峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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募金

2007年12月28日 | 民生児童委員
一昨日の新聞の社会面の片隅に小さく「北九州市が7人を処分」さらに小さく「生活保護問題で」という記事があった。
記事によると、北九州市で生活保護を受けられなかった3人が2005年から今年にかけて相次いで孤独死しているのが見つかった問題で、窓口で不適切な対応をしたとして関係者が処分されたというのだ。

12月になると全国各地で「歳末助け合い募金」が行われる。ちなみに佐々町では「歳末助け合い」のような募金等が年間10回ほど町内会を通して行われているが、それに私たちの町内会のほとんどの所帯が毎回応じている。
毎年、年度末にその集計をし回覧で報告しているが、昨年度の総額が237,720円だった。これを世帯数117で割ると1軒当たり年間2,031円の出費となる。これを多いとみるか少ないとみるか議論の分かれるところだろうが、それはさておき、集まった募金を社会福祉協議会に届けるたび、この国の庶民の義理堅さというか、律儀さというか、生真面目さというか、長いものには巻かれよ精神というか、事なかれ主義というか、お上の言う通りとするさもしい思いか、はたまた主体性の無さというか、思考停止というか、いや、私たちはそれらをすべて内包しているのだ。
一方、日常茶飯事の着服・背任・横領・収賄、さらには近年、ようやく明るみに出てくるようになった偽装、いったいこれらはどう前者と結びつくのか、いや、おそらくは表裏一体をなしているのだ等とぼんやり考えている。

さて、集められた浄財は該当者に配られる。その該当者を町内会単位であげるのが地区担当の民生委員の仕事だ。つまり、民生委員は町内会で暮らしておられるみなさんの暮らし向きをよく把握していなければならない。そうでなければ、せっかくの浄財が活かされない。
民生委員から上げられたものは、その調査書に基づき「歳末助け合い募金配分委員会」で審議決定される。私も、それに加わったことがあるが、集められた浄財がすべて配分されていないことに驚き、同時に憤りに近いものを覚えた。該当者が多く、それを絞り込むのが分配委員会だと思っていたが、先ず、上げられてきている件数そのものが少ないのだ。したがって、上がってきたものは基本的にすべて了承される。いわば、民生委員の顔が立つ仕組みになっているといえる。
それでは、余った浄財はどうするかというと、さまざまな品物に化けている。もちろん、それは公共物として役立つはずだが、その使い道は明らかに「歳末助け合い募金」の趣旨とは異なる。私はその席で、集まった浄財はすべてその趣旨に則【のっと】り使われるべきだと主張した。平成14年のことだったが、その後、私はその委員会に呼ばれていない。

分配委員会にあげるための「歳末助け合いお見舞い該当者調査書」というのが事前に民生委員に配られるのだが、そこには書き込むための欄が限定されている。分配委員会に出席してからというもの、私はその調査書を複写し、なるべく多くの所帯の苦しい状況を伝えるように心がけている。
今年、ご高齢者の所帯に加え、初めて2組の若い母子家庭所帯を挙げていた。当初、挙げていたみなさんにお見舞金が出ることとなった。しかし、若い所帯を挙げていたのが私だけだったということを聞いた。若い所帯に対し厳しい意見があったことも聞いた。西町だけ挙がってきている件数が多いという批判もあったと聞いた。
結局、一度お預かりした分配金の中から、一件だけ待ったがかけられた。応じるしかなかった。すべては分配委員会で決められることなのだから。

歳末助け合い募金の金額の目安は250円と明記されている。配分されてしかるべき方々も250円募金される。
そうやって集まった浄財は、一軒でも多くの所帯にすべて配分されなければならない。そうできないのであれば募金の金額の目安を下げるべきだ。

歳末助け合い募金以外、集められた浄財はどのように使われているのだろう。困っている人たち、苦しんでいる人たちが自ら命を絶たなければいけないような社会であってはならないはずだ。
コメント (2)
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