誰だって、自由じゃないよりは自由なほうがいいと思っていると思うけれど、
ほんとうにそうだろうか。
物心ついてからずっと何かしら目標があった。
家庭で、良い子供になる目標とか、学校で良い生徒になる目標とか、
勉強ができるようになるとか、良い学校や会社に入る目標とか、
いつだって「正しい将来像」「正しくない将来像」というのがあって
正しいほうに近づくようにがんばればよかった。
だけど、幸せの形は人それぞれだから、ご自由にどうぞ。と言われたら
途端に不安になる。
まず何が自分の幸せかがわからない。
子供の頃は、みんなそれを知っていたのに、正しいことと、幸せを感じることとの折り合いがつかなくなってゆき
正しくあることが幸せであるかのように錯覚してしまう。
もちろん私だってそうだ。
だから人生の転機にいるとき、
「これは私を幸せにする正しい道だろうか」
と考えたりする。
宗教や占いにはまる人達の気持ちが、私にはわかる気がする。
こうすれば幸せになる、というものさしがあれば、それに沿っていればいいのだから安心だ。
多少窮屈でも、自分は正しいかどうか不安になるよりはマシだと思うのだろう。
人の恐れをあおりたてるような本や雑誌が多く出ていることに気づく。
『○才から伸びる人、伸びない人』『○才でやっておくべき20のこと』『○○で成功する人、しない人』・・・
特に、二元的に「ダメな人」と「ダメじゃない人」に分けるのが目立つのは、ブームなんだろうか。
昔話題になった「負け組、勝ち組」に感じたのと同じ違和感がある。
私たちは何をそんなに恐れているんだろう。
こうあるべき何かを用意されて、自分がダメかダメじゃないかを決めてほしいと思うほど、
どうして不安になるんだろう。
人と違っても、自分の幸せはこれだと胸を張って言うのに勇気がいるのはどうしてだろう。
みんな幸せになりたい。
しかし幸せとは人からも認められなければ成り立ちにくいと思っているのだから面倒だ。
幸せとは条件ではなく、心の状態のことである、と書いてあったのは何の本だったか。
確かにそのとおりだと思っても、
社会に戻ればまた、条件によって心が満たされるのを期待している。
そして
大切な人が今日、この世からいなくなってしまったら、
自分が重い病だと、今日わかったら、
不満だらけだった昨日までの日々が、どれだけ幸せであったかを思い知るのだ。
今日はなんだか、そんなことを考える日だ。
-->
ほんとうにそうだろうか。
物心ついてからずっと何かしら目標があった。
家庭で、良い子供になる目標とか、学校で良い生徒になる目標とか、
勉強ができるようになるとか、良い学校や会社に入る目標とか、
いつだって「正しい将来像」「正しくない将来像」というのがあって
正しいほうに近づくようにがんばればよかった。
だけど、幸せの形は人それぞれだから、ご自由にどうぞ。と言われたら
途端に不安になる。
まず何が自分の幸せかがわからない。
子供の頃は、みんなそれを知っていたのに、正しいことと、幸せを感じることとの折り合いがつかなくなってゆき
正しくあることが幸せであるかのように錯覚してしまう。
もちろん私だってそうだ。
だから人生の転機にいるとき、
「これは私を幸せにする正しい道だろうか」
と考えたりする。
宗教や占いにはまる人達の気持ちが、私にはわかる気がする。
こうすれば幸せになる、というものさしがあれば、それに沿っていればいいのだから安心だ。
多少窮屈でも、自分は正しいかどうか不安になるよりはマシだと思うのだろう。
人の恐れをあおりたてるような本や雑誌が多く出ていることに気づく。
『○才から伸びる人、伸びない人』『○才でやっておくべき20のこと』『○○で成功する人、しない人』・・・
特に、二元的に「ダメな人」と「ダメじゃない人」に分けるのが目立つのは、ブームなんだろうか。
昔話題になった「負け組、勝ち組」に感じたのと同じ違和感がある。
私たちは何をそんなに恐れているんだろう。
こうあるべき何かを用意されて、自分がダメかダメじゃないかを決めてほしいと思うほど、
どうして不安になるんだろう。
人と違っても、自分の幸せはこれだと胸を張って言うのに勇気がいるのはどうしてだろう。
みんな幸せになりたい。
しかし幸せとは人からも認められなければ成り立ちにくいと思っているのだから面倒だ。
幸せとは条件ではなく、心の状態のことである、と書いてあったのは何の本だったか。
確かにそのとおりだと思っても、
社会に戻ればまた、条件によって心が満たされるのを期待している。
そして
大切な人が今日、この世からいなくなってしまったら、
自分が重い病だと、今日わかったら、
不満だらけだった昨日までの日々が、どれだけ幸せであったかを思い知るのだ。
今日はなんだか、そんなことを考える日だ。