
多々教示されたりしてきたが、殆どのヒット商品は理解していた。

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、年金生活をしている身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして東京郊外の調布市の片隅で、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

このように定年後から早や9年が過ぎているが、
現役のサラリーマン時代に愛読していた情報誌『日経トレンディ』は、
年に数回買い求めるくらいとなっている。

今回、『日経トレンディ』の「ヒット商品ベスト10」を学び、無念ながら殆ど無知であるので、
本日の日中に最寄りのコンビニに立ち寄り、
日経トレンディ12月号(11月2日発売)を購入しょうと決意したのである。

12月号に於いては、特集内容の本年の【2013 ヒット商品ベスト30】、
そして来年の【2014 ヒット予測ランキング】掲載されているので、精読しょうと固く決意した。

こうした心情の根底には、世の中の流行も知らず、せめてヒット商品を誌上で学び、教示され、
何事も好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、
という生活信条としている私は言動のひとつあるからである。

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11月は『錦繍月(きんしゅうづき)』だ、と東京郊外に住む私は、信愛を深めて・・。

2013-11-01 13:00:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、居間にあるカレンダーを見つめながら、
10月の『神無月(かんなづき)』に別れを告げて、カレンダーを破いたのである。
そして、11月の『霜月(しもつき)』に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶや)きながらも、
この11月は東京郊外に住む私にとっては『錦繍月(きんしゅうづき)』だ、と心の中で深めたりした。

私の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む地域は、 平年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。

       
               掲載した以下の写真は、昨年の11月の散策時に、時のかたみの記念写真として撮った。

      
やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。


過ぎし日の9月下旬の頃から、北海道の山岳では紅葉・黄葉に染められた便り、
その後は東北の山里も紅色・朱紅色、そして黄色に染められた情景となっている。

私は過ぎし年に旅路で実感させられたりしたので、やがて東京の郊外でも錦繍の季節だ、
と待ち焦がれてきた・・。

ここ一週間は秋麗(あきうらら)のさわやかな過ごしやすい日もあり、
11月は秋日和の多い恵まれた中、薔薇(バラ)の美麗が見られたり、菊も香り、
こうした中で、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
日ごとに色合いを濃くしていく・・。

我が家の小庭にある無花果(イチジク)、紫木蓮(シモクレン)の数多い葉が、
黄色く染めはじめの見つめたり、
一昨日に買物から帰宅した時、玄関庭にある紫式部(ムラサキシクブ)のたわわな実が、
紫色を深く染め、昼下がりの陽射しを受けていた。

このような情景を思い重ねたりしていると、
この11月は『霜月』とか『雪見月』と古来より称せられているが、
私としては、秘かに『錦繍月(きんしゅうづき)』と命名している。
          

          

          
私は毎年この時節の錦繍の情景の移ろいに、日々に心寄せられている。


先ほど、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は10度で、日中は晴れ間となり20度前後、夕暮れ後の6時には16度前後が予測され、
これからの一週間は晴れマークとなり、秋日和となる。

私は、このような移ろう錦繍の情景に、ときめきを感じながら見惚(みと)れ、
日頃の運動不足を兼ねて、独りで付近の遊歩道、公園などに出掛けることが圧倒的に多くなり、
歩き廻っているのは、定年退職後の習性となっている。
          
私は早春の芽吹き、この時節の錦繍の情景、その後の落葉の情景に、
つたない私の無上の喜びとなり、
心の中は小躍(こおど)りするような時節となっている。

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