私が子供の頃、今ほど水洗トイレが普及していなかった。
家を建て替える前の我が家のトイレも汲み取り式で、
定期的に衛生車がやってきた。
匂いを我慢しながら、汲み取っているホースが、時折生き物のようにボヨンと動くのを眺めたりしていた。
あれは1年か2年生ぐらいの頃だ。
トイレに入った私に、災難が降りかかった。
便器をまたごうとしたら、私には大きすぎる大人用のスリッパがもたついて、
片足が着地するはずの場所より手前に着地した。
手前といっても、そこは「穴」しかなく、当然私の足は穴の中へ落ち、
やせっぽちだった私の身体も、あっというまに落ちた。
かと思いきや、私の両肘が便器のふちをガッシ!とつかみ、すんでのところで落ちずに済んだ。
日頃、小学校の うんてい という遊具で腕を鍛えておいてよかったと思った。
奈落の底、という言葉があるが、
私が人生で初めて「奈落の底」を見たのは、このときであった。
普段から、汲み取り式トイレ(私は ぼっとんトイレと呼んでいた)の穴の中を見ないようにしていた。
そこは暗くて、奥のほうから風が吹いてきたりすることもあって、
臭くて、なにかよからぬものが潜んでいるようで怖かった。
その穴に、今自分の身体が半分落ちかけている。
その恐ろしさときたら、言葉では説明がつかない。
とりあえず、肘で支えているから落ちずにいるが、いつまで肘がもつかわかったものではない。
ところで、
人はなぜ、見てはいけないとわかっているものを、あえて見てしまうのだろうか。
映画のシーンで、恐ろしい雰囲気の中で、物音がする方を確かめようとする登場人物。
高いビルの壁にぶるさがってしまい、見なければいいのに下を見る男。
あれはストーリーを盛り上げるための演出ではなく、人間の自然な行動なのだということも、
私は1年生の時に学んだ。
私は穴の中を見た。
暗い。臭い。ぬめぬめしている。こんなに近くで見ても、そこは奈落のブラックホールであった。
穴の中を見てしまってから、堰を切ったようにすさまじい恐怖がせりあがってきた。
助けを呼ばなくては、と気づき、声を出してみるが、
肘に渾身の力をこめているせいか、恐怖のせいか、喉が詰まったようになって大声が出ない。
それでもできる限りの声を振り絞った。
助けは来ない。
肘の力が尽きたら私はどうなるのだろうか。
幸い、汲み取りをしたばかりで底は浅いようだけれど、○○こまみれで窒息するなんてあんまりだと思った。
どうせ死ぬなら、別のことのほうがよかった。
肘がぶるぶるし始めた頃、祖母が私に気づいて助けてくれた。
それ以来、汲み取り式トイレが以前に増して怖くなった。
と同時に、なぜかトイレに関する災いがつきまとうようになったのも、この頃からだ。
災いとは、『行きたいのに、行けない』という状況にばかり陥るのである。
遠足のバスの中で、長じてからは、付き合い始めたばかりの相手とドライブしている車の中で、
旅先のマイクロバス並みの大きさのプロペラ機の中で、
それはもうバカみたいに、行きたいのに行けない、トイレがない、という状況を繰り返すのだ。
水分をあまりとらないようにして、乗り物に乗る直前には何度もトイレに行って、
そうして臨んだ車内で、あの感覚が下腹部を襲ってくると、もう泣きたいような気持ちになった。
30を過ぎた頃、ようやくその災難は去った。
しかしその災難の中で、私は奇跡を体験したのである。
その話はまた次の機会に。
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家を建て替える前の我が家のトイレも汲み取り式で、
定期的に衛生車がやってきた。
匂いを我慢しながら、汲み取っているホースが、時折生き物のようにボヨンと動くのを眺めたりしていた。
あれは1年か2年生ぐらいの頃だ。
トイレに入った私に、災難が降りかかった。
便器をまたごうとしたら、私には大きすぎる大人用のスリッパがもたついて、
片足が着地するはずの場所より手前に着地した。
手前といっても、そこは「穴」しかなく、当然私の足は穴の中へ落ち、
やせっぽちだった私の身体も、あっというまに落ちた。
かと思いきや、私の両肘が便器のふちをガッシ!とつかみ、すんでのところで落ちずに済んだ。
日頃、小学校の うんてい という遊具で腕を鍛えておいてよかったと思った。
奈落の底、という言葉があるが、
私が人生で初めて「奈落の底」を見たのは、このときであった。
普段から、汲み取り式トイレ(私は ぼっとんトイレと呼んでいた)の穴の中を見ないようにしていた。
そこは暗くて、奥のほうから風が吹いてきたりすることもあって、
臭くて、なにかよからぬものが潜んでいるようで怖かった。
その穴に、今自分の身体が半分落ちかけている。
その恐ろしさときたら、言葉では説明がつかない。
とりあえず、肘で支えているから落ちずにいるが、いつまで肘がもつかわかったものではない。
ところで、
人はなぜ、見てはいけないとわかっているものを、あえて見てしまうのだろうか。
映画のシーンで、恐ろしい雰囲気の中で、物音がする方を確かめようとする登場人物。
高いビルの壁にぶるさがってしまい、見なければいいのに下を見る男。
あれはストーリーを盛り上げるための演出ではなく、人間の自然な行動なのだということも、
私は1年生の時に学んだ。
私は穴の中を見た。
暗い。臭い。ぬめぬめしている。こんなに近くで見ても、そこは奈落のブラックホールであった。
穴の中を見てしまってから、堰を切ったようにすさまじい恐怖がせりあがってきた。
助けを呼ばなくては、と気づき、声を出してみるが、
肘に渾身の力をこめているせいか、恐怖のせいか、喉が詰まったようになって大声が出ない。
それでもできる限りの声を振り絞った。
助けは来ない。
肘の力が尽きたら私はどうなるのだろうか。
幸い、汲み取りをしたばかりで底は浅いようだけれど、○○こまみれで窒息するなんてあんまりだと思った。
どうせ死ぬなら、別のことのほうがよかった。
肘がぶるぶるし始めた頃、祖母が私に気づいて助けてくれた。
それ以来、汲み取り式トイレが以前に増して怖くなった。
と同時に、なぜかトイレに関する災いがつきまとうようになったのも、この頃からだ。
災いとは、『行きたいのに、行けない』という状況にばかり陥るのである。
遠足のバスの中で、長じてからは、付き合い始めたばかりの相手とドライブしている車の中で、
旅先のマイクロバス並みの大きさのプロペラ機の中で、
それはもうバカみたいに、行きたいのに行けない、トイレがない、という状況を繰り返すのだ。
水分をあまりとらないようにして、乗り物に乗る直前には何度もトイレに行って、
そうして臨んだ車内で、あの感覚が下腹部を襲ってくると、もう泣きたいような気持ちになった。
30を過ぎた頃、ようやくその災難は去った。
しかしその災難の中で、私は奇跡を体験したのである。
その話はまた次の機会に。
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