☆人生は幸福になるようにデザインされているわけではない

まずはきわめてシンプルな事実から語りはじめたいと思います。
それは、「あなたがいまここに存在することがひとつの奇跡」、ということです。

とはいえこれは、哲学や宗教、あやしげなスピリチュアルの話ではありません。

父親と母親が出会い、2人の遺伝子からたまたまひとつの組み合わせが選ばれてこの世に生を受け、
さまざまな出来事を体験し、多くの出会いや別れがあり、現在に至るまでには、膨大な数の偶然の積み重なりがあります。
この偶然を「奇跡」と呼ぶならば、これは誰でも知っている当たり前のことをいっているだけです。

そうした偶然のなかでもとくに強調したいのは、
「いまの時代の日本に生まれたということが最大の幸運である」、ということです。

ここで、すぐにあちこちから、批判の声が聞こえてきそうです。

日本経済は、四半世紀に及ぶデフレに苦しみ、非正規雇用やワーキングプア、ニートや引きこもりが激増して、
若者はブラック企業で、過労自殺するまで働かされ、
老後破産に脅える高齢者には、孤独死が待っているだけだ、というのです。

私はこうした日本の現状を、否定するわけではありません。

しかしその一方で、この島国から一歩外に出てみれば、
「下を見ればきりがないが、上を見ると、すぐそこに天井がある」という現実にたちまち気づきます。

        

国連は毎年、1人あたりGDPや健康寿命、男女平等、政治・行政の透明性、
人生における選択の自由度などを数値化して「世界幸福度ランキング」を発表していて、
その上位は、北欧など「北のヨーロッパ」の国々が独占しています
(それにつづくのがカナダ、オーストラリアなどアングロサクソンの移民国家です)。

最近では「ネオリベ型福祉国家」と呼ばれるようになったスウェーデンやデンマークのリベラルな政治・社会制度は
さまざまな面で日本よりすぐれており、雇用制度や教育制度など見習うことは多々ありますが、
それを「幸福な理想社会」と呼べるかは、別の話です。
        

☆デンマークは本当に「幸福な国」か?

デンマークでは、非白人移民の国外追放を求める国民党が、閣外協力ながら政権の一角を占め、
オランダの総選挙では、「ヨーロッパのイスラーム化阻止」を主張するヘールト・ウィルデルスの自由党が大きく票を伸ばしました。
世界でもっともリベラルな国々は、「反移民」、「反EU」の右派ポピュリズムが跋扈する社会でもあるのです。

これは、「北のヨーロッパ」にあまり住む気になれない私の個人的な感想というわけではありません。
東南アジアのビーチリゾートには、北欧の「幸福な国」から、移り住んできたひとたちが、たくさんいます。

長く寒い冬を避けるのが、いちばんの理由でしょうが、
彼らと話をすると、「あんな社会で暮らすのは、まっぴらだ」
という愚痴がいくらでも、口をついて出てきます。

ここでは詳しく述べませんが、北欧は個人主義が極限まで徹底された、きわめて特殊な社会なのです。

日本がこれから必死の努力で「改革」を行なっても・・・もちろんこれは必要なことですが・・・
そのゴールは、自由で平等で暮らしやすいかもしれないけれど、
移民問題で国論が二分し、ものごころついてから、死ぬまで「自己責任」、「自己決定」で、
生きていくことを強いられる社会です。

これが、「上を見ると、すぐそこに天井がある」という意味です。

しかしだからといって、絶望する必要はありません。

「知識人」を自称するひとたちは、「資本主義が終焉して、経済的大混乱がやってくる」とか、
「社会が右傾化して、また戦争に巻き込まれる」
とかの不吉な予言をばら撒いています。

        

しかし過去100年間を時系列で眺めれば、私たちが暮らす社会がずっと安全になり、
ひとびとがゆたかになったことは、あらゆる指標から明らかです。
・・・そしてこれは、時間軸を300年、500年、1000年、あるいは1万年に延ばしても同じです。

かつての日本社会は、ごく一部の特権層しか、ゆたかさを手にすることができませんでした。
しかし現在では、より多くのひとが「幸福の条件」にアクセスできます。

江戸時代であれば、あるいは明治や昭和初期であっても、「平民」が幸福について語るなど考えられなかったでしょう。

「江戸時代と、いまを比べても意味がない。
問題は(デフレや右傾化で)いまの日本社会がどんどん生きづらくなっていることだ」
との反論もあるでしょう。

しかし「日本が世界の頂点に立った」とされる1980年代は(私は20代で体験しましたが)、
有名大学を卒業し、官僚になるか、一流企業に就職する以外に、社会的成功への道のない時代でした。

