また雨になった。昨日は雷もひどく、夕方の買い物が遅くなった。小降りになったので郵便を出しに行くと、大家さんの家のペニーが玄関に出ていた。雷におびえて家中を駆け回っていたという。珍しくペニーから寄ってきたが、ぶるぶる震えていた。おとなしくしているので、写真を撮ってあげられた。お蔵入りだ。胸に小骨が刺さったようでなにか気分がすっきりしない日だったのでうれしかった。
最近は普通にものが言えない人が多いのだろうか。誰かが具合が悪くて入院したと聞いたら、普通は見舞いに行かなくても「どうぞお大事に、静養されてください」が普通のいい方だ。(ほかの人も聞く言葉であればなおさら)私の小骨もそんな感じだった。思わず辞書を調べた言葉もあった。「拝察」だ。「推察」の謙譲語だ。だいたい謙譲語の意味がわからないのか・・・。何事も思うのは自由だが、言葉として発せられる時は責任が生ずる。その発した言葉から、その人の人となりが推し量られる。私などはすぐに「なんと気持ちの小さい人なのだろう」と思ってしまう。
昨夜はそういう小骨のせいもあるのか、夜中に目が覚めた。そのうちに眠れると思っていたが、頭が冴えてきた。読みかけのお友達から借りた「若冲」(澤田瞳子著)を読み出した。今までのイメージとは違う若冲が出てきている。もちろん、筆者がイメージする若冲の絵に対する気持ちだが。義弟に対する確執が複雑に作品に反映していく。そんな物語を読みながら、今まで気が付かなかったなにか大きな愛情を感じた。特に、石峰寺の石仏に関して読みながら、訪れた日のことを思い出した。
私はキリスト者だが、遠い宇宙のどこかから届けられるような、仏の心というのか。死というものと向き合って生きた人間が持てる仏のような愛情のようなものを感じた。(わかりにくい独り言ですみません)