峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

幸せはどこに

2009年02月18日 | 父親と子
児童文学作家・獣医師の南部和也さんによると、動物の感じるストレスで最も大きいのは、寒さと飢えだそうだ。寒さと飢えは、動物を確実に死に追いやる。

この時期、三寒四温が常で、先週末は暖かだったものの、昨日・今日と冷え込んでいる。
昨夜、女房どのが「朝、起きたくな~い」ともらしていた。彼女が出勤する午前7時頃、まだ布団の中にいる身としては、ただただ気の毒で申し訳なく思う。寒さの厳しいこの季節、女房どのには悪いが、勤め人でなくてよかったとつくづく思う。

だから、そうもいかないことは解っていて、台風や雪の朝など、女房どのに「休んじゃえ!」と本気で言ったりする。そもそも、台風や大雪の日は、役所も会社も休みにしてしまえばいいのだ。生命の危険をかえりみずに行わなければならない仕事って、いったいなんだろうと思う。

我が家のネコのみぃちゃんも私同様に自由業だから、夏は表で長く過ごし、寒い冬は昼近くなってく出かけ夕方早く帰って来る。

ネコがコタツで丸くなるのを見て、本当の恐ろしいストレスがコタツにより克服されていること、コタツの上にせんべいがあることに気付けば、より幸せが身近にあるのが感じられるはず、と南部さんはいう。

一昨日、裏庭にいると「峰野さ~ん、小包で~す」という声がする。玄関に回ると、郵便配達員さんが青い小さな包みを抱え立っていた。
「フルネームでお願いします」と受け取りの署名を求められた。

余談だが、このような場合、彼らは「姓名をお願いします」とか「氏名をお願いします」とか言わない。必ず「フルネームで…」と言う。一般的に「フルネーム」の方が分かりやすいのだろう。

求められた署名に応じた後、その青い包装の品を受け取ると、表書きの名前の欄に「峰野有紀」品名の欄には「チョコレート」とあった。有紀さんが、バレンタインデーにチョコレートを贈ってくれたのだ。

すぐに、メールで「チョコレート、届いたよ。ありがとう」と送ると「どういたしまして」と返信があった。
真に、幸せは身近にある。
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大人のための「少年メリケンサック」

2009年02月17日 | 夫婦
日曜日、何となく気になっている脚本家・クドカンこと宮藤官九郎さんの脚本・監督作品「少年メリケンサック」を女房どのと観に出かけた。
こちらの好みの映画に誘うのだから、その後、昼食を外でとることをセットにした。

休日の朝だ。2人ともゆっくり起き出し、遅い朝食を済ませ、昼食に私がワインをいただくつもりだったので、女房どのの車で佐世保の「シネマボックス太陽」へと向かった。

上映時間のちょうど10分前に最寄りの駐車場に着き、そこから歩いて2,3分の映画館へと急いだ。角を曲がったところで、映画館の前にたくさんの人影が見える。
「エッ、そんなに多いの」と、いささか驚きつつ映画館の前まで来ると、それは映画館の隣のパチンコ店の開店を待つ人たちの群れであることが分かった。

窓口で切符を求め「少年メリケンサック」が上映されている7階までエレベーターで上がると、入り口で案内をしていた男性が「少年メリケンサックですね?」と念を押すように声をかけてきて、それが可笑しかった。
女房どのが「若い人たちばかりなのよ」とささやく。

女房どのは、くるみさんに逐一【ちくいち】メールを送っていた。時々、その内容が伝えられる。くるみさんも、この映画を観たいようだ。くるみさんらしいと思った。
くるみさんも私も、ハートはロックであり、パンクだ。一緒にしたら、くるみさんは怒るかな。

クドカンらしい映画で面白かった。「少年メリケンサック」は大人ための映画でもある。パンクとかロックとは単に音楽・ファッションではなく、心の在り方であり生き方そのものなのだ。

