太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

寡黙な人

2013-05-16 09:10:09 | 人生で出会った人々
日本の旅番組をみていたら、ある漁村にレポーターが立ち寄った。

午後の3時だというのに、お年寄りの男性が家の前で一杯やっている。

今日は海が時化て漁ができないので、早々に晩酌なのだという。

にこにことしているが、ぺらぺらしゃべる感じではない。


この村で生まれて、海で獲った魚を行商して、13人の子供を育てあげ、3年前に妻に先立たれ、

きっとこの村で死ぬのだろう。

「おじいちゃん、寂しくないですか」

テレビのレポーターというのは、どうしてこんなことを聞けるんだろう、というようなことを平気で聞く。

「そら寂しいよ。寂しくない、つったら嘘になるわなー」

「おじいちゃんにとって人生ってなんでしょうね」

なんでまた、そんな答えにくいようなことをサラーと聞くんだ!と怒っていたら、男性は見事に答えてくれた。


「天気がいい日もありゃぁ雨の日もある。まあ、そうゆうこっちゃ」



寡黙な人というと、母方の叔父を思う。

母は8人きょうだいの7番目で、1番年長の姉が嫁いだあとに母が生まれた。

その叔父はその姉の下、2番目の兄だ。

叔父は戦争に行った。

終戦になり、しばらくたった朝早くに、母は家の前にいた。

そのときに一面の田んぼにかかった朝霞の中を、ざっざっという足音とともに帰ってきた叔父の姿が、

ずっと目の裏に残っていると母は言う。

叔父は、戦争のことを一切話すことはなかった。

家の者も聞かなかった。

ただ、なにごともなかったように、叔父は教師になった。

もともと寡黙だった叔父が、戦争から戻ったあと、さらに寡黙になった。



戦争が終わって40年以上が過ぎたあるとき、ぽつりと叔父が母に話した。

叔父は、いわゆる赤紙を書く仕事の手伝いをさせられていたのだという。

赤紙が来たら、戦争にいかなければならない。それはすなわち「死」の宣告のようなもの。

未来ある若者たちに、国のために死ねよという紙をつきつける仕事を

同じ日本の若者として、叔父はどんな気持ちでやっていただろう。



前述の男性。

13人の子供を育てるのは、生半可のことではないだろう。

妻に先立たれるつらさも寂しさも、いかほどのものだろう。

わが身の苦難を、くりかえし話したがる人もいる反面、この男性や叔父のように、

その蓋を固く閉じてしまう人もいる。

これはもう、性格としかいいようのないものなのだろうけれども、

寡黙な人の思いがけない過去を垣間見たときのインパクトは強い。


特に私のような、なんでも話してしまう人間には、

彼らのような寡黙さは、修行を積んだ仙人にも似た離れ業に思えるのである。







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