体調が戻った。あの腰と腕の痛みはなんだったのだろう。こうなるとすぐに出かける。月曜日の買い出しだ。1週間で稲が育っている。別の田んぼでは機械での田植えがされていた。始めて近くで見る機械での田植えだ。じつにすばらしい技術だ。そんななかを琵琶湖のほうから涼しい風が吹いてくる。
あさドラのエールで父のことを思い出すことが多い。父は西城八十に師事していたという。父のアルバムにそんな集まりの、大正ロマンの匂いがする写真があった。なかなかの紳士だった。文学青年で本はたくさん読んでいたらしい。弟(叔父)とは山男で二人でよく出かけたらしい。そんな写真もたくさんあった。そして、スキーも板が物置にたくさんあった。祖父が三越の紳士服のお抱え職人で高給取りだったというから、道楽息子だったのだろう。そして、戦争へ。父は肋膜を患ったので、すぐに還されてきた。叔父は終戦に近いころ、軍の演習中に自死したという。定かなことは分からず、祖母は精神を病んだという。父は企業に勤めていたがやめて、家業を継いだ。そして、母と結婚をした。20回目に近い見合いだったという。
父は私に泳ぎや自転車乗りを教えてくれた。母の話では私をとてもかわいがっていたという。私の着ているオーバーなどは父が縫ってくれた上等なものだった。(今写真を見ると)父は週末働いていた人たちを連れて、都内のバラ園などによく出かけた。それ以外はほとんど道楽をしなかった。おとなしく祖父の仕事を継いでいた。この頃、父の悲しみがわかるようになった。弟を自死で失い、自分は戦争に行けずにいたという、そのつらい気持ちと悲しみがその後の父の人生を決めたような気がする。文学的には才能のある人だったのだろうに・・・。
母は父が結婚を決めるくらい美人であった。私は似ていないので「お父さんに似た女の子は幸せになれるのよ」と慰められた。それは今、当たっていたと思う。