映画館を出ると正午を過ぎていた。昼食はイタリアンの店「ピノキオ」でと、パールシーへ車を走らせたが、「西海パールシーリゾート」の駐車場は満杯で行列までできている。広い公園いっぱいに「カキ祭り」をやっているのだが、客があふれていた。
これでは埒【らち】が明かないとイタリアンをあきらめ、市内にとって返し、いつもの「暖家【だんけ】」でフレンチをいただくこととなった。

その後、三ヶ町・四ヶ町商店街のアーケード通りをぶらぶらし、夕方、帰途に着いた。

パンク・ロックの魂が、私の思いを新たにさせてくれた。
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あえて語ることの意味

2009年02月16日 | 暮らし
中川財務相「風邪薬のせい」 酩酊会見疑惑 前日にワイン、深酒否定(産経新聞) - goo ニュース

唖然【あぜん】とするよりほかなかった。
彼は、完全に酔っ払っていた。だれが、どう見たって、ひどく酒に酔っているとしか思われなかった。

あの総理大臣がいて、この財務大臣がいる。道理で、私たちの国が、これほどまでひどくなるわけだ。

それに比べ、エルサレム賞の授賞式での村上春樹さんのスピーチは、とてもスマートだった。

その中で、村上さんは「語らないことより、語ることを選んだ」と語った。
私は、そこに作家の魂のようなものを感じた。
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将棋で遊ぼう

2009年02月15日 | 将棋
昨日、町の社会福祉協議会が主催する高齢者と子供たちの囲碁・将棋交流大会が行われた。今年で3回目になる。大会の運営は、社協の職員のみなさんと囲碁・将棋それぞれの世話人が務める。囲碁の世話人は6名いるが、将棋の方は私1人だけ。そこで、初回からずっと、佐世保市にお住まいの秀楽の松山先生と、元高校将棋三冠の増本敬君のお父上に助っ人をお願いしている。

参加費は大人100円・子供50円だが、参加賞を始め、A級・B級・C級それぞれ3位までの表彰があり、ちゃんと賞状・トロフィー・盾も贈られる。それらとは別に、将棋の方は松山先生から深浦王位の扇子2本と詰め将棋の冊子を2冊提供いただいた。こちらは、順位に関係なく、くじ引きで決まる。

大会は午前9時から始めるが、毎年、ボランティアのみなさんにより昼食におにぎりが振舞われる。昨年は1人2個だったが、今年は1個増えて3個になった。農家の方が米の寄付を申し出られたことによる。とにかく、みなさんの善意からなる手作りの大会なのだ。
参加者も、県代表を決めるような大会に出場される方ではなく、子供の頃、よく将棋で遊んでいた、という方々ばかりである。しかし、だからこそ純粋に将棋を楽しんでおられる様子が伺われる。

この日、B級で参加していただいた末吉さんは全敗されたが、食事をする時間が惜しいほど夢中になってしまってと、久しぶりの将棋を堪能【たんのう】されていた。
町長と議長のお2人にも将棋の方に参加していただいたが、特に、町長には最後の表彰式までお付き合いただいた。公務としてではなく、参加者の1人として楽しんでいただけたようで嬉しかった。

強さを競うことだけを目的とするのではなく、将棋で遊ぶ、将棋の楽しさがなんとなく感じられる、このような大会がもっと増えたらいいなと思う。

       
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チョコレートの味は

2009年02月14日 | 夫婦
きょうはバレンタインデー。
女房どのから、いつものように2種類のチョコレートをもらった。1つは、普通のチョコレート、もう1つは、酒類を愛して止まない私のためにウイスキーボンボン。

