百済寺一山の本坊は喜見院。別称『天下遠望の名園』
近江の歴史舞台を一望し、百済国を偲ぶ「一大パノラマ庭園」です。
もとは千手坊と称していましたが、寛永11年、山門三千院執行探題大僧正天海の
高弟、亮算が千手坊仙重の後任として入寺し、喜見院と改めました。
その後、元文元年、喜見院は自火により焼し、元文2年、仁王門の側に移転改築。
現在の建物は昭和15年、仁王門側から再度移転改築されたもので、これに伴い
庭園も拡大移築したものになります。
-百済寺のしおりより抜粋・引用-
添乗員さんから庭園頂部の遠望台をご覧になってくださいとアドバイスを受ける。
彼はけっこう、ポイントポイントで登場し、お役立ち情報を私達に伝達してくれるのだ。
戦国歴史ロマンの大舞台。
ここには悲しい歴史が書かれていました。
織田信長による百済寺焼き討ちが断行され半月間ほど燃え続けたとのこと。
宣教師ルイス・フロイス書簡のにも「Facusang(百済寺)と称する大学には、多数の相互
に独立した僧院や座敷と庭園・築山を備えた僧坊が立ち並びまさに地上の楽国が・・・・・」
と惜しまれる様子が記録。
そのような状況下、安土城築城のため三百坊の石垣や石仏を安土まで運び出し
その光景の一端は、寺所属の「石曳の絵馬図」にも示されており、筆舌に尽くせぬ
無惨な光景であったとのこと。
胸が締め付けられるような思いにかられました。
焼き討ちをしただけではなく、その石垣をもって安土城を築城しようとは・・・。
その織田信長も「本能寺」にて最期を遂げたとされております。
天下遠望之図。
湖東平野と琵琶湖をかすめて真西の遠方50㎞先には「比叡山の御山」に連なる
湖西の山並みを眺望でき、さらに西方880㎞先には渡来人の母国「百済国」を偲ぶ
ことができます。
ということですが、この日はお天気が下り坂でして、雨さえ降らないものの曇。残念。
あとはイメージして書院のほうに向かいましょう。
本坊喜見院は池泉回遊式庭園。
庭園は四季折々に変化する美しさで有名。
あっ!書院に腰かけられるみたいよ。座って池を眺めようよ。
山の斜面に映える紅葉も美しいのだ。
池には鯉がたくさんおります。近寄ると口をパクパク。
餌をここに!お口にちょうだい!!してますね。
鯉の餌が販売(無人販売所)されているのですが、あなたたち、そうやって
みんなからもらってるでしょーー。
メタボになっちゃうわよ。ダメ、あげません。
本坊喜見院を出た後、人間用の食べ物を販売しているお食事処を発見。
中では簡単なお食事も取れるようになっています。
もちろん、私たちは時間が限られているので、百済寺の見学だけで精一杯。断念。
百済寺は天正元年(1573年)4月11日に織田信長の焼討で一千坊が消滅。
百済寺三百坊跡図は昭和五十九年度の遺跡郡分布調査によって二七五ヶ所の
坊舎堂 墓地跡等を確認した時の分布図。
歴史を知るほどに切なくなり、しょんぼりしていたのですが・・・
またまた、添乗員さんが走ってやってきてくれました。
「あそこ、写真に撮ってください!」
「どこですか?」
「ここまっすぐですから!!」と指す。
親切な添乗員さんが教えてくれたのは、駐車場からも近い表参道からの眺め。
苔むした石垣と紅葉のコラボレーションは、彼のイチオシだったのです