峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

ただ ゆらゆらと

2009年02月02日 | 家族
【人間内部の心の状態と言語の関係を、哲学者のスーザン・ランガーは、大きな海と小さな孤島にたとえた。ランガーによれば、人間の直接体験の世界は、感覚という大海である。それは果てしなく、そして深い。そして、それは個々の人間の内部にあって、第三者には、うかがい知ることのできない世界だ。
その世界の一部を、我々人間は言語にして、外に向かって「表現する」。しかし、そんなふうに「表現」できる部分というのは、感覚の大海に比べれば小さな島のようなものでしかない。我々が言語化できる部分、他人に伝えることのできる部分は、我々が、実際に心の中で感じていることのすべてに比べれば、実にわずかなものだ―ランガーはそういうのである。
  ―中略―
だが、心の中にあるすべてのことが言語化され、表現されうるものだ、という考え方はまちがっている。どうしても言語にならない、感覚の大海が沈黙のまま、我々の内部に横たわっているのである。人間は、その大海の表層の一部を言語化し、それによって辛うじて他の人間との間に、かすかなつながりをつくる。不十分だけれど、人間の言語化能力は、それだけしかないのだから、しかたがない。
だが、この言語というわずかな出口を使って、内側の世界を表出しようという欲求は、きわめて強い。いや、出口が小さいからこそ、その欲求が強い、といったほうがよいのかもしれぬ。言語の能力を獲得した人間は、ちょうど水そうに穴があいたようなもので、その穴から絶え間なく、外に向かって内部世界を放出しはじめる。】

これは、先の冬期講習会で用いた中学3年生の国語のテキストに収められていた加藤秀俊著「自己表現」の一部である。なるほどと思う。
ここしばらく、私は、その果てしなく、そして深い感覚の大海の波間に身を任せ、ただゆらゆらと漂うばかりであった。

昨日、くるみさんに頼まれていたものを届けに、女房どのと2人で大村まで出かけた。この日、久しぶりに青空が広がり、風もなく、大村湾の海面は鏡のように滑らかで太陽の光を映していた。

有紀さんがそうだったが、負けず劣らず、くるみさんも橘香館が大好きだ。先日会った際、自分のこれまでの選択で、橘香館を選んだことは最良であったと力をこめて語っていた。
そんなわけで、くるみさんも、なかなか佐々に帰ってこない。先日は、センター受験を終えた3年生と食べ放題の食事に出かけ、その後、カラオケに行ったという。同級生や先輩との交流を始め、高校生活を満喫しているようで微笑ましい。

正午過ぎに寮に到着し、有紀さんの時代からしばしば利用している鈴田峠の農村レストランで昼食をとりつつ、互いの近況を報告しあった。

その後、お定まりのコースとなっている大村ジャスコを訪れ、くるみさんの衣類や日用品・食料等を購入したが、ついでにバレンタインデーの先取りということで、女房どのから写真の品をプレゼントしてもらった。
キーホルダーと名刺入れブレザーとマフラー
楽しい買い物を済ませ、くるみさんを寮に送り、いつものように寮の玄関前で写真を撮り、帰途に着いたとき、時計の針は早、夕方6時をさしていた。
コメント
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