1980年代末のバブル経済で、この構造にひびが入り、
それまで社会の底辺にいた(ヤクザと同類の)ひとたちが、きらびやかな衣装をまとって登場しますが、
バブル崩壊と暴対法(暴力団対策法)の施行で、その抜け穴はたちまち塞がれてしまいました。

しかしその後、グローバル化の荒波によって、日本社会の構造は根本から揺さぶられ、
それまでつぶれるはずがないとされていた大手金融機関が、次々と破綻する経済的混乱を経て、
一介の若者が徒手空拳で、大きな富を合法的につかめる時代がやってきました。

冷静に歴史を振り返れば、「経済的成功への機会」という意味で、
現在の日本が、過去のどの時代よりも恵まれていることは間違いありません。

すなわち私たちは、いまの時代の日本に生きているというだけで、とてつもない幸運に恵まれているのです。

だとしたら考えるべきは、この「奇跡」と「幸運」を活かし、どのように「幸福な人生」をつくりあげていくかでしょう。

これまで私は、何度かこう述べました。
ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。

私の新著『幸福の「資本」論』では、「金融資産」「人的資本」「社会資本」という3つの資本=資産から、
「幸福に生きるための土台(インフラストラクチャー)」の設計を提案しています。

この考え方はきわめてシンプルですが、だからこそとても強力です。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
        

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、
つたないサラリーマン航路を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、
早や12年半が過ぎている。


思い馳せれば敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、
誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。


私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代は、先輩に叱咤激励されて、奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

その上、経済は都心の一部は活性化しているが、地方は未(いま)だに低迷している現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。

そして国民も誰でも、容体が酷くなれば、
無料で救急車に乗車できて、病院に搬送して下さる稀な国家となっている。

                     

私たちが過ごしてきた昭和の時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族全員で、明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中で、私たち年代を含め多くの先輩、後輩の男性は、
一家の主(あるじ)、或いは夫として、もとより家計の責務で奮闘して働いていた。

そして妻の多くは後方支援となり、育児、料理、掃除、洗濯、交際など専業主婦として奮戦し、
昭和妻の責務を果たしてきた。
            
やがてバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
まもなくソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
そして殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。

        

やがて私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

周知の通り、失われた15年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化した後、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となっている。

そして大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

このように私は漠然としながら、敗戦後から昨今まで感じ受け止めてきた・・。

        


過ぎし7月28日、『プレジデントオンライン』に於いて
ジャーナリスト・鷲尾 香一さんの『完全に”詰んだ”「貧困高齢者」が爆増する 』を読み、
私は動顛させられたひとりである。

そして私が思ってきた以上に、1950年代、1960年代生まれが、本格的に年金生活に突入すると、
2030年には「貧困高齢者世帯」は500万世帯を超えると予測され、
それぞれ生まれた世代により、年代格差の実態があると、教示させられた。

何よりも《現在の40代後半~50代前半は、就職氷河期だった団塊ジュニア世代(1970年代前半生まれ)は、
また、正規雇用であっても、年俸制でボーナスがなく、
退職金制度もない欧米型の雇用契約をとる企業が増えている。

そうした企業の社員は、定年を迎えても退職金がないため、退職と同時に貯蓄を取り崩す生活に突入する。

十分な貯蓄があれば、「豊かな老後」を迎えられるが、
貯蓄がなければ、「悲惨な老後」が待っているだけだ。

こうした、
給与は上がらず貯蓄もできず、退職金もない世代・・》には動顛させられて、

やがて高齢者になると、《・・「貧困高齢者」が爆増・・》する時代が到来する、
と教えられたりした。


私は無力で裕福でないが、私より先代の諸兄諸姉、後続する私たちの世代、そして団塊の世代は、
幸福な時代を過ごせてきた、と改めて感じ深めたりしている。

今回の作家の橘 玲(たちばな・あきら)さんが、新刊『幸福の「資本」論』で提示されている中、
北欧の「幸福な国」の実情の論説には賛意できるが、果たして日本の難題は・・何かとプラス思考の私でも、
果たして・・と思いめぐらしている。

 

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