今夜は、商業主義が云々【うんぬん】なんて野暮【やぼ】なことは言わないで、贈ってくれた人の気持ちをチョコレートと共にかみしめていよう。

言葉は……いらない。
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人間も面白い

2009年02月13日 | 暮らし
言語と脳、心と脳についての話の続きだが、先日の「爆笑問題のニッポンの教養」の中で、太田さんは、言葉にすることは心を区切ることであり、言葉と言葉の間を取りこぼすことである。思いを言葉で表そうとしても近似値にしかならない。やればやるほど近くなるけれど、むしろ離れていく。言葉に比べ、心のなんと自由なことか、と語っていた。
ランガーの「大きな海と小さな孤島」の話に通ずる。

こうしてブログなどを記していると、いやでもそれを強く感じざるを得ない。その通りである。
しかし、人間は、心の自由を、ただ謳歌【おうか】しているだけのところにはとどまることができない。加藤秀俊さんのいうように、言葉というわずかな出口を使い、心の中で感じていることをなんとか、より忠実に表出しようと懸命にもがく。なぜなら、人間は、他者とのつながりを求める存在だからだ。
毎日の、身の回りにおこる出来事について感じる内側の世界を、余さず表現しようと思えば思うほど、感覚の大海は際限なく広がり、それを表出することの困難に、ただなすすべもなく、波間に身をゆだねるほかないのにだ。

ああ、つくづく人間も面白い生き物だと思う。
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新しい生活

2009年02月12日 | 暮らし
くるくる首相 郵政答弁、「反対」「賛成」苦しい弁明(朝日新聞) - goo ニュース

昨年の9月13日、その前日に日本記者クラブで行われた自民党総裁選の公開討論会が行われている。その模様をNHKの中継放送を通して見ていたが、その感想をブログに記している
【日頃から、麻生候補の言っていることがさっぱり分からないのだが、この日、かろうじて積極的に財政出動をするつもりだということが理解できたくらいで、あとはやはり何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。自称経済通をアピールしたいのだろう細かい数字をあげたりするのだが、残念ながら言語明瞭・意味不明だ。こちらの理解力が足りないのだろうか。】

ちなみに、この席で麻生首相は「間違えていただいて困るのは、わたしが郵政民営化大臣だった」と気色【きしょく】ばんだ。
ところが、最近になって「わたしは郵政民営化の大臣ではなかった。濡れ衣をかぶせられると甚【はなはだ】だ面白くない」と堂々と述べている。まったくもって理解不能だ。
また、一般には「濡れ衣を着る」と使われる。

あれから5ヶ月、私の理解力の有無はさておき、麻生首相の言っていることがさっぱり分からないと言う人がずいぶん増えてきているようだ。
「ぶれを通り越して支離滅裂」とは民主党の山岡代議士の言だが、郵政民営化から後退とも受け取られる今回の麻生首相の答弁に関し、自民党の奥田幹事長までもが「非常に分かりにくい内容だった」と語っている。

政治が国民を絶望の淵に沈めようとしている。希望は、あるのか。

中学3年生の国語の教科書に魯迅【ろじん】の「故郷」(竹内好訳)が出版社を問わず、長きに渡り採用されている。
故郷を後にする船の中で、主人公の「わたし」は、若い世代に対し「彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように」と「無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」「打ちひしがれて心がまひする生活」「やけを起こして野放図に走る生活」をしてほしくないと願う。
さらに、「希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を」と考える。

「思うに希望とは、元々あるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
「故郷」の最後はこう締めくくられている。

理想を掲げ、それぞれがそれぞれの暮らしの中で、よりよく生きていくことにより、希望は生まれ、理想は実現し得るものなのだ。それが魯迅のメッセージではないだろうか。

すべての国民が希望を抱き、安心して暮らせる社会の実現を願って止まない。その日まで、私は絶望してはならない。
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感覚の大海

2009年02月04日 | 暮らし
人間内部の心の状態と言語の関係を、大きな海と小さな孤島にたとえた哲学者のスーザン・ランガーの話に興味を持ったばかりだったが、昨夜の「爆笑問題のニッポンの教養」では、自然科学の立場から脳と言語の関係を解き明かそうとする言語脳科学者・酒井邦嘉さんと太田さん・田中さんの対談をたいへん興味深く聞いた。

酒井さんは、脳内の働きを調べる実験を行うことで、人が文章の組み立てを行っている時に必ず活動する部位を発見した。人間は、その「文法中枢」が司【つかさど】る言葉を駆使することにより、感情をより精密に伝え、複雑な思考まで獲得し得たと彼は考える。

彼らの対談を聞き、彼らの語る言葉の向こうに広がる気持ちを想像するとき、私の感覚の大海は途方もなく広がり、今日も、ただ呆然【ぼうぜん】と波間に漂うばかりだ。

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ただ ゆらゆらと

2009年02月02日 | 家族
【人間内部の心の状態と言語の関係を、哲学者のスーザン・ランガーは、大きな海と小さな孤島にたとえた。ランガーによれば、人間の直接体験の世界は、感覚という大海である。それは果てしなく、そして深い。そして、それは個々の人間の内部にあって、第三者には、うかがい知ることのできない世界だ。
その世界の一部を、我々人間は言語にして、外に向かって「表現する」。しかし、そんなふうに「表現」できる部分というのは、感覚の大海に比べれば小さな島のようなものでしかない。我々が言語化できる部分、他人に伝えることのできる部分は、我々が、実際に心の中で感じていることのすべてに比べれば、実にわずかなものだ―ランガーはそういうのである。
  ―中略―
だが、心の中にあるすべてのことが言語化され、表現されうるものだ、という考え方はまちがっている。どうしても言語にならない、感覚の大海が沈黙のまま、我々の内部に横たわっているのである。人間は、その大海の表層の一部を言語化し、それによって辛うじて他の人間との間に、かすかなつながりをつくる。不十分だけれど、人間の言語化能力は、それだけしかないのだから、しかたがない。
だが、この言語というわずかな出口を使って、内側の世界を表出しようという欲求は、きわめて強い。いや、出口が小さいからこそ、その欲求が強い、といったほうがよいのかもしれぬ。言語の能力を獲得した人間は、ちょうど水そうに穴があいたようなもので、その穴から絶え間なく、外に向かって内部世界を放出しはじめる。】

これは、先の冬期講習会で用いた中学3年生の国語のテキストに収められていた加藤秀俊著「自己表現」の一部である。なるほどと思う。
ここしばらく、私は、その果てしなく、そして深い感覚の大海の波間に身を任せ、ただゆらゆらと漂うばかりであった。

昨日、くるみさんに頼まれていたものを届けに、女房どのと2人で大村まで出かけた。この日、久しぶりに青空が広がり、風もなく、大村湾の海面は鏡のように滑らかで太陽の光を映していた。

有紀さんがそうだったが、負けず劣らず、くるみさんも橘香館が大好きだ。先日会った際、自分のこれまでの選択で、橘香館を選んだことは最良であったと力をこめて語っていた。
そんなわけで、くるみさんも、なかなか佐々に帰ってこない。先日は、センター受験を終えた3年生と食べ放題の食事に出かけ、その後、カラオケに行ったという。同級生や先輩との交流を始め、高校生活を満喫しているようで微笑ましい。

正午過ぎに寮に到着し、有紀さんの時代からしばしば利用している鈴田峠の農村レストランで昼食をとりつつ、互いの近況を報告しあった。

その後、お定まりのコースとなっている大村ジャスコを訪れ、くるみさんの衣類や日用品・食料等を購入したが、ついでにバレンタインデーの先取りということで、女房どのから写真の品をプレゼントしてもらった。
キーホルダーと名刺入れブレザーとマフラー
楽しい買い物を済ませ、くるみさんを寮に送り、いつものように寮の玄関前で写真を撮り、帰途に着いたとき、時計の針は早、夕方6時をさしていた